伝説のアートディレクターであり、絵本作家でもあった堀内誠一さん。その痕跡を求め、彼が身近に置いた品々や大切にしていたものをそっと取り出し見つめます。家族しか知らないエピソードや想い出を、路子夫人、長女の花子さん、次女の紅子さんにお話いただきました。堀内さんのどんな素顔が見えてくるでしょうか?
飯野和好さんのお土産
「きむずかしやのピエロット」
(前編)堀内さんとの出会い
談=堀内花子
この絵は私が小学校5、6年生の頃、ある晩おそく、父が「ヒッピー風」の男性を連れてきて、「お嬢さんに」とくださったものです。当時私は、メルヘンな少女の世界に憧れていたので大喜びしました。しかも、呪文のように書かれたアルファベットは、よくよく見れば習ったばかりのローマ字の少女のつぶやきなのです。
「お嬢さんに」というのは、私のかってな思い込みのようです。とはいえ、この絵の作者が飯野和好だと知るのに時間はかかりませんでした。父がananを創刊号から家に持ち帰っていたからです。小学生ながら、私はカラーページのイラストレーター、写真家、デザイナーを当時から、しっかりチェックしていました。
父がananのアートディレクターを辞し、フランスに移住してからは、父と飯野さんのお付き合いはなかったようです。でも、私たちはずっと飯野さんのお仕事に興味津々でした。あるときから、がらりと作風のちがう作品を刊行されます。『ねぎぼうずのあさたろう』を私より先に手にした母は大喜びして、読者カードを送っています。




巻頭に掲載された「きむずかしやのピエロットのものがたり」。 それぞれの絵には「今は なんとも快い トロトロの風に 身をまかせていれば それで充分だと 言えましょう」など、つぶやきのような言葉が添えられている。 「音楽に歌詞があって曲になっているように、絵に言葉を添えてみたんです」と飯野さん。
堀内家の棚の上にそっと置かれた額装された絵。描かれているのはレストランの内部でしょうか。左側のテーブルには目玉焼きの乗ったお皿に赤ワインの入ったボトル。革靴を履いた男性はちょうど席に着くところです。右側のテーブルは食事を終えた男性が席を立ったところ。エプロンをした少女が椅子を引いて、店主らしき男性がお辞儀をして見送りをしているようです。遠景には小さな家が三軒。絵のところどころに文字が綴られています。絵本作家の飯野和好さんが堀内家にお土産として持参したというこの絵。上の方の文字部分に「’72」とありますので、1972年に描かれたものだと思われます。
堀内さんがアートディレクターとして、ヴィジュアルイメージだけでなく、誌面の内容作りにも深く関わった「anan」は、日本で初の女性のためのファッション誌として1970年3月3日に創刊されました。パリやロンドンなど、外国の街を舞台にしたファッションページ、新しいカルチャーやライフスタイル、音楽や文学、星占いなどを盛り込んだこれまでにない充実の誌面が話題を呼びました。そんな中に堀内さんは世界の様々な絵本や、若手のイラストレーターによる絵を紹介するページも盛り込みます。1970 年7月5日刊の第8号の巻頭には「きむずかしやのピエロットのものがたり」が登場。「イラストレーションとおはなし」は飯野和好さんです。
現在、絵本作家として活躍し、多くの人気作を世に出してきた飯野和好さん。1947年生まれの飯野さんは当時23歳でした。ファッション画を描きながら、自分らしい絵を描きたいと模索をしていました。新宿にあったセツモード・セミナーで知り合ったスズキコージさんに誘われて、堀内誠一さんを訪ねます。たくさんのイラストを抱えていったという飯野さん。堀内さんはそれらを見ると、即座に「これとこれを載せるから」と言って、瞬く間にレイアウトまでしてしまったといいます。飯野さんにとって、堀内さんと出会ったことは人生の大きな転機となりました。鎌倉の飯野さんのアトリエで、飯野さんと花子さんに当時を振り返りながらお話をしていただきました。
花子:この絵は、いただいてからずっと食卓の近くにかけていて、私のお気に入りでした。
飯野:そうだったんですか。ありがたいです。今回、この絵のことは、こうして目の前にするまで、私は全く忘れていました。懐かしいですね。
花子:飯野さんが、若林のうちに一度いらしたときに、持ってきてくださったんですよ。
私が小学校5、6年生くらいの時だったと思います。
飯野:一度、堀内さんの家にお邪魔させてもらったんですよね。堀内さんと初めてお目にかかったのは、1968年でした。セツモード・セミナーで、ズキン(スズキコージ/絵本作家)と出会って、なんか気が合ったんですよね。いろいろ一緒に遊ぶようになって。私はその頃、洋服のスタイル画、モードイラストレーションを仕事で描いていたんですけど、周りの仲間たちに「お前、企業の仕事なんかしてんのか!?」とか言われてね。それで、自分が子どもの時に描いていたような絵、自然に自分が描きたい絵を描いてみようと思って、描いてたんです。それを出版社に持ち込んだり、人に見せると「気持ち悪い」って言われて、全然うけなくて、困ったなーって思っていました。そうしたらズキンが「すごい人がいるから、絵を持って行こう」って、当時六本木にあった堀内さんの仕事場に一緒に行ったんです。
花子:平凡出版(現マガジンハウス)の編集部ですね。コージさんは「平凡パンチ女性版」(1966年8月10日刊 平凡出版)で、父が絵を載せてから出入りされていましたものね。コージさんも誰でも連れて行ったわけじゃないと思うんですよ。飯野さんだからお連れしたんでしょうね。
飯野:その頃は本当に仲間がいろいろ助けてくれた時代でしたね。それで、私が抱えていった絵を堀内さんは机に並べて「これとこれ、使うから」っておっしゃって、その場でぱぱーっとレイアウトしてくださったんです。そうしたら、もうそこには世界が作られていました。私の絵が、自分の想像を超えて、物語を作り出していました。もうびっくりして。この人は他の人とはぜんぜん違うと思いました。
花子:ピエロットというタイトルは最初からあったのですか。
飯野:堀内さんが「きむずかしや」と付けて、「きむずかしやのピエロットのものがたり」と名付けてくださったんです。
花子:そうだったんですね。ananに飯野さんの絵が載ったのはこの8号と、12号(1970年8月5日)、30号(1971年6月5日)、48号(1972年3月5日)の4冊ですね。
飯野:そうですね。堀内さんに一度、絵を見てもらってから、もうこの人しかいないって思って、他に売り込みに行ったりするのはやめました。絵を描き溜めて、堀内さんに見てもらおうと時々仕事場に行きました。堀内さんは忙しそうに仕事されているので、終わるまで隅の方で黙ってじーっと待っていました。それで、仕事が終わると絵を見て「これを使おう」を言ってくださり、「じゃあ、飲みに行こう」って、飲みに連れていってもらうこともあって。それで一度「うちに行こう」って言ってくださって、一度だけ、世田谷のお宅にお邪魔しました。その時にこの絵を持っていったんですね。
花子:父は「週刊平凡」や「平凡パンチ」など、それまで自分が関わった雑誌を家に持って帰ってこなかったので、見たことはなかったんです。ananだけは持って帰ってきたので、私は全ページをくまなく見ていました。この絵を見た時も「あー、あの絵だ!」とすぐに分かりましたし、飯野和好さんのお名前も記憶にしっかりありました。そしてこのローマ字で書かれたおまじないのような言葉にハマっていました。
飯野:最初は日本語で書いていたんですよ。
花子:たしかにanan8号の絵では日本語ですね。
飯野:日本語だとちょっと照れくさくてね。ローマ字だと読む人は読むし、読まない人は読まない。ちょっと暗号っぽくなるのでその方がいいかなと思って、この後はローマ字でどんどんやっていったんです。
花子:「SORE WA SONO-HITONO ……思っていた以上のものだった」(絵を見ながら)
飯野:ワインが美味しかった。思っていた以上に料理とワインが美味しかった。
花子:そういうことだったんですね、なるほど。足だけ見えていたり、不思議な絵です。
飯野:シュールな感じが好きなんです。堀内さんの家を訪ねたときもちょっと不思議でこわい感じがありましたね。窓辺に黒いレースみたいな服を着た人が座っていてびっくりした覚えがあります。
花子:あ、きっと矢川澄子さん(詩人・翻訳家)ですね。母と親しくして、よくいらしていたので。父としては、飯野さんのこと、だいぶ気にかけていたのだと思います。若い人のこと、よく面倒を見てましたけど、家に呼んだりまでは、そんなにしませんでしたから。
飯野:本当にありがたいです。堀内さんにお会いしてなかったら今の私はなかったと思います。自分の描く絵を多くの人は「気持ち悪い」と言って、受け入れてくれないという話をしたら、堀内さんは「そんなのほっておけばいい。わからない人にはわからないんだから。面白がる人はいるから」っておっしゃっていました。それで「ああそうか」って思うことができたんです。堀内さんの言葉で、自分でこれだって思ったら、それを信じていいんだって自信を持つことができました。その後は、受け入れられなくても「この人にわからないだけだ」と思って、自分を信じて、自分の絵を描いていくことがきるようになったんです。
堀内さんは、1972年、49号(4月5日刊)を最後にananのアートディレクターを退き、1973年からパリに移り暮らします。その少し前に「飯野くん、今度ananで特集組むからね」と話していた企画は、残念ながら実現しませんでした。
その後、飯野さんは「ユリイカ」や「詩とメルヘン」などの雑誌で表紙絵やカット、「もじゃもじゃペーター」の挿絵を描くなどイラストレーターとして活躍するようになります。そして1981年、初めての自作絵本となる「わんぱくえほん」(偕成社)を出版し、絵本作家としての道を歩み始めるのでした。
(文=林綾野)
〈後編はファンタジーあふれる飯野和好さんの絵本世界と堀内さんとの関わりについてのお話です。配信日は、6月20日です。〉
第1回 若き日のパスポート、第2回 初任給で買った画集、第3回 石元さんからの結婚祝い、第4回 パリ、堀内家の玄関 、第5回 トランプ遊びと安野光雅さんとの友情、第6回 ムッシュー・バルマンの瓶と香り 、第7回 ダッチ・ドールと古い絵本、第8回 パペットと人形劇 、第9回 お気に入りのサントン人形、第10回 瀬田貞二さんとの思い出、第11回 愛用の灰皿、第12回 お気に入りのバター型 、第13回 ルイ・ヴィトンのトランク、第14回 梶山俊夫さんの徳利とぐい呑み、第15回 ミッキーマウスの懐中時計、第16回 少年崇拝、第17回 スズキコージさんのスケッチブック(前編)、第18回 スズキコージさんのスケッチブック(後編)、第19回 コリントゲーム 、第20回 谷川俊太郎さんからの手土産 、第21回 2冊のまめ本、第22回 騎士のマリオネット、第23回 クリスマスのカード、第24回 お面に惹かれて、第25回 お気に入りの帽子、第26回 愛用のカメラ、第27回 デンマークのヴァイキング人形、第28回 メキシコのおもちゃ(前編)、第29回 メキシコのおもちゃ(後編)、第30回 最後まで飲んでいたスコッチウイスキー、第31回 エピナールの紙人形とおもちゃ絵、第32回 バルセロナの人形、第33回 パリ自宅の棚、第34回 ドイツのカラス指人形、第35回 コーデュロイのコート、第36回 堀内家のシュークルート、第37回 バルセロナから来た黒板、第38回 地図、第39回 クロード岡本さんのタイル画、第40回 岩波手帖、第41回 デルフト・タイル、第42回 長新太さんの絵、第43回 レコードプレーヤー、第44回 ポスター、第45回 若林の家 はこちら
・新刊のお知らせです。
『世界はこんなに 堀内誠一』 ブルーシープ
絵本作家、イラストレーター、アートディレクター、デザイナー、時には写真家として。多彩な作品を生み出しつづけた堀内がどのように世界を見つめていたのか、4つのテーマから、約100点の絵や写真と堀内の言葉を散りばめ、その知性と好奇心を探りました。PLAY! MUSEUM「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」の公式アートブックとして刊行された新刊です。
『空とぶ絨緞』 堀内誠一 中公文庫
1981年から1983年まで「anan」で連載された「堀内誠一の空とぶ絨緞」は1981年にパリ生活から戻った後の旅行エッセイで、1989年にマガジンハウスで1冊の本にまとめられました。今回未収録の新たなイラスト、文章を満載して初文庫化されました。

堀内誠一 (1932―1987)
1932年12月20日、東京に生まれる。デザイナー、アートディレクター、絵本作家。『anan』や『BRUTUS』、『POPEYE』など雑誌のロゴマーク、『anan』においては創刊時のコンセプト作りやアートディレクションを手がけ、ヴィジュアル系雑誌の黄金時代を築いた。1958年に初の絵本「くろうまブランキー」 を出版。「たろうのおでかけ」「ぐるんぱのようちえん」「こすずめのぼうけん」など、今に読み継がれる絵本を数多く残す。1987年8月17日逝去。享年54歳。