迷宮都市・那覇を歩く 第14回 首里城に住んだヤマトゥンチュ

カルチャー|2022.8.30
島村 恭則

若き宗教学徒

 沖縄の古い叙事的歌謡が集められた『おもろさうし』という本がある。琉球王府が16世紀から17世紀にかけて複数回にわたって編纂したもので、全22巻に1554首が収められている。「おもろ」は「思い」の転訛、「さうし」は「草紙・双子(=冊子)」のことだ。
 この『おもろさうし』の全巻・全首に注釈を付して現代語訳をするという前人未到の大仕事を成し遂げた学者がいる。鳥越憲三郎(1914-2007)である。岡山県に生まれた鳥越は、1935(昭和10)年に関西学院大学に入学した。宗教学を専攻した鳥越は、恩師であるアメリカ人宣教師・宗教学者のS.M. ヒルバーン教授(Samuel Milton Hilburn, 1898-1976)の勧めで卒業後も助手として大学に残り、学者への道を歩み始めた。

島袋源一郎との出会い

 助手1年目である1938(昭和13)年の夏、当時「日本古代社会の博物館」と目されていた沖縄で40日間の現地調査を行なう。大学に戻って調査の成果を報告する鳥越に、ヒルバーン教授は、「世界的に貴重な所だ。もう一度すぐ行きなさい」と命じた。鳥越は、その言葉の意味をすぐには理解できなかったものの、同じ年の12月には再び沖縄調査を実施する。
 この2回目の調査のとき、学徒の身で宿賃の高い旅館住まいをするのは大変だろうと言って、鳥越を自宅に下宿させたのが、沖縄教育界の重鎮で、民俗学者としてもその名が知られていた島袋源一郎(1885-1942)であった。『沖縄県国頭郡志』などの編著書のある島袋は、鳥越を自らの村落調査に同行させ、長年の研究成果も伝授した。
 1か月の現地調査を終えた鳥越は、大学に戻るとその成果を論文にまとめた。これは5年後の1944(昭和19)年に最初の著書『琉球古代社会の研究』として刊行された。国家レベルはもとより村落においても、宗教は集団を単位として発生するのではなく、統治や支配をめぐって政治的・個人的に発生するものであることを沖縄の事例で分析したこの論文は、30歳にもなっていない駆け出しの学徒が書いたとは思えない高度な内容であった。

左/写真1 ヒルバーン教授(Samuel Milton Hilburn, 1898-1976)。関西学院大学学院史編纂室提供
中/写真2 島袋源一郎(1885-1942)。『伝説補遺 沖縄歴史』(沖縄書籍、1932年)より
右/写真3 『琉球古代社会の研究』(鳥越憲三郎著、三笠書房、1944年)。関西学院大学図書館蔵

支援者たち

 1942(昭和17)年、鳥越は、3度目の沖縄調査に赴く。今回は、大学助手を辞職し、妻と生まれたばかりの娘を伴った5年間の予定での長期滞在であった。沖縄への旅立ちに先立って、鳥越は、第2回調査のときに世話になった島袋に「先生の後継ぎになりたい」と書いた手紙を出した。
 ところが、この手紙が届いたとき、島袋は臨終の床にあった。そのため島袋夫人は手紙の封を切らずに箪笥にしまい、通夜の客が帰って故人の親友4人だけが残っている場ではじめて中身を読んだ。するとそこには、「後継ぎになりたい」と書かれてあった。奇しくも、島袋の最後の言葉が、「後継ぎが欲しい」だったため、夫人は嗚咽し、4人にこのことを話した。
 この4人とは、志喜屋孝信(私立開南中学校校長、のちに戦後最初の県知事、琉球大学初代学長)、親泊政博(琉球新報社重役、のちに社長)、当山正堅(県視学などを歴任した教育者。戦後、沖縄民政府文化部長)、島袋全発(京都帝国大学卒業の教育者。県立図書館長、那覇市議などを歴任。戦後、志喜屋知事の下で官房長)で、いずれも沖縄のトップクラスの教育者、文化人である。
 彼らは、この話を聞き、「沖縄を研究しようとやって来るこのヤマトゥンチュ(ヤマトゥは大和、チュは人。日本本土の人の意)の青年が生活に困るようなことがあっては自分たちの恥だ。たがいに力を合わせ、できる限りの援助をしてやろう」と誓い合ったという。

首里城に住む

 島袋の死から2か月後の5月、鳥越一家は海路で那覇に到着した。すると早速、「島袋の後継者」である鳥越青年の来島を各新聞が報じた。那覇への船中、鳥越は乗り合わせた沖縄県師範学校の大瀧正寛校長と親しくなっていたが、この記事を読んだ大瀧は鳥越を呼び出し、県庁に案内した。県庁では学務部長に紹介され、学務部長は知事の早川元にも鳥越を引き合わせた。このとき、鳥越が住まいを探していることを知った学務部長は、「格好の場所がある」と言ってある場所を住宅として紹介してくれた。それは、驚くべきことに首里城であった。
 1879(明治12)年の琉球処分により王城としての役割を終えた首里城は、その後、熊本鎮台沖縄分遣隊兵舎、首里市立女子工芸学校、沖縄県立工業徒弟学校などとして利用されていたが、1925(大正14)年になって「正殿」が国宝に指定された。そして1928(昭和3)年からは沖縄神社の拝殿として「正殿」が用いられた。
 この正殿に向かって左側には「北殿」という中国式の建物があり、琉球国時代には重臣による重要案件の審議や中国からの使者を接待する場となっていた。琉球処分後は熊本鎮台沖縄分遣隊の「自習所」として使われたが、1936(昭和11)年からは沖縄県教育会附設郷土博物館となった。一方、正殿に向かって右側には「南殿」という日本式の建物があり、琉球国時代には日常の儀礼や薩摩藩の役人を接待する場となっていた。琉球処分後は沖縄県立工業徒弟学校の校舎として使われたが、1939(昭和14)年からは郷土博物館の別館となった。
 学務部長の提案は、この「南殿」に鳥越一家が住み、無給の嘱託として「北殿」の博物館の宿直をするというものであった。博物館は、島袋源一郎が中心となってつくられたもので、展示品の多くは島袋の収集によるものだった。鳥越は喜んでこの案を受け入れた。畳を入れ、大部屋に間仕切りをして6月に入居した。このときのことを、鳥越は次のように回想している。

 旧首里王城での生活は、普通ではできないことだけに、思い出もひとしお深いものがあります。
 間仕切りをして畳を入れてもらったとはいえ、もともと畳を敷いていたものではないので、寝室は九畳敷という、それも畳に透き間のある変な部屋でした。その隣の小部屋をお手伝いの部屋にし、書斎は大広間を用いました。(鳥越憲三郎『古代史への道』大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1991年、41頁)

左/写真4 首里城正殿。沖縄関係絵はがき/アサヒ写真館発行/戦前。那覇市歴史博物館提供
中/写真5 首里城北殿。戦前。那覇市歴史博物館提供
右/写真6 首里城南殿。戦前。那覇市歴史博物館提供

宗教調査の日々

 住まいが決まると、次に仕事の話がやってきた。沖縄県の嘱託職員として県内の宗教調査に従事してほしいというものだった。この頃、すでに戦時体制に入っていた日本は、1940(昭和5)年に内務省の外局として神祇院を設立し、「皇国精神ノ発揚」を目的とする神道政策の強化を行なっていた。この政策に対応して、県では、県内各地にある御嶽(うたき)と呼ばれる聖地や、そこでの祭祀を司る女性宗教者たちを日本国家の神道政策の枠組みの中に再編することが求められていた。この再編は、明治以来、何度も検討されたが、住民の宗教意識の変革は困難で、先送りされてきていたものだ。この懸案の解決に早川知事が取り組もうとしており、そのための基礎調査を担当する者として鳥越に白羽の矢が立ったのである。
 嘱託職員に就任した鳥越は、沖縄本島とその周辺離島をくまなく歩きまわり御嶽、司祭者、村落組織の実地調査を行なった。「時局上、国家神道の沖縄への浸透は避けられないとしても、伝統宗教の世界の破壊を極力回避したい。それを前提とした宗教政策を立案しよう」というのが鳥越の考え方であった。
 昼は調査を中心とした嘱託としての仕事に精を出し、夜は首里城南殿の自宅で遅くまで研究に没頭した。その成果は、戦後、博士論文としてまとめられ、大著『琉球宗教史の研究』(角川書店、1965年)として刊行されている。宗教学徒としての鳥越への知事からの信任は厚かった。宗教改革案の説明のために神祇院への出張を全権委任で命じられたこともあった。
 もっとも、この状況にも終わりがやってきた。鳥越を重用した早川知事が転任し、後任の知事は鳥越の理解者にはならなかった。また悪化する戦況の中で宗教改革の話は立ち消えとなり、鳥越の県での仕事はなくなった。1944(昭和19)年、妻子を岡山の実家に避難させた後、出張先の東京で同じく上京中の知事に辞表を提出。戦争激化で沖縄に戻ることもかなわず、そのまま敗戦を迎えることとなった。

写真7 『琉球宗教史の研究』(鳥越憲三郎著、角川書店、1965年)。島村恭則蔵

『おもろさうし全釈』

 1950(昭和25)年、鳥越は大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)に教職を得て研究生活を再開した。そして、暮らしが軌道に乗ると、次のような思いを抱くようになった。

 戦後の生活が安定するにつれ、沖縄滞在中に受けた御恩の数々が思い出され、沖縄がわたしの「心の故里」として、胸中をひろく占めるようになりました。その心の故里である沖縄のために、さらに尽くさなければならないという思いが、残された『おもろさうし』の解明に駆り立てたのです。(鳥越憲三郎『古代史への道』大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1991年、138-139頁)

 オモロ(『おもろさうし』に収められたそれぞれの詩句をオモロという)研究は、寸暇を惜しんで行なわれた。毎夜、2時頃までオモロの解明に没頭し、大酒を飲んで帰った夜も絶対にそのまま眠ることはせず、必ず机に向かっていた。学者として新進気鋭の鳥越には新聞連載の依頼もあったが、オモロ研究の時間を惜しんでそれも断った。こうして10年の歳月が流れ、ついに1968(昭和43)年、完成した全訳が『おもろさうし全釈』として清文堂出版から刊行された。全5巻からなる大著であった。
 このあと、鳥越は日本古代史の研究でベストセラーを生み出し、売れっ子の学者となっていった。フィールドは、中国の少数民族にまで広がり、2007(平成19)年に93歳で亡くなるまで、50冊以上の著書を世に送り出した。鳥越の学問は、スケールの大きさ、大胆な発想で知られているが、その原点は、首里城に暮らし、沖縄の人びとに支えられた若き日の研究生活にあったのである。

左/写真8 『おもろさうし全釈』(鳥越憲三郎著、清文堂出版、1968年)。関西学院大学図書館蔵
右/写真9 鳥越憲三郎。『村構造と他界観』(鳥越憲三郎博士古稀記念会編、雄山閣出版、1986年)より

 付記
 本稿の内容は、鳥越憲三郎が自らの生涯を語った『古代史への道』(大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1991年)、および鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』の「序」の記述にもとづいて筆者が再構成したものである。また、鳥越の生涯については、山口栄鉄『琉球おもろ学者 鳥越憲三郎』(琉球新報社、2007年)という優れた評伝がある。本稿執筆にあたっても随時、参照した。

●次回の更新は9/30を予定しています。
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参考文献
島袋源一郎 1932『伝説補遺 沖縄歴史』沖縄書籍
鳥越憲三郎 1944『琉球古代社会の研究』三笠書房
鳥越憲三郎 1965『琉球宗教史の研究』角川書店
鳥越憲三郎 1968『おもろさうし全釈』全5巻、清文堂出版
鳥越憲三郎 1991『古代史への道』大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター
鳥越憲三郎博士古稀記念会編 1986『村構造と他界観』雄山閣出版
山口栄鉄 2007『琉球おもろ学者 鳥越憲三郎』琉球新報社

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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