戦前の安謝
那覇市のいちばん北、浦添市との境に安謝川(あじゃがわ)が流れている。この川の左岸、つまり那覇側で、河口に近い一帯は、安謝とよばれる地域である。安謝地域の中でも、琉球国時代から存在する集落(旧集落)は、現在でも安謝の中心で、ここは戦前までは農村だった。集落の周りに田畑が広がり、稲、田芋、野菜、さとうきびなどが栽培されていた。
一方、現在は埋め立てられているかつての海岸部には、夏の間、糸満(沖縄本島南部の漁師町)から漁民がやってきた。彼らは、安謝の住民が所有する家屋を借りて住み込み、漁をしていた。
中/写真2 現在の安謝旧集落。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真3 現在の安謝旧集落。2023年3月。堀田奈穂撮影
戦後の人口流入
1944(昭和19)年10月10日の那覇大空襲の直後から、安謝の住民たちは、戦禍を避けるため沖縄本島北部へ次々と避難した。そして、のちに米軍によって南部の収容所に収容された。その間、安謝は機銃掃射によって焦土と化していた。
住民が安謝に帰還できたのは、1947(昭和22)年1月のことだった。ここから集落の再建が始まるが、この時期、安謝地域には、旧集落の内外で多くの新規人口の流入が見られた。
当時、那覇港は米軍に接収されており、民間人が使用可能な港湾として、新たに安謝港が用いられるようになった。安謝港は水深が浅いために大きな船が入れず、港湾としての機能性は低かったが、那覇港の代替港として用いられるようになったのである。安謝港には、宮古・八重山など先島方面や、当時、沖縄と同様に米軍施政下にあった奄美群島との間を結ぶ船が入港し、多くの人と物資が行き来することとなった。港の前には旅館や飲食店、商店、劇場、港湾荷役会社などがつくられ、小規模な港町が形成された。また、離島から上陸した人たちが、バラックを建てたり、間借りをしたりして住みついた。その多くは、奄美出身者たちであった。
右/写真5 現在の旧安謝港付近。2023年3月。堀田奈穂撮影
安謝港のすぐ南には、漁民の集落も形成された。戦前まで、那覇港の南側に住吉という漁村があったが、ここが米軍に接収されてしまい、行き場を失った漁民たちが漁業をするために安謝にやってきて住みついたのである。現在、安謝の中の「住吉区」と呼ばれているところがその集落である。
内陸部にも新たな集落が形成された。旧集落の北側の丘に生まれた「岡野区」がそれで、ここには沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)出身の大工たちが多く住みついた。大宜味村は、背後に山地を抱えているため木材の産地として栄え、それが大工の輩出にもつながった。彼らの多くは、戦前から那覇に出稼ぎに来ていたが、戦後も、那覇復興の担い手として大きな役割を果たした。彼らがこの地に住むきっかけは、近くに沖縄民政府の材木置き場と製材所が設けられたことによる(沖縄タイムス「構作隊の街――大宜味大工の戦後」①~④『沖縄タイムス』2018年3月15・16・17・20日)。
このように、安謝の旧集落の周りには、戦後、新住民による集落が形成されたが、旧集落でも他地域からの移住者を受け入れていた。人口が急増した旧集落には、多くの商店や病院、銭湯もつくられ、賑やかな街並みが出現した。
港湾の移転、埋め立て
安謝一帯の賑やかさのピークは、1952(昭和27)年頃だったと言われている。その後、1953(昭和28)年4月に那覇港や泊港が整備されて使用が開始されると、安謝港の役割は終わってしまった。また同年12月に奄美群島が本土に復帰することになると、奄美出身の住民の多くは故郷に引き揚げていった。こうして、港町の賑わいは過去のものとなった。
また、1962(昭和37)年には、安謝の海岸線の埋め立てが行なわれ、安謝港は消滅した。そして、集落の目の前の海がなくなった住吉では、漁業は行なわれなくなった。海岸線ははるか彼方に遠ざかり、安謝の西方には多くの倉庫や工場、中央市場などからなる新しい街が登場した。
右/写真9 埋め立て後の旧海岸線は道路になっている。2023年3月。堀田奈穂撮影
強制土地収用
1947(昭和22)年以来、安謝の旧集落の住民は、住み慣れた故地に戻って暮らしの再建を進めていたが、1953(昭和28)年、彼らの暮らしを大きく揺さぶる出来事が発生した。米軍が、旧集落の人びとが農地にしていた大部分の土地を収用すると通達してきたのである。土地をとられると農業ができない。当然、住民はブルドーザーの前に座り込んで反対したが、武装した米兵による有無をいわせぬ収用に屈せざるを得なかった。
同様の強制土地収用は、安謝に隣接する天久(あめく)、上之屋(うえのや)、銘苅(めかる)地域でも行なわれた。そうして収用された広大な土地には、約3000人の軍人・軍属家族が暮らす住宅やゴルフ場、プール、PX(post exchange:売店)などからなる「牧港住宅地区(マチナト・ハウジングエリア)」がつくられた。ここに住んだ軍人・軍属は、安謝川を越えた浦添市の側にある米軍「牧港補給基地」に通う者たちだった。安謝、天久、上之屋、銘苅の地域は「牧港」ではないのにこの地名が付けられたのは、こうした理由による。
中/写真11 米軍・牧港住宅地区。那覇歴史博物館提供
右/図 米軍・牧港住宅地区(「軍用地」と記載されている部分。その北側に安謝の旧集落がある)。「真和志市区劃図」(新垣清輝『真和志市誌』真和志市役所、1956年、257頁)より抜粋。
土地の返還と「那覇新都心」の建設
1974(昭和49)年、日本政府とアメリカ政府の間で、牧港住宅地区の返還が合意された。以後、米軍住宅を県内の他の基地に移転させながら、段階的に土地の返還が進められた。そして1987(昭和61)年に全面返還となった。
全面返還後は、不発弾処理や埋蔵文化財調査などが行なわれるとともに、ここを「那覇新都心」として整備する計画が立てられ、1992(平成4)年以降、「地域振興整備公団」(現独立行政法人都市再生機構)による「那覇新都心土地区画整理事業」が実施された。この事業により、安謝、天久、上之屋、銘苅の地主たちのもとに返還された土地の換地、買い上げが実施され、新都心の開発が進められていった。
そして、2000(平成12)年に、新都心の「まちびらき」が行なわれ、以後、大型ショッピングセンター、ホテル、高層マンション、戸建て住宅、県立博物館・美術館などが次々と建てられていった。また、2003(平成15)年には、沖縄モノレールが開通し、新都心の玄関口として、おもろまち駅が開業している。
現在、多くの観光客が買い物や食事で訪れている「那覇新都心」には、こうした前史があったのだ。
中/写真13 那覇新都心の街並み。2023年3月。堀田奈穂撮影
右/写真14 那覇新都心の街並み。おもろまち駅付近。堀田奈穂撮影
2021年7月に始まった全21回にわたる本連載は、今回で完結する。
市街地の再開発が進み、タワーマンションまで建つようになった今日の那覇の街だが、一皮めくると歴史の地層がそこに出現する。そして、その歴史には、第1回で指摘したように、「迷宮都市」としての特徴を見いだすことができる。那覇の魅力は、この「迷宮」性にある。文化としての「迷宮」の記憶を伝えつつ、未来の街づくりが行なわれていくことを期待したい。
●本連載は、今回で最終回です。ご愛読をありがとうございました。
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【参考文献】
安謝誌編集委員会編 2010 『安謝誌』安謝誌編集委員会
新垣清輝 1956 『真和志市誌』真和志市役所
沖縄タイムス「構作隊の街――大宜味大工の戦後」①~④『沖縄タイムス』2018年3月15・16・17・20日
三嶋啓二 2020 「安謝トンネル通り――沖縄の戦後を歩く⑨」NPO法人 沖縄ある記編『沖縄の戦後を歩く――そして、未来の地域を考える』一般社団法人 沖縄しまたて協会
島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。