迷宮都市・那覇を歩く 第13回 城下町首里

カルチャー|2022.7.30
島村 恭則

城下町の形成

那覇の市街地から東に約4キロの丘陵上に首里城がある(1992年に復元された建物が2019年の火災で焼失。現在は再び復元工事が行なわれている)。首里城は、1429年に沖縄本島を政治的に統一して誕生した琉球国の王城で、1879(明治12)年の沖縄県設置まで国王が居住し政務を行なう場所であった。

写真1 国営沖縄記念公園(首里城公園)。中央の建物が首里城正殿。西に面して建っている。城の南(写真右側)から東(写真上方)へ住宅が広がっているあたりが「三箇」とよばれるエリア。沖縄美ら島財団首里城公園管理部提供

首里城とその城下町の整備は段階的に行なわれてきた。琉球国を建国した尚巴志(しょうはし。1372-1439)は、王城の外苑として龍潭(りゅうたん)という池を掘り、そこで出た土を盛って安国山という山を築いた。また、城に向かうメインストリート上(現在の首里高校付近)に中山門(ちゅうざんもん)という門を建てた。

左/写真2 龍潭。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真3 中山門跡。2022年3月。島村恭則撮影

その後、第二尚氏王統(注)の第3代国王で、50年間の在位中に琉球国の黄金時代を築いた尚真(しょうしん。1465-1526)は、同王統の陵墓である玉陵(たまうどぅん)の造営、龍潭とつながる円鑑池(えんかんち)の掘削などを行なった。また、中央集権化政策の一環として、按司(あじ)と呼ばれる地方豪族をそれぞれの地元から引き離し、首里城下に集住させた。これにより首里の人口が増加し、城下町として大きく成長することとなった。

左/写真4 守礼門(しゅれいもん)。中山門と城との間に位置する。第二尚氏王統第4代国王、尚清(しょうせい。1527-1555)の時代に建てられた。第二次世界大戦で破壊され、1958(昭和33)年に復元された。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真5 円鑑池。首里城内の湧水が流れ込むようになっている。池の中の建物は弁財天堂(1968〔昭和43〕年に復元されたもの)。2022年3月。島村恭則撮影

王族や有力士族の屋敷は、首里城よりも北側に集中し、一方、東側の赤田(現在の首里赤田町)・崎山(現在の首里崎山町)・鳥小堀(トンヂュムイ。現在の首里鳥堀町)の三つの村(三箇〔さんか〕と総称される)には、首里以外の地では認められていなかった泡盛製造の蔵元が多くあった。首里は湧き水が豊富で、泡盛製造には最適の場所であった。

左/写真6 首里の士族屋敷の屋根門。1910年頃。那覇市歴史博物館提供
中/写真7 首里の士族屋敷通り。那覇市歴史博物館提供
右/写真8 首里城から見た三箇。泡盛酒造所の煙突が多く見られる。写真左の遠景は、風水思想で「玄武」に相当するとされる弁ヶ嶽。那覇市歴史博物館提供
左/写真9 三箇の一つ、崎山町の街並み。2022年3月。島村恭則撮影
中/写真10 現在も崎山町に残る泡盛酒造所、瑞泉酒造。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真11 首里城下町の景観。首里城の北方から見た首里城方面。2022年3月。島村恭則撮影
図 首里城下町復元図。歴史学者の嘉手納宗徳が作成した模写古地図(沖縄県立図書館東恩納寛惇文庫所蔵の模写古地図〔旧首里市役所に保管されていた原図〈18世紀前半の様子が描かれたものと推測されている。第二次世界大戦の戦禍で焼失〉を東恩納寛惇が絵師に模写させたもの〕を縮小模写した図)をもとに地理学者の池野茂氏が作図したもの。池野茂「首里」『城下町とその変貌』(藤岡謙二郎編、柳原書店、1983年、457頁)より。

庭園都市

1930年代末に首里を訪れた美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし。1889-1961)は、当時の古い街並みについて美しい文章を残している。第二次世界大戦の戦火ですっかり失われてしまう前の首里の様子が描かれていて貴重だ。

 那覇の町から、漸く半道程街道を進めば、城壁を抱く首里の丘が早くも視野に入るのです。王城は美しい丘の上に礎を置いているのです。なだらかな斜面を下に控え、ゆるやかに起伏する丘を左右に侍らし、遠く白波の立つ那覇の港を望み乍ら、都は静に今も立っているのです。小高い城壁に佇んで眺めるなら、其の景観の美にして大なること譬えようもないのです。只の自然景であるならば更に荘大なものがあるでしょう。只の城趾であるならばもっと雄健なものがあるでしょう。ですが自然と人文とがかくも美しく組み合わさった光景を、日本のどの土地に見出すことが出来るでしょう。そうしてどの都市が首里ほど美しい山水を四囲に控え、夢に満ちた城廓を内に備え、歴史を語る宮殿や寺院や民屋や、人文の凡てをかくもよく保有しているでしょう。
 (中略)一度道を横に折れて町々を縫えば、小石に敷きつめられた昔乍らの道が吾々の足を終りなく誘うのです。右にも左にも苔むした石垣が連なり、それに被いかぶさる「がじまる」(ガジュマル。亜熱帯から熱帯に分布する常緑樹)や、濃い福木の緑が続き、其の間に見事な赤瓦の屋根が、あの怪物(魔除けのシーサー〔獅子〕のこと――引用者注)を戴いて現れてくるのです。それは真に活きた庭園の都市なのです。
(柳宗悦『琉球の富』ちくま学芸文庫、2022年、16-17頁)

風水思想

東アジアでは、古代中国の占地術(土地の良しあしを判断する呪術的知識)である「風水思想」にもとづいて都市の造営が行なわれたと考えられるケースが少なくない。風水思想とは、「気」と呼ばれる一種のエネルギーが風や水に乗って都市を潤し、それによって繁栄がもたらされるとする考え方だ。理想的な風水環境では、都市の周囲を四神(玄武〔げんぶ〕・朱雀〔すざく〕・青龍〔せいりゅう〕・白虎〔びゃっこ〕)と呼ばれる想像上の動物が鎮護しているとされ、この状態を「四神相応(しじんそうおう)」という。中国の長安や洛陽、朝鮮の漢城、日本の平安京をはじめ、多くの都市がこうした理想的な環境にあるとされてきた。
 琉球国の場合も、中国から風水思想が伝えられていたことは、史書の記述から明らかである。もっとも、首里に城と街がつくられるにあたり、風水思想の導入が当初から計画的になされていたかどうかは記録がないので何とも言えない。そうした中で、風水思想の強い影響を想定する学者もいる。地理学者の故高橋誠一氏(元関西大学教授)がその一人だ。同氏は、「首里城や首里城下町の建設に際しては、当初から風水思想が強く意識されていたのではないか」と述べたうえで、以下の点を指摘している。

・風水思想では、通常、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎が位置付けられているが、琉球の場合、首里城は西に面して立地しており、それと連動して、東に立地する弁ヶ嶽(べんがだけ)が玄武、西に立地する波上宮(なみのうえぐう)が朱雀、南にある高津嘉山(たかつかやま)が青龍、北に立地する末吉宮(すえよしぐう)が白虎という位置づけがなされたものと推測される。
・玄武の弁ヶ嶽からは南北にそれぞれ川が流れ、西方の那覇の海に向かっている。
・これらの四神と川に囲まれた中央が気の集中する地点であり、ここが首里城である。(高橋誠一「『首里古地図』と首里城下町の復元」『関西大学東西学術研究所紀要』33、2000年、101-104頁)

臨済宗寺院と聞得大君

琉球国時代の首里には、多くの仏教寺院が建立された。それらの大半は禅宗である臨済宗の寺刹である。
 まず、第一尚氏王統第6代国王の尚泰久(しょうたいきゅう。1415-1460)は、京都からやってきた臨済宗の僧侶、芥隠(かいいん。?-1495。京都の南禅寺で修行した)を開山住持とする天龍寺(てんりゅうじ)を建立した。
 次いで、第二尚氏王統第3代国王の尚真は、1492年に王家の菩提寺、かつ琉球における臨済宗の本山として円覚寺(えんかくじ)を創建した。やはり開山住持は芥隠であった。さらに、これ以後も首里には臨済宗の寺院が次々と建てられていった。それらの多くは、王家一族の菩提寺とされ、歴代国王や王族の位牌が安置された。臨済宗の僧侶は、王府の外交使節としての役割も担い、日本本土との間を往復していた。また、王府につとめる役人たちの子弟を教育する役割も果たしていたとされる。
 1873(明治6)年の段階で沖縄における臨済宗寺院の数は26寺で、そのうちの16寺が首里にあった。それらは第二次世界大戦の戦火で焼失し、廃寺となったものが多い(円覚寺もその一つで、現在は総門と池だけが復元されている)。そうした中で、現在でも残っている首里の臨済宗寺院は、西来院(さいらいいん)、安国寺(あんこくじ)、慈眼院(じげんいん)、万松院(ばんしょういん)、盛光寺(せいこうじ)の5寺である。

左/写真12 円覚寺総門。戦後に復元されたもの。2022年3月。島村恭則撮影
中/写真13 首里の臨済宗寺院、西来院。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真14 首里の臨済宗寺院、安国寺。2022年3月。島村恭則撮影
左/写真15 首里の臨済宗寺院、慈眼院。2022年3月。島村恭則撮影
中/写真16 首里の臨済宗寺院、万松院。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真17 首里の臨済宗寺院、盛光寺。2022年3月。島村恭則撮影

ところで、琉球国の宗教は仏教に限定されていたわけではない。尚真は、神女が司祭者として神を祀る沖縄の伝統的な信仰を背景に、聞得大君(チフィジン。きこえおおきみ)と呼ばれる神女(王女、王妃、王母などが任命された)をトップとする神女組織を創出し、各地の神女を王府の統制下においた。いわゆるノロ制度である(ノロは神女の意)。そして、聞得大君やその直下の高級神女の屋敷は、首里の城下町の中に設けられた。
 これらのことは、仏教と神女による祭祀とが併存していたことを意味している。実際、王府が行なった土木工事の竣工儀礼に臨済宗の僧侶と聞得大君以下の神女がともに参列していたことがわかっている。また、聞得大君らが円覚寺など臨済宗寺院に参詣する儀礼も行なわれていたという(本節の記述はすべて那覇市企画部市史編集室編『那覇市史』資料篇第2巻中の7「那覇の民俗」〔那覇市企画部市史編集室、1979年、425-428頁〕に拠っている)。

首里人のプライドと首里ブランド

首里に暮らす人びとは「首里人(スインチュ)」と呼ばれる(同様に、那覇で暮らす人びとは那覇人〔ナーファンチュ〕と呼ばれる)が、この人たちの中には、王都の歴史を背景とした強い誇りを持っている人びともいる。また首里以外の地に住む人たちから、首里と首里人には他所にない特別な個性があると思われている場合もある。次に紹介するのは、そのことを示す興味深い文章だ。1980年代の沖縄の若者が身の周りの日常についてコラム形式で文章を寄せた『沖縄キーワードコラムブック』という本からの引用である。

 首里【しゅり】 琉球王府所在地。たしか今はないはず。いにしえの城下町としての雰囲気を残す街は、静かで、もの音も「古都っ」という感じで微かに耳にするのみ。守礼門を中心とした首里城一帯は那覇の観光のメッカである。現在は那覇市に合併吸収されているが(1954年までは首里市)、首里はあくまで首里であり、あの騒がしい那覇の市街地とはまるで違う。住所も「那覇市首里山川町」という風に必ず絶対なんといっても首里という地名を入れる。なにしろ士族の方々がいらした所である。脈々と流れる士族の血とプライド。しかし最近はそういうことはないということである。那覇市民が出身地を聞かれ、「那覇の小禄です」とか「那覇の真和志です」とか答えるのに対して、首里の人は「首里です」と言う。「那覇の首里です」というのは首里の人にとってあきらかに矛盾している言い方なのである。しかし、別に首里出身だから、他の所に優越しているとか、そんな考えはもうないですよということである。首里は高台にあり、那覇を常に見下している。あくまでも「みおろしている」のであって「みくだしている」とは読まないように。首里は沖縄の京都だ!僕は大好きだ。ほんとです。(まぶい組編著『事典版 おきなわキーワードコラムブック』沖縄出版、1989年、102頁)

 現在でも、首里人はプライドが高いといった書き込みをSNS上で見かけることがある。もちろん首里人のすべてにこれが当てはまるわけではまったくない。むしろ、こうした投稿は首里の外に住む人びとが持つ首里イメージの表出として理解するべきだ。
 ちなみに、不動産広告などでは、「王朝文化の伝統がいまも息づくまち首里」とか「王朝の奥座敷、首里〇〇町」といったキャッチコピーが用いられていることもある。これは「首里」がブランドとして機能していることの表れといえるだろう。

 注
 琉球沖縄史では、琉球国を建国した尚巴志の一族による王統を「第一尚氏王統」と呼ぶ。これに対して、同王統第7代の尚徳(しょうとく。1441-1469)の死後、クーデターによって王位に就いた尚円(しょうえん。1415-1476)を初代とし、最後の琉球国王である第19代尚泰(しょうたい。1843-1901)まで続いた王統を「第二尚氏王統」と呼んでいる。第一尚氏王統と第二尚氏王統との間に血縁関係はない。


●次回の更新は8/30を予定しています。
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【参考文献】
池野茂 1983 「首里」『城下町とその変貌』藤岡謙二郎編、柳原書店
高橋誠一 2000 「『首里古地図』と首里城下町の復元」『関西大学東西学術研究所紀要』33、75-107頁
那覇市企画部市史編集室編 1979 『那覇市史』資料篇第2巻中の7「那覇の民俗」、那覇市企画部市史編集室
東恩納寛惇 1950 『南島風土記――沖縄・奄美大島地名辞典』沖縄郷土文化研究会
まぶい組編著 1989 『事典版 おきなわキーワードコラムブック』沖縄出版
柳宗悦 2022 『琉球の富』ちくま学芸文庫

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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