迷宮都市・那覇を歩く 第3回 丘と坂のあった街

コラム|2021.9.30
文=島村 恭則

現在、久茂地川の西岸、つまりもともと浮島だったところ(1945年以前の那覇=旧那覇の大部分)は、ほぼすべて平坦な土地になっている。しかし、そうなったのは戦後のことで、かつてはいくつかの丘があり、街がつくられていた。
 今回は、大正末期から昭和初期(1920-30年代)の那覇にタイムスリップして、丘めぐりをしてみよう(図1にそのルートと本文で言及した地点の番号を示してある)。

図1 丘めぐりのコース。「明治初年の那覇」(『伊波普猷全集』第4巻、平凡社、1974年)を加工。図中の番号は、本文で言及した地点を示す。 ①山形屋百貨店、②石門通り、③石門の三差路、④上之蔵通り、⑤辻遊廓、⑥西武門のカジマヤー、⑦久米村大道、⑧久米村大門、⑨若狭町大通り、⑩松尾山、⑪東郷マーツー、⑫久茂地、⑬至聖廟と明倫堂、⑭内兼久山、⑮アンシンビラ、⑯善興寺坂、⑰那覇市役所

図2 那覇及久米村図(明治初年頃)。松林の丘が描かれている。那覇市歴史博物館提供。

上之蔵と辻遊廓

旧那覇の中心部、①山形屋百貨店の裏から、那覇の「銀座通り」と呼ばれた ②「石門(いしじょう)通り」を北上すると ③「石門」の三差路に出る。ここから北側が丘となっている。石門から西武門(にしんじょう)まで丘を北上するのが ④上之蔵(うえのくら)通り。石門からしばらくは「田名坂(だなのひら。ヒラは坂の意)」という名の坂道で、人力車夫泣かせの急勾配だった。
 上之蔵の通りは「病院通り」とも呼ばれるくらい、通りに沿って病院が多かった。通りの東側には石垣で囲った赤瓦の家が続き、このあたりは旧那覇の「山の手」といえる場所だった。

写真1 旧那覇中心部から上之蔵方面を望む。 中央に見えるコンクリート製の建物(新天地劇場)があるところが石門。石門よりも右側が上之蔵。1930年代。那覇市歴史博物館提供

一方、通りを挟んだ反対側には ⑤辻遊廓があった。それまで原野だったところを開発して1672年に遊廓としたところだ。「公娼地帯であるとともに、沖縄の社交場の中心地であり、政、財界の要人、官公署、教育界の指導者をはじめ、商工業、農漁業に至るあらゆる階層の男たちの出入り」があったとされる場所だ(『那覇市史』資料編 第2巻中の7、1979年)。

写真2 辻遊廓。絵はがき。那覇市歴史博物館提供

西武門と久米大道

上之蔵通りを真っ直ぐ進むとこんどは下り坂になる。下りていったところが ⑥西武門のカジマヤー(十字路)。「西武門節」という有名な民謡がある。西武門は辻遊廓の出入口にもなっていて、見送りに来た遊女と客とがここで別れる情景を歌ったものだ。「にしんじょう」とは、「北の門」(ニシは北、ジョウは門の意)のことで、ここを入口として ⑦久米村大道(くにんだうふみち)という通りがもう一方の ⑧「久米村大門(くにんだうふじょう)」に向かって南北を貫通している。
 西武門の十字路をそのまま進めば ⑨若狭町大通りとなるが、われわれは右折して久米村大道に入り、しばらく南下しよう。この通りの周囲は久米村(くにんだ)といい、14世紀末に中国・福建省からやってきた中国人たちが住み始めて以来、中国系の人びとの街として存続してきた。21世紀の現在でも子孫たちは健在である。

那覇の「軽井沢」

久米村大道の東側にもう一つ丘があるので上っていこう。⑩松尾山だ。琉球国時代には、一面、赤松に覆われていたが、明治時代になって整地をし、裁判所や学校、病院、知事公舎などが建てられた。一帯は東シナ海からの海風が吹いて涼しい。戦後、作家の船越義彰は、「松風の音もさわやかな、いうならば那覇の軽井沢的場所であった」と回想している(『なはわらべ行状記――わが童景集』沖縄タイムス社、1981年)。松尾山を東に下りていくと、目の前にもう一つ、小山が出現する。⑪東郷マーツー(東郷松尾。東郷という名は、ここに東郷権左衛門という薩摩藩の奉行の墓があったことに由来するとされる)と呼ばれる丘で、こちらは明治になっても松林が残されていた。

写真3 松尾山。奥に泊方面が写っている。那覇市歴史博物館提供

久茂地の職人町

東郷マーツーを左手に見ながら進んでいくと ⑫久茂地の街に出る。ここは久茂地川北岸沿いに開けた平坦な場所で、指物師(釘を用いない木工品をつくる職人)、玩具づくり、線香づくり、木簪(かんざし)づくり、絣(かすり)結い、粉挽きなどさまざまな職人たちが多く暮らしていた。
 久茂地川沿いを下流、すなわち旧那覇中心部へ向かってしばらく歩くと、⑬至聖廟(儒教の祖、孔子を祀る)と明倫堂(琉球国時代、久米村の子弟に儒学や中国語を教えた学校)が現れる。そしてこの二つの裏側にあるのが ⑭内兼久(うちかにく)山という小丘である。この丘の西側に小川が流れている。久茂地川に流れ込む支流で、ちょうど久米村大道に沿って東側を流れている。久米村の中を貫通する小川であり、さきに上ってきた上之蔵、松尾山の二つの丘から流れ出た水はこの小川に合流していた。

アンシンビラ、善興寺坂、田名坂

小川を越えると久米村大道の出入口の ⑧久米村大門に出るので、ここから⑦久米村大道を北上する。西側が斜面になっている。最初に上った上之蔵の東端部だ。坂道があるので上ってみよう。坂の名は ⑮アンシンビラ。アンシンの語源は、安仙、もしくは按針という名の医者が住んでいたからという話もあるが、確かなことはわかっていない。なお、この坂は別名ハブ坂ともいった。茂みが深く、ハブがよく出たらしい。
 坂を上ると上之蔵の住宅街。ここから今度は南に下る坂道を下りていこう。この坂は、途中に善興寺という真言宗寺院があることから ⑯「善興寺坂(じんくーじびら)」と呼ばれていた。善興寺坂はかなりの急勾配で、近所の子どもたちは、頂上から坂の下までブレーキなしの三輪車に乗って一気に下る遊びを繰り返していた。
 ところで、興味深いことに、アンシンビラも善興寺坂も、さらには上之蔵へ上る田名坂も、夕方になると不気味な雰囲気のするところで、マジムン(魔物)が出るといわれていた。マジムンが出そうな場所には、石敢當(いしがんとう。「石敢當」という文字が刻まれた魔よけの石柱。道の突き当りや四つ角、魔物が出る場所などに設置される)が建てられている。また、坂の途中でマジムンにとり憑かれたら、豚小屋に飛び込んで豚を起こすとその鳴き声でマジムンが離れるとされていた。
 さて、善興寺坂を下りたところが⑰那覇市役所。ここから西に少し進めば丘めぐりの出発点であった山形屋前となる。

写真4 石敢當。戦前、撮影地は首里。那覇市歴史博物館提供

戦後、丘と坂のない街へ

今回と同じコースを、現在、たどってみるとどうなるか。上之蔵も辻遊廓跡も松尾山も、すべて平地となっている。坂道はどこにもない。なぜそうなったのか。
 1944年10月10日の那覇大空襲によって多くの住民の命が失われ、街は壊滅状態となった。そして、翌年6月23日に沖縄戦が終結すると、那覇の街は米軍の管理下に置かれ、一般人の立ち入りは禁止された。この段階で、生き残った旧那覇の住民は那覇から離れた中北部の収容所に収容されている。
 その後、段階的に旧那覇が米軍管理から開放されることとなり、1950年代に入って市街地の復興事業も始まったが、その際の都市計画の中で市街地の平面化が決定され、久茂地川西岸の丘は次々と切り崩されていった。こうして、平らな土地ばかりの街が生まれたのである。

●次回の更新は10/30を予定しています。
第1回、第2回はこちら

【参考文献】以下の文献の記述ふまえて、本文の「丘めぐり」を構成した。
沖縄風土記刊行会編著『那覇の今昔』沖縄図書教材、1969年
島袋全幸『昔の那覇と私』若夏社、1986年
那覇市企画部市史編集室編『那覇市史』資料編 第2巻中の7「那覇の民俗」、那覇市企画部市史編集室、1979年
東恩納寛惇『南島風土記』沖縄郷土文化研究会、1950年
東恩納寛惇『童景集』興南社、1952年
船越義彰『なはわらべ行状記――わが童景集』沖縄タイムス社、1981年

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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