迷宮都市・那覇を歩く 第9回 真和志の迷宮

カルチャー|2022.3.30
文=島村 恭則

首里と那覇のあいだ

琉球王国時代、首都は那覇から東へ約5キロの丘の上にあった。王族と士族が暮らす政治都市「首里」である。一方、「那覇」は港町で、商人たちが暮らす交易都市であった。そして、この那覇の北と東を取り囲むようなかたちで首里に至るまでの中間地帯が、「真和志(まわし)」という農村地帯であった。真和志の各集落では、米、砂糖、甘藷、蔬菜、煙草などの栽培が行なわれ、また繁多川(はんたがわ)地区では、豆腐作りが有名であった。都市近郊ののどかな田園の暮らしが展開していた。

戦後の人口増加

この真和志に大きな変化が訪れるのは、敗戦前後のことである。港に面した旧那覇の街が米軍に接収されたまま、久茂地川よりも東のエリアが先行して接収から開放されると、大量の人口がそこへ流れ込んだ。当初、それは壺屋(つぼや)や開南(かいなん)の闇市周辺からはじまったが、瞬く間に隣接する真和志の農村地帯にまで進出した。廃材を利用したバラック住宅が次々と建てられ、迷路のような路地が自然発生していった。この街は、首里に隣接する高台の斜面にまで途切れることなく拡大していった。
 1873(明治6)年の真和志間切(まぎり。琉球王国時代の行政区画)の人口が2031人、1940(昭和15)年の人口が1万6884人であったの対し、1955(昭和30)年の人口は6万339人にまで増加した(新垣清輝『真和志市誌』真和志市役所、1955年、195頁、197~198頁、283頁)。また、1953(昭和28)年には、それまでの真和志村が真和志市へ昇格している(その後、1957年に那覇市に編入)。

左/写真1 真和志の景観。三原から国道330号線方面を望む。キーストン・スタジオ所蔵、那覇市歴史博物館提供
中/写真2 樋川周辺(真和志)。那覇市歴史博物館提供
右/写真3 松尾高台から真和志の北方を望む。那覇市歴史博物館提供

図 真和志市区画図。真和志が那覇(図の西側)と首里(図の東側)に挟まれていることがわかる。新垣清輝『真和志市誌』(真和志市役所、1955年)より。

住民の移動と入れ替わり

戦後の真和志に街がつくられていった過程は、かなり複雑である。まず、戦前からの住民であっても、戦争末期に全員が疎開(沖縄本島北部へ。1945年2月)や米軍上陸後の避難(沖縄本島南部へ。同年5月)でこの地を立ち去っている。そして、その後は、いずれも捕虜となり、米軍が各地につくった民間人収容所に分散収容されている。
 戦後の1946年1月、米軍との交渉の結果、旧真和志住民たちは本島南部の摩文仁村米須地区(現在の糸満市)に集団移動することとなった。そこでのテント生活ののち、5月に那覇の南隣の豊見城村(とみぐすくそん)へ、次いで6月に同村真玉橋(まだんばし)へと集団移動をし、7月になって真和志村への帰還が許された(前掲『真和志市誌』258~266頁)。
 もっとも、帰還が認められたとはいえ、地区の全体が開放されたわけではないため、もともと住んでいた場所に戻れず、村内の別の場所に仮住まいする者も少なくなかった。その場合、元の集落単位での集団居住であるため、新たに住みついた場所の地名には、旧集落の地名がそのままつけられた。
 たとえば、戦前、「二中前(にちゅうまえ)」という集落があったが、そこの住民は、帰還後、戦前に県立第二中学校近く(現在の那覇高校付近)にあった元の「二中前」には戻ることができず、そこから離れた真和志村役場の近くに住みつき、そこを「二中前」と呼んだ。その後、元の「二中前」が開放されると、多くの住民は元の「二中前」に戻っていったが、新しい「二中前」に住み続ける者もあり、戦後しばらくの間、「二中前」という場所が二つ存在するという事態が続いていた。
 また、興味深いのは、新「二中前」の場合もそうだが、仮住まいをしていた人々が元の場所に戻っていった後には、新たな住民が流入してきたことである。戦後になって沖縄本島北部の農村や離島から新天地を求めて那覇にやってきた人たちが新住民となったのだ(仲程正吉編著『沖縄風土記全集――那覇の今昔』沖縄図書教材、1969年、405頁)。

転入者の街

なお、こうした新規流入のパターンとは別に、もともと畑地や荒地だった場所に外来者たちの新しい集落ができたケースもある。たとえば大原(現在の寄宮3丁目)という集落は、大石毛(おおいしもう)と呼ばれた原野を開拓して1946年に生まれた集落である。この開拓は、米軍の指示のもとに当時の沖縄民政府の陸運課が行なったもので、那覇港で水揚げされた荷物の運送などに従事する陸運労働者によって120戸のテント集落がつくられた。その後、本島南部の知念(ちねん)、中部の石川、北部の田井等(たいら)の民間人収容所から陸運関係者とその近親者、友人らが流入して人口が増加し、さらに陸運関係者以外の住民も流入するようになったが、それでも自動車・交通に関わる職に就いている人の居住が多く見られた(前掲『真和志市誌』274~275頁、前掲『沖縄風土記全集──那覇の今昔』312~313頁)。
 このような外来者の流入は、真和志全体で多かった。1955年の記録では、真和志市の総人口の約70パーセントが他市町村からの転入者で占められているとされている(前掲『真和志市誌』273頁)。

左/写真4 現在の大原(寄宮3丁目。2022年3月)。島村恭則撮影
右/写真5 旧真和志市役所(現在の那覇市真和志支所)付近にあった食堂。1960年代。那覇市歴史博物館提供

「迷宮」の来歴

第1回「モノレールに乗ろう」で紹介したように、作家の島尾敏雄は、那覇の街を「迷宮」と表現しているが、彼の迷宮イメージは、実は、真和志の景観に由来している。
 たとえば、次の描写は、真和志に特徴的な景観をとらえたものといってよい。

 ひもかわに似た沖縄そばとあげ菓子のサタアンダーギーのにおいが裏町にほのかにただようと、私は手もなくとりこにされてしまったのだ。その肌近いひそかな生活のひとり立ち。そして丘陵の起伏の上に展開された町のたたずまいにはある自由さがあると感じてしまう。(中略)ひとつのせまい町筋を通りぬけて交差の場所にでると、坂の下の向こうがわに広がる丘陵の町が、あかるい太陽のもとで、光を白く反射してかがやいていた。(中略)どの町筋も曲がりくねった傾斜を持ち、坂をのぼり切ると思わぬ下町の展望を見下ろすこともあるかと思うと、いきなり階段のような屈斜の路地で立ちふさがれたりする。(島尾敏雄『新編・琉球弧の視点から』朝日新聞社、1992年、274頁、365頁)

 また、島尾自身、「私は或いは、もとの那覇と首里の中間地帯のあたりで殊に顕著な町のかたちに強く印象づけられて思いをかけ、それに那覇の町全体をかさねてしまっているのかもしれない」(同書366頁)と述べている。この「中間地帯」というのは真和志に他ならない。つまり、島尾のいう「迷宮」の正体は、戦後の人家の密集が生み出した真和志のそれだったのである。
 もっとも、迷宮的景観は、戦後の真和志だけのものというわけではない。那覇生まれの詩人、牧港篤三は、戦前の那覇の街の路地に着目して次のように述べている。

 昔の那覇の都市機能の特質は、無数の小路(スーヂ)のつながる面白さであった。勿論これらの小路は大通りの幹線へ注ぐためにあった。その小路の果たす役目は大きく、存在感があった。市民文化は、そこから匂い立った。(牧港篤三『幻想の街・那覇』新宿書房、1986年、171頁)

 その複雑さと巨大さにおいて、戦後の真和志を超えるものではないとしても、戦前の那覇の街に路地が入り組んだ迷宮があったであろうことは、当時撮影された街の写真からも想像できる。那覇という都市の迷宮性は、何層もの歴史が積み重なって形成されてきたといえるだろう。

左/写真6 真和志の景観(識名。2022年3月)。島村恭則撮影。
中/写真7 真和志の景観(識名。2022年3月)。島村恭則撮影。
右/写真8 真和志の路地(識名。2022年3月)。左側に見える「石敢當」は、辻や三叉路に設置される魔除けのプレート。島村恭則撮影。

●次回の更新は4/30を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回はこちら

【参考・引用文献】
新垣清輝『真和志市誌』真和志市役所、1955年
島尾敏雄『新編・琉球弧の視点から』朝日新聞社、1992年
仲程正吉編著『沖縄風土記全集――那覇の今昔』沖縄図書教材、1969年
牧港篤三『幻想の街・那覇』新宿書房、1986年

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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