「2匹の黒猫」西明寺│ゆかし日本、猫めぐり#39

連載|2024.3.15
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

 境内を包む清浄な空気に、心が洗われる想いがした。

 馬酔木(あせび)、八重咲紅梅、そして、滋賀県指定の天然記念物の不断桜……。季節の花々に加え、しっとりとした自生の苔や心地よい沢の音、すべてが自己主張しすぎることなく、自然な姿で調和している。

 滋賀県の湖東に位置する龍應山(りゅうおうざん)西明寺(さいみょうじ)。平安時代の初期に、仁明(にんみょう)天皇の勅願により開創されたと伝わるこの古刹で、束の間日常を忘れた。

「空(クウ)、玄(クロ)、おいで! お散歩行くよ!」
 よく通る声がして、女性が現れた。その視線の先を追うと……、
猫がいる!

 よく見ると、もう1匹も!!

 猫はこちらを気にするように、少しためらい、

やや間を置いて、そろりと外へ。

続いてもう1匹も降りてきた。

 聞けばこの2匹は姉妹で、毎日1回は寺庭婦人(じていふじん=住職の配偶者)と境内を散歩するという。鈴鹿山脈の西の山腹に位置する自然豊かな西明寺には、サルやシカ、さらにハクビシンやテン、タヌキ、キツネ、イノシシなど、野生の動物たちが姿を見せる。そのため安全面から、子猫の頃はリードをつけ、ご住職と奥様それぞれが1匹ずつの紐を持って境内を歩かせていた。それが今は習慣になり、リードをつけなくても一緒に散歩するようになったという。

 今日はご住職の中野英勝さんも加わって、にぎやかな散歩に。こちらも同行させていただくことにした。

 散歩のスタートは、国指定名勝の本坊庭園「蓬莱庭(ほうらいてい)」から。

 だが、清々しい名勝庭園も猫たちにとっては日常。景色などおかまいなしに、ぐんぐん登る。

 ときどき立ち止まっては振り返り、

来ていることを確認し、再び歩く。

 そんな息もぴったりな2匹だが、興味を持つものや落ち着く場所は、それぞれ違うよう。

 別行動も多く、すれ違うときも知らんぷり、ということも。

 ときどき猫本来の野生の表情も見せる。

 少し歩いては立ち止まり、立ち止まってはまた歩く。猫のペースで境内を巡るうちに、自分も猫目線になってきた。
 苔に覆われた木の根っこや、

周囲に溶け込んだ五輪塔。

 自分だけでは見過ごしていたであろう場所にも視線が向かい、改めて、境内のすみずみまで細やかに手がかけられていることに気がついた。それでいて、人の存在は感じさせない。自然それぞれが、まるであるがままのような清らかな姿で、押しつけのない美しさを放っている。気がつけば、自分も自然体に。お参りは、境内に入ったときから始まっていたのかもしれない。

 やがて、国宝の本堂と三重塔の前へ。

 ここからは猫たちとしばしお別れ。我々は本堂へ、猫たちは縁の下へ。それぞれの場所でお参り(?)をする。
 靴を脱いで真っ先に目に入るのは、2匹を模した「なで猫」の像。

「おびんづるさん」に発想を得たというこの像は、邪気を祓うとされる楠でできており、人に撫でられることで徐々に黒光りし、黒猫になっていくという。
 縁あって、たまたま2匹の黒猫を迎え入れ、それがきっかけでさまざまな縁が結ばれて、今や「なで猫」や猫集印(ねこしゅういん)まで。ご縁とは、つくづく不思議なものである。

 そもそも、西明寺と2匹の黒猫との縁は、延宝年間(1673〜1681)まで遡る。寺伝によれば、当時公海という僧侶がこの寺を通りかかったとき、2匹の黒猫が、門の影から何かを訴えるようにこちらを見ていたことが始まりという。

 不思議に思った公海が猫たちの後を追うと、荒れ果てた本堂の前に出た。西明寺は元亀2年(1571)に織田信長の兵火を被って以降、衰微の一途を辿っていたのである。その現状を公海が同じ近江国の甲賀郡の土地の地頭に伝え、寺は全面的に復興された。
 一方、お勤め中にうたた寝をしてしまった僧侶の夢に、2匹の黒猫が現れたという話もある。猫たちは「我らは西明寺を護る二天(持国天と増長天、もしくは広目天と多聞天)なり。努めよ、努めよ」と言って姿を消し、僧侶が目覚めると、手に猫の引っ掻き傷があったという。寺の歴史の折々に、2匹の黒猫は登場しているのだ。

 ちなみに、信長の兵火に遭う前は、西明寺は17の堂宇、300の僧坊を有する大寺院だった。そのなかで本堂と三重塔、そして、現在国の重要文化財の二天門のみ残っているのは、兵火の際、僧侶たちが機転を利かせて二天門の前に薪を積み、火を焚いて本堂周辺が焼けたように見せかけたからだという。寺を守りたい、先人たちのその一念によって、目の前の風景は存在しているのだ。

 西明寺のご本尊は、薬師如来。秘仏のため厨子に入っているが、西の方角、つまり比叡山延暦寺や京都御所を向いているという。西を明るく照らす。寺の名前には、そんな意味が込められている。

 脇侍は日光・月光菩薩。周囲には、干支の動物の顔を頭に乗せた十二神将が、左右に分かれて控えている。

「薬師如来は、病に応じて薬を与えてくださる仏様で、十二神将は、それぞれの干支の人を担当する、いわば看護師さんです。秘仏のお薬師さんに代わって問診をし、それをお薬師さんに伝えて薬を処方してもらい、我々に授けてくださるのです」と中野さん。身体だけでなく、心の病にも応じているそうだから心強い。

 階段を下りると、猫たちが待ってましたとばかりにお出迎え。

 早速中野さんに甘えている。

 見知らぬ人間がいることにも少し慣れたのか、リラックスした姿も見せてくれるようになった。

 やはり2匹は、一緒にいるのが一番安心なよう。

 最後も2匹そろって見送ってくれた。

 今日はありがとう。これからも、ずっとずっと仲良くね!

龍應山 西明寺
〒522-0254
滋賀県犬上郡甲良町池寺26
TEL:0794-38-4008
拝観時間 8時30分〜16時
入山料 800円

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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