迷宮都市・那覇を歩く 第6回 伊波普猷とモダンガールたち

カルチャー|2021.12.25
島村 恭則

伊波普猷

沖縄が生んだ世界的学者の一人に、「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは・ふゆう、1876-1947)がいる。沖縄学とは、沖縄の言語・文化・歴史などについて研究する学問の総称で、彼はその創始者といえる存在だ。
 那覇の裕福な士族の家に生まれた伊波は、20歳で本土へ渡った。京都の旧制第三高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学に進学して言語学を専攻。在学中に沖縄の古謡集『おもろさうし』の研究に着手している。
 東京帝大を30歳で卒業すると、すぐに沖縄に帰り、沖縄で初めて「文学士」の学位を取得した文化人として著述と講演活動を開始した。彼の初期の著作は、名著『古琉球』にまとめられ、今日でも読み継がれている。1910(明治43)年、沖縄県立図書館開館とともに初代館長となり、以後、図書館を舞台に文化的な啓蒙活動を展開するようになった。 
 伊波はまたキリスト者でもあり、同志とともに沖縄組合教会(プロテスタントの一派)を設立している。教会での彼は、聖書の講義とともに琉球史、文学、エスペラント語などについての講義も行なった。教会には、新時代の知識を求める那覇の青年男女が集まるようになった。

写真1 沖縄県立図書館長時代の伊波普猷 那覇市歴史博物館提供

モダンガールたち

興味深いのは、そうした中に若い女性たちの姿が目立っていた点である。彼女たちは、高等女学校を卒業した那覇の良家の娘たちで、中には本土の女子大学で学んだ経験を持つ者も含まれていた。『沖縄女性史』の著者でもある伊波は、フェミニストで、女性の自立や自由恋愛にもとづく結婚の重要性を説いており、この考え方が進歩的な若い女性たちの心をとらえた。

左/写真2 『沖縄女性史』(伊波普猷著、初版、1919年)表紙 那覇市歴史博物館提供
右/写真3 沖縄組合教会設立記念写真(1916年) 後列左が知念芳子(のちの金城芳子)、左から2人目が伊波普猷、前列左から2人目が真栄田冬子(のちの伊波夫人) 那覇市歴史博物館提供

彼女たちは、図書館や教会での学びだけでは飽き足らず、伊波の自宅の2階にも集まって彼の講義を聞くようになった。その中の一人が当時の様子を書いている。

 (伊波先生は――引用者注)聖書講義にも本格的に身を入れはじめたので日曜日だけでは足りなくなってしまった。組合教会をはみ出して西町の伊波先生のお宅まで延長した。二階が物外楼(物外は伊波普猷の雅号)と名づける書斎になっていた。四畳半か六畳の小さな部屋だが、女性グループはそこへ週二回集まって、新約聖書のマタイ伝、ヨハネ伝と先生の講義を聞いた。(金城芳子『なはをんな一代記』沖縄タイムス社、1977年)

 また、組合教会に集まる者たちは、図書館にも通いつめて本を読みあさったという。伊波の読書指導は、以下のようなものだった。

 伊波先生は、わかってもわからなくてもいいから何でも読めと、新刊書を片端からすすめた。トルストイ、ドストエフスキー、シェクスピア、ゲーテなど外国文学を読んだのはこのころである。またミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダビンチなどの泰西名画や歌麿の浮世絵もここで知った。ベーベルの「婦人論」、河上肇の「貧乏物語」なども読んだ。先生は私に桑木厳翼の「哲学概論」を下さり、アインシュタインのことまで講義して下さったが、もちろん十分理解もできずに読んだり聞いたりしていた。(前掲書)

写真4 県立図書館の一角にて 左から一人おいて伊波普猷館長、真栄田冬子(司書。のちの伊波夫人)、伊波普成(月成。伊波普猷の実弟) 那覇市歴史博物館提供

伊波をとりまく女性たちは、彼を通して西洋の文物を吸収していった。つぎのようなエピソードもある。

 伊波先生のもとへは、よく内地からえらい学者や芸術家が訪ねてきた。そんな時先生は、真教寺前にあった洋食の偕楽軒にお客様を招待し、私たちも招んで下さるので、その陪食の席ではじめてナイフやフォークの使い方をおぼえたものだ。西洋なすびといわれて一般の人はまだ食べ慣れていなかったトマト、やはりマンジュウィといって青いうち料理にしか使わなかったパパイアの熟したものを、果物として食べることなども伊波先生を通じて教わった。(前掲書)

写真5 偕楽軒(1917年頃) 那覇市歴史博物館提供

社会学者の伊藤るりは、大正期の沖縄でモダンな生活様式を身につけていった若い女性たちを、「モダンガール」としてとらえている(「1920~30年代沖縄における『モダンガール』という問い」『ジェンダー研究』9、2006年)。伊波の周囲の若い女性たちは、その典型であったといえるだろう。

写真6 那覇と首里を結ぶ電車内で談笑する婦人たち 那覇市歴史博物館提供

それぞれの人生

伊波のもとで学んだ那覇の若い女性たちは、やがてそれぞれの道へと旅立っていった。自由恋愛を実践し、組合教会で出会った青年と結ばれた者、東京へ出て高等教育を受けた者、本土で学んだ美容技術をもとに那覇で美容院を開業し、やがて美容学校を経営するとともに作家としても多くの作品を残した者(新垣美登子)、東京にあって、学者であった同郷の夫を支えつつ自らは社会福祉の第一線で長く活躍した者(金城芳子)、そして、伊波普猷の妻になるとともに歌人としてすぐれた歌を詠み続けた者(伊波冬子)など、さまざまであったが、どの女性も、自らの頭で考え、自らの意思で力強く人生を切り開くという生き方を貫いたようである。

●次回の更新は1/30を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回はこちら


【参考文献】
伊藤るり 2006 「1920~30年代沖縄における『モダンガール』という問い」『ジェンダー研究』9
伊波普猷 2000a 『古琉球』岩波文庫
伊波普猷 2000b 『沖縄女性史』平凡社ライブラリー
伊波普猷生誕百年記念会編 1976 『生誕百年記念アルバム 伊波普猷』伊波普猷生誕百年記念会
伊波冬子遺稿集刊行会編 1984 『白菊の花――忍冬その詩・短歌・随想』若夏社
金城芳子 1977 『なはをんな一代記』沖縄タイムス社
比嘉春潮 1969 『沖縄の歳月』中公新書
三木 健 1985 『那覇女の軌跡――新垣美登子85歳記念出版』潮の会

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

RELATED ARTICLE