堀内誠一のポケット 第45回

アート|2025.3.28
林 綾野|写真=小暮 徹

伝説のアートディレクターであり、絵本作家でもあった堀内誠一さん。その痕跡を求め、彼が身近に置いた品々や大切にしていたものをそっと取り出し見つめます。家族しか知らないエピソードや想い出を、路子夫人、長女の花子さん、次女の紅子さんにお話いただきました。堀内さんのどんな素顔が見えてくるでしょうか?

若林の家

談=堀内花子・紅子

世田谷区宮坂の間借りをしていた家から、同じ区内若林のマンションに越したのは、花子が小学2年生、紅子が幼稚園年少の夏です。
当時(1969年)、まだ12階建てのマンションは珍しく、わが家は4階でしたが富士山も見えました。子どもの数も多く、屋上、エレベーター、階段、建物のどこもが恰好の遊び場で、上から下へ縦横無尽につかっての「ドロ警」で遊んだりしました。ただし、父が寝ている午後、我が家の真上の屋上で騒ぐのだけは御法度でした。「静かにしろと言ってきなさい」と命令されて、顔見知りの子たちに「屋上で走らないで」と頼みに行くのは、なんとも嫌な役目でした。
マンションの一階には当時「トレッカ」という喫茶店が入っていて、二日酔いの父に言われてオレンジ・シャーベットを買いに行くのもほぼ日課でした(家の冷蔵庫にはまともな冷凍庫がついていませんでした)。
部屋は3LKでしたが、一室は父の仕事部屋、一室はリトグラフの輪転機やリトに必要な諸々、『リスのゲルランゲ』のために飼った台湾リスの大きなケージが占拠していました。
私たち一家がフランスに滞在しているあいだ、マンションには祖母が住んでくれていました。15歳で父を生んだ祖母は東京での優秀な秘書役です。とはいえ、狭い家のなかで、なにかと世話を焼いてしまう母親のそばで仕事をするのは気疲れしたのでしょう。父は1979年ごろから、おなじマンションの8階の2DKを借りて、雑誌の仕事などで一時帰国したときの仕事場としていました。
「401号室にいます」は、8階の仕事場のドアにセロハンテープで貼っていたものです。仕事机と仮眠用のソファがあるだけで、山積みの資料、本で足の踏み場もない部屋でしたが、原稿をとりにくる編集者などがいたのでしょう。
帰国したとき、わたしたち姉妹はもう高校生と大学生です。その頃、父が人に宛てた手紙を読むと、「新しいマンションを借りなくてはならない」などと書いていますが、結局、祖母を加えた家族5人で、手狭なマンションに住み続けました。リスはもういませんでしたが、わたしたちは輪転機の脇にベッドを置いて寝ていました。
家で仕事をする日は、たいてい昼過ぎに起きて、オーブントースターで厚揚げを焼き、生姜醤油で食べていました。テレビではちょうど「午後のロードショー」の時間で、SF、西部劇、ジャンルを問わずなんでも見ていました。ちなみに当時の放映ラインアップは優れていました。そして8階の仕事場に行くのです。夕飯はたいてい一緒に食べていました。支度ができると401号から仕事場の父に電話をかけます。呼び出し音を2回鳴らすのが「ごはんだよ」の合図で、しばらくすると帰ってくる父の鼻歌が外廊下から聞こえてきました。祖母が使っていたカーペット敷きの四畳半に毎回ちゃぶ台を出し、テレビの動物番組やクイズ番組をつけて、ああだこうだ言いながらみんなで食事をとり、父はまた仕事場に上がっていました。

若林のマンション8階の仕事場の扉に不在を知らせるために貼ってあったメモ。30数年前に書かれた文字は少し色褪せている。
1984年、モリサワの小冊子「たて組ヨコ組」の取材時に撮影されたポートレート写真。パレットクラブ(安西水丸、ペーター佐藤、原田治、新谷雅弘が結成したグループ)のTシャツ、短パン、バケットハット姿の堀内。若林のマンションの401号室でタバコを片手に、机にはジョンベックのウイスキーが並び、日常がそのままに写される。 (写真提供:堀内事務所)
401号室の上にある屋上への非常階段で撮影した写真。街並みの先には今も富士山が見える。 (写真提供:堀内事務所)

「401号室にいます ホ」。幅20cmほどの黄ばんだ紙片に青みがかった墨で書かれています。同じマンションの4階に暮らし、8階に仕事場を借りていた堀内さんが、4階にいる際に、8階に人が訪ねてきた時、それを知らせるためにドアに貼っていたものです。花子さんが保管のために小さな額縁に入れていたものを、撮影のために出していただき、マグネットで扉に貼りました。少し色褪せてしまっていますが堀内さんの筆跡です。
1969年、若林のこのマンションに引っ越してきた頃、堀内さんは人生で最も忙しい時期を過ごしていました。この年、堀内さんは鳥居達也氏と共に1957年に創立したアドセンターを辞し、フリーとなった後、「堀内誠一グラフィック研究所(現在の堀内事務所)」を立ち上げます。1970年にはアートディレクションと編集を全面的に任された「anan」が創刊。1969年には『たろうのともだち』『こぶたのまーち』『雪わたり』『ふらいぱんじいさん』『ぞうのこバナ』『てとゆび』など、1970年には『かわいいとのさま』『かげ』『ロボット・カミイ』『グリム童話集』など多くの絵本、挿絵本を世に出しています。その他に装丁や執筆の仕事も数多く手がけ、当時、堀内さんがどのように時間を使っていたのか、想像を絶するものがあります。
『おそうじを おぼえたがらないリスのゲルランゲ』が出版されたのは1973年です。堀内さんはこの本の挿絵を描くために、花子さん、紅子さんの記憶にも鮮やかな「大きなケージ」でリスを飼い、その姿や動きを観察した上で作画に取り掛かりました。絵を見てみると、ゲルランゲの姿はいきいきとしていて、飛んだり跳ねたりする様子が躍動感いっぱいに描かれています。
この本が出された同年、堀内さんは単身でパリに渡り、その翌年、1974年にはご家族も一緒にパリ郊外で暮らし始めます。その間、若林のマンションには、堀内さんの母、咲子さんが留守番役も兼ねて一人で暮らしました。堀内さんのパリ滞在は1973年から1981年にわたります。仕事の兼ね合いもあって、時折、東京とパリを行き来する中で、1979年に8階の部屋を仕事部屋として借り、1981年の帰国後も使い続けます。そして、堀内さんは1987年に亡くなるまでを若林を拠点に暮らし、仕事をされたのでした。
その間、堀内さんに会いに若林を訪れた人はどのくらいいたのでしょうか。絵本や挿絵本の絵の依頼、雑誌関連や美術館全集アートディレクション、表紙絵の作画、ロゴマークのデザイン、装丁、エッセイの執筆など、実にさまざまな仕事の依頼を巡って多くの人がこの家にやってきたことでしょう。堀内さんがその頃に残した数々の作品を見返してみると、広がりある豊かな仕事ぶりが見て取れます。1987年に堀内さんが急逝してしまったことで、多彩な仕事が花開いていたこの時期が堀内さんの早すぎる晩年となってしまいました。
若林のマンションに堀内さんを取材した雑誌の記事もいくつか残されています。写真に映る堀内さんは、帽子を目深に被り、Tシャツに半ズボン姿。まるで少年のようですが、安野光雅さんが「まだ誰も見ていないものを見る目だった」* と表したその目は強く、深く輝いています。
享年54歳、その先に広がっていたであろう仕事を思うと、惜しまれてなりませんが、人よりも早く社会に出て、多くの人と出会い、数限りないものを世に出してきた堀内さん。たくさんの旅をして、フランスに移り住み、家族とともに最後に暮らしたのは、この若林のマンションでした。Tシャツに半ズボンという普段着姿で、家族と何気なく言葉を交わし、朝食に厚揚げを食べ、テレビで映画を見て、仕事をする。そんな日常の繰り返しの中で、堀内さんは今も多くの人の心を揺るがすたくさんの仕事を残してきたのです。

(文=林綾野)


*1987年8月、堀内さんの逝去にあたり、葬儀で友人を代表して安野光雅氏が弔辞を述べました。その中で「あの目は、まだ誰も見ていないものを見る目だった。あの耳は誰よりも先に、遠くの音を聴く感性をそなえていた」と堀内さんのことを語った一文より引用しました。

第1回 若き日のパスポート、第2回 初任給で買った画集、第3回 石元さんからの結婚祝い、第4回 パリ、堀内家の玄関 、第5回 トランプ遊びと安野光雅さんとの友情、第6回 ムッシュー・バルマンの瓶と香り 、第7回 ダッチ・ドールと古い絵本、第8回 パペットと人形劇 、第9回 お気に入りのサントン人形、第10回 瀬田貞二さんとの思い出、第11回 愛用の灰皿、第12回 お気に入りのバター型 、第13回 ルイ・ヴィトンのトランク、第14回 梶山俊夫さんの徳利とぐい呑み、第15回 ミッキーマウスの懐中時計、第16回 少年崇拝、第17回 スズキコージさんのスケッチブック(前編)、第18回 スズキコージさんのスケッチブック(後編)、第19回 コリントゲーム 、第20回 谷川俊太郎さんからの手土産 、第21回 2冊のまめ本、第22回 騎士のマリオネット、第23回 クリスマスのカード、第24回 お面に惹かれて、第25回 お気に入りの帽子、第26回 愛用のカメラ、第27回 デンマークのヴァイキング人形、第28回 メキシコのおもちゃ(前編)、第29回 メキシコのおもちゃ(後編)、第30回 最後まで飲んでいたスコッチウイスキー、第31回 エピナールの紙人形とおもちゃ絵、第32回 バルセロナの人形、第33回 パリ自宅の棚、第34回 ドイツのカラス指人形、第35回 コーデュロイのコート、第36回 堀内家のシュークルート、第37回 バルセロナから来た黒板、第38回 地図、第39回 クロード岡本さんのタイル画、第40回 岩波手帖、第41回 デルフト・タイル、第42回 長新太さんの絵、第43回 レコードプレーヤー、第44回 ポスター  はこちら

・ここで触れた書籍

『おそうじを おぼえたがらないリスのゲルランゲ』
ジャンヌ・ロッシュ=マゾン 作/山口智子 訳/堀内誠一 絵 1973年(福音館書店)

・堀内誠一さんの展覧会のお知らせです。

「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」 
2025年 1月22日(水)~4月6日(日)
PLAY! MUSEUM〈東京・立川〉

詳しくは「PLAY! MUSEUMサイト」でご確認ください。
https://play2020.jp/article/seiichi_horiuchi/

・新刊のお知らせです。

『世界はこんなに 堀内誠一』 ブルーシープ
絵本作家、イラストレーター、アートディレクター、デザイナー、時には写真家として。多彩な作品を生み出しつづけた堀内がどのように世界を見つめていたのか、4つのテーマから、約100点の絵や写真と堀内の言葉を散りばめ、その知性と好奇心を探りました。PLAY! MUSEUM「堀内誠一展 FASHION・FANTASY・FUTURE」の公式アートブックとして刊行された新刊です。

『空とぶ絨緞』 堀内誠一 中公文庫
1981年から1983年まで「anan」で連載された「堀内誠一の空とぶ絨緞」は1981年にパリ生活から戻った後の旅行エッセイで、1989年にマガジンハウスで1冊の本にまとめられました。今回未収録の新たなイラスト、文章を満載して初文庫化されました。

堀内誠一 (1932―1987)
1932年12月20日、東京に生まれる。デザイナー、アートディレクター、絵本作家。『anan』や『BRUTUS』、『POPEYE』など雑誌のロゴマーク、『anan』においては創刊時のコンセプト作りやアートディレクションを手がけ、ヴィジュアル系雑誌の黄金時代を築いた。1958年に初の絵本「くろうまブランキー」 を出版。「たろうのおでかけ」「ぐるんぱのようちえん」「こすずめのぼうけん」など、今に読み継がれる絵本を数多く残す。1987年8月17日逝去。享年54歳。

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