堀内誠一のポケット 第11回

アート|2022.1.17
林綾野 写真=小暮徹

伝説のアートディレクターであり、絵本作家でもあった堀内誠一さん。その痕跡を求め、彼が身近に置いた品々や大切にしていたものをそっと取り出し見つめます。家族しか知らないエピソードや想い出を、路子夫人、長女の花子さん、次女の紅子さんにお話いただきました。堀内さんのどんな素顔が見えてくるでしょうか?

第11回 愛用の灰皿

談=堀内花子
 父は煙草が好きで、晩年癌が見つかるまで吸い続けていました。昔は、煙草は大人の嗜みという感じでしたし、父も「煙草は心のアクセサリー」という広告のコピーに「いいね」、なんて言っていたのを覚えています。母は父と結婚して「好きなだけタバコが吸えるのが嬉しかった」と言っていました。2人で缶入りのピース(ピー缶)を吸っていて、タバコ屋さんにピー缶を買いに行ったのが私の初めてのおつかいだったと記憶しています。
 というわけで家にはいつも灰皿がたくさんありました。手前のワイヤーの格子模様が面白い青緑色のものは、私が物心ついた時から家にあったものです。何人もが集まるとこんな深めの灰皿も吸殻ですぐにいっぱいになりました。旅先でこれぞという灰皿と出会うことも多く、黄色い陶製のものはヴェネツィアのハリーズ・バーで買ってきたものです。気に入っていましたが、浅くてすぐいっぱいになってしまうので愛用するというより眺めて楽しんでいたようでした。

手前:青緑色の釉薬がかかった磁器製の灰皿はおそらく路子夫人が実家の内田家から持って来たもの。今ではいくつかヒビがはいっている。持ち手もあり、深さもあり、堀内家にあった数ある灰皿の中で最も愛用された。左奥:ヴェネツィアのハリーズ・バーの灰皿。こちらは傷一つない良好なコンディション。
堀内家に残る灰皿と少しだけ嗜んだというパイプ2本。灰皿の多くはギリシャやメキシコ、イタリアやスペインなどの旅先で出会ったもので、島根の湯町窯の蓋つきの小さなエッグベーカーもある。灰皿が並ぶのは木製のボードでかつて堀内さんが使用したもの。紙を貼った際のテープの跡やはみ出た絵の具がそのまま残る。

今、煙草を吸う人のいない堀内家ですが、棚やキッチンなど、家のあちこちで灰皿を見つけることができます。愛煙家だった堀内さんは旅先で出会った灰皿を身近に置いて愛用しました。旅することが多かったこともあって、お気に入りの灰皿の数も増えていったのでしょう。他ではちょっと見ることのできない味わい深い陶器や磁器製の灰皿は今でも堀内家の棚にそっと並んでいます。
結婚後、しばらくはご夫妻でピースを吸い、その後はセブンスター、パリに暮らすようになってからは、パッケージデザインもお気に入りだったというベルギー製のVISA(赤ラベル)を愛煙されたそうです。パイプを吸うこともあったそうですが、花子さんによると「せっかちな性格ゆえあまり向いていなかった」とのこと。葉巻も同じく、キューバ産のロメオ・イ・フリエタを箱で購入されたそうですが、ゆっくり吸うのは性に合わず、やはり煙草が一番だったようです。
堀内さんが傍らに置き、眺めて楽しんだという「ハリーズ・バー」の灰皿。かつて『BRUTUS』でイタリア特集をした際、取材でこのバーを訪れ、購入したそうです。ハリーズ・バーはヘミングウェイも足しげく通ったバー。歴史や文学に深い思い入れを持っていた堀内さんは感慨を持ってここを訪れたのではないでしょうか。名物カクテル「ベリーニ」で知られるこの店のトレードマークは3つのグラスを前にするバーテンダー。この灰皿にもそのマークがくっきりと浮かびます。
個性あふれる灰皿に囲まれていた堀内さんですが、花子さんの回想によると「仕事机のふちに吸いかけのタバコを置くのが癖」だったそうです。マガジンハウスの編集部で使っていた仕事机の縁にはそんなタバコの焦げ跡がいくつもあったとか。煙草に火をつけても、仕事に集中している間に燃え尽きてしまうことも多かったようです。そう思うと堀内さんにとって、灰皿もその役割ということだけではなく、存在そのものに愛着を持っていたのかもしれません。
(文=林綾野)

次回配信日は、1月31日です。

・堀内誠一の展覧会が開催されています。
<巡回会期情報>
「堀内誠一 絵の世界」
2022年1月4日(火)~1月24日(月) 大丸ミュージアム京都 (大丸京都店6階)
2022年3月19日(土)~7月25日(月) ベルナール・ビュフェ美術館 (静岡・長泉)
2022年7月30日(土)~9月25日(日) 県立神奈川近代文学館 (神奈川・横浜)
その後も巡回する予定です。

堀内誠一 (1932―1987)
1932年12月20日、東京に生まれる。デザイナー、アートディレクター、絵本作家。『anan』や『BRUTUS』、『POPEYE』など雑誌のロゴマーク、『anan』においては創刊時のコンセプト作りやアートディレクションを手がけ、ヴィジュアル系雑誌の黄金時代を築いた。1958年に初の絵本「くろうまブランキー」 を出版。「たろうのおでかけ」「ぐるんぱのようちえん」「こすずめのぼうけん」など、今に読み継がれる絵本を数多く残す。1987年8月17日逝去。享年54歳。

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