迷宮都市・那覇を歩く 第19回 沖縄生まれの新宗教

連載|2023.1.30
島村 恭則

新宗教の研究

 私は大学院生のとき、沖縄の新宗教の研究をしていた。新宗教とは、幕末・明治維新期以降に新たに生まれた宗教のことである。中山みきが創始した天理教、出口なおが創始した大本(おおもと)、あるいはPL教団とか立正佼成会(りっしょうこうせいかい)、霊友会(れいゆうかい)、創価学会、生長の家などが有名だ。ある新宗教が生まれ、広がっていく過程には、それを生み出した社会のあり方が深く関係している。だから、これを研究することは、社会の研究につながる。
 私が対象にしたのは、「龍泉(いじゅん。沖縄の言葉で「泉」を意味する)」という教団だった。龍泉は、沖縄が「本土復帰」した2年後の1974(昭和49)年に高安六郎(たかやす・ろくろう 1934-2018)という人物によって那覇市で創立されている。なぜ、どのようにしてこの宗教が発生し、成長したのか。これを解明するのが私の課題だった。

フィールドワーク

 この教団の調査を行なったのは1990(平成2)年のことだ。幸いなことに教団は私の調査計画に理解を示し、教団本部に居候をしての調査を認めてくれた。私は宜野湾(ぎのわん)市にある本部の建物に住み込んで、約半年間、教祖や信者へのインタビュー、儀礼の観察などを行なった。
 調査では、多くの信者の家にお邪魔した。信者たちは、那覇市内やその周辺の浦添(うらそえ)市、宜野湾市などに多く住んでいた。有力信者の家は支部となっており、夕方になると信者たちが集まってきて集会が持たれていた。私はそうした場所も訪ねて回った。那覇市内の土地勘は、この調査の過程で身についた。

写真1 龍泉本部。宜野湾市。1990年。島村恭則撮影
写真2 支部での集会。那覇市垣花。1990年。島村恭則撮影

教祖・高安六郎

 龍泉の教祖、高安六郎は、1934(昭和9)年、戦前の那覇(旧那覇)の市街地である西新町(にししんまち)で生まれた。父親は、西新町にあった大正劇場を経営するとともに市議会議員や県議会議員をつとめた那覇の名士だった。高安は、6歳のときに同劇場の劇団で子役としてデビューして以来、沖縄芝居の役者として活躍した。とくに、28歳で地元テレビの琉球時代劇「くずれ格子」の主演をつとめたことから、沖縄中にその名が知られることとなった。
 高安は幼少期から霊感体質で、人の死を予言したこともあった。19歳のとき母の勧めで本土系新宗教の「生長の家」に入信し、のちに指導者にまでなるが、次第に生長の家の教義とは異なる沖縄の神々からのメッセージを受け取るようになった。そのため教義からの逸脱を指摘されて同教団を脱退。その直後、激しい神がかりの末に「キミマンモム大神」という「琉球の主神」が彼の身に降臨した。1973(昭和48)年、39歳のときのことである。

写真3 龍泉教祖・高安六郎(1934-2018)。1990年。島村恭則撮影
写真4 龍泉創立の頃の高安六郎。1970年代。機関誌『龍泉』100、1982年より

龍泉創立

 これ以後、キミマンモム大神からさまざまな啓示を受けるようになった高安は、その教えを広めるために、1974(昭和49)年、那覇市若狭の貸しビルの一階で「琉球神道龍泉の会」という宗教団体を創立した。俳優として身につけたカリスマ性を発揮しながら、沖縄の土着宗教に新たな意味づけを加えた教義を流暢に語る彼のもとには多くの信者が集まった。
 1975(昭和50)年には、首里の寒川(さむかわ)町にあった酒造場の建物を改築して本部を移転。1980(昭和55)年に宗教法人化して教団名を「龍泉」に改めた。1983(昭和58)年には、宜野湾市嘉数(かかず)の高台に本部を新築して移転した。
 宜野湾市の本部には舞台のような神殿と百畳敷の拝殿が設けられ、毎週日曜日にそこで祭祀が行なわれた。沖縄本島各地から200~300人の信者たちが集まった。午前10時になると、普久原恒勇(ふくはら・つねお。沖縄の著名な音楽家)が作曲した琉球器楽曲「響(とよむ)」にあわせて舞台の両袖から合計20人の神官たちが1人ずつ登場し、最後に高安が現れる。彼を祭主に、舞台中央に設けられた護摩壇での火祭りが行なわれたあと、パワープレイと称して、信者同士が手かざしの祈りをする。そして最後に、高安による講話が行なわれる。信者たちはその語り口に聞きほれていた。

写真5 創立の頃の集会。1970年代。機関誌『龍泉』100、1982年より
写真6 創立の頃の集会。1970年代。機関誌『龍泉』100、1982年より
左/写真7 龍泉本部での祭祀。1990年。島村恭則撮影
右/写真8 龍泉本部での祭祀。1990年。島村恭則撮影
左/写真9 講話をする高安六郎。龍泉本部。1990年。島村恭則撮影
右/写真10 講話をする高安六郎。沖縄コンベンションセンター(宜野湾市)。1990年。島村恭則撮影

トートーメー問題

 沖縄の地でこの宗教が多くの信者を獲得した理由の一つに、トートーメー(沖縄式位牌)の継承に関する人びとの悩みに応えた点があげられる。
 沖縄本島(以下、沖縄)では、位牌およびそれに付随する財産は、長男が代々継承するものとされてきた。もしもある家に女子しかいなかった場合、彼女たちは位牌を継承できず、父親の兄弟の子である次男以下の男子、つまり彼女たちにとっての従弟(いとこ)がその家の養子となって位牌と財産を継承することになっていた。
 もとよりこのルールは、民法に定める遺産相続の考え方とは相いれないこともあり、戦後は、別の継承法をとろうとする者も現れるようになってきた。たとえば、女子が婚出先で産んだ自分の子(次男以下)を実家の養子にして位牌の継承をさせようとするケースなどである。ただ、これを実行するには、「祟り」の心配があった。
 沖縄では、伝統的な位牌継承のルールを破った場合、祖先の祟りで災いが生じるという信仰が根強く存在していた。また、それ以外にも、位牌の祀り方にはさまざまな決まりごとがあり、それを守れない場合、やはり祟りにあうと信じられてきた。たとえば、何かよくないことが起こるとする。そういうときに沖縄では、ユタ(霊能者)を訪ねる。すると、位牌継承のルール違反で祟りが生じていると指摘されることが多かったのだ。
 このため、旧来の慣習を破棄したくても、怖くてできないという人が多かった。これに対して、高安は、「位牌を祀る側、祀られる側、双方がキミマンモム大神の庇護のもとで悟りの境地に達したならば、慣習と異なることをしても祟りにあうことはない。そもそも、祟りで脅すのは低級な霊能者がやることだ」と説いた。これは、慣習破棄にまつわる人びとの不安を解消した。とくに、祟りを持ち出すユタを一刀両断したところが歓迎された。こうしてトートーメーにまつわる不安を抱える人たちが次々と龍泉を訪れ、信者になっていったのである。

教勢の消長

 龍泉の教勢はどんどん拡大した。沖縄ではまだ珍しかった水子供養を行なったのも急成長を促すもう一つの要因だった。
 1980年代には、ハワイに暮らす沖縄移民の間にも教えが広がり、ハワイ支部もできた。また、1990年代に入ると、本土の非沖縄系の人びとの中にも信者となる者が現れ、横浜にも支部ができた。教祖は、定期的にハワイや横浜を巡行して教えを説いた。教義をまとめた高安の著作も次々と刊行された。1990年代の信者数は1万を下らないといわれるまでになった。私が調査を行なっていたのがちょうどその頃で、まさに龍泉の最盛期であった。
 その後、2000年代に入ってからは、創立の頃に大量に入信していた信者層が高齢化したこともあって教勢に変化が生じ、組織の縮小・再編を経て現在に至っている。

 那覇生まれのカリスマ的な人物が生み出した龍泉という宗教は、位牌継承問題をはじめとする沖縄の人びとの宗教的な悩みに向き合うことで大きく成長し、海を越えて信者を獲得するまでに至った。そのあり方は、沖縄はもとより日本の宗教史の上でも銘記されるべき特徴的なものだったといって過言ではないだろう。

付記
 龍泉教祖の高安六郎氏は、2018年9月に84歳で逝去された。高安氏は、1990年当時、大学院生だった私の調査に最大限の協力をしてくださった。ご冥福をお祈りします。また、調査では多くの信者、教団関係者の皆様のお世話になった。ここに記して謝意を表します。

●次回の更新は2/28を予定しています。
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【参考文献】
島村恭則 1992 「『琉球神話』の再生――新宗教『龍泉』の神話をめぐって」『奄美沖縄民間文芸研究』15
島村恭則 1993 「沖縄の新宗教における教祖補佐のライフ・ヒストリーと霊能――『龍泉』の事例」『人類文化』8
島村恭則 2020 『民俗学を生きる――ヴァナキュラー研究への道』晃洋書房

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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