迷宮都市・那覇を歩く 第2回 100年前の那覇の音

カルチャー|2021.9.2
文=島村 恭則

町中に鶏の声

 今からちょうど100年前、1921(大正10)年の1月5日、民俗学者の柳田國男は初めて那覇を訪れた。街の中心部、西本町(にしほんまち)の旅館で最初の朝を迎えた彼は、そこら中から聞こえてくる鶏の声に驚かされた。

  鶏の声盛(さかん)なり。満市(=まちじゅう)の鶏の声なり。夜あけて町のせまきを見て、どこにあれほどの鶏がゐたかとおどろく。(柳田國男『南島旅行見聞記』酒井卯作編、森話社、2009年)

 目に映る土地の情景をランドスケープ(景観)と呼ぶのに対して、耳で認識する土地の情景をサウンドスケープ(音景)と呼ぶ。今回は、沖縄戦で壊滅する以前の那覇の街(旧那覇)で、どんな音が聞こえていたのか、「旧那覇のサウンドスケープ」を探ってみよう 。

市役所の時報、市場の喧騒

戦前の那覇市役所。サイレンを鳴らす塔が見える。那覇市歴史博物館提供

 街の中心部の一角に那覇市役所(1921年5月の市制施行までは那覇役所)があった。1919(大正8)年竣工のこの建物はスパニッシュ様式で、中央部には23メートル5階建ての塔が設けられていた。この塔からは、毎日、午前6時、正午、午後5時の3回、30秒ずつサイレンが鳴り響いていた。その音は、近くの沖縄そば屋のそばの汁にさざ波が立つほど大きかったという。
 西本町とともに那覇の中心に位置する東町(ひがしまち)には、沖縄最大の市場、ナファヌマチ(那覇の市)があった。ここでは肉、魚、野菜、雑貨など、あらゆるものが売られていた。肉売り場に瓦屋根が設けられている以外は露店市で、大きな傘の下に品物が並べられていた。商品を持ち込むのは近郊農漁村の女性たち。これを仲買人が買い取り、小売りの商売人に売る。仲買も小売りも、そして客もほとんどすべて女性たちで、男性は市場に立ち入りにくい雰囲気さえあった。市場では、品物や値段をめぐる交渉が大きな声でなされ、喧噪のピークは午後4時頃だった。

旧那覇の市。那覇市歴史博物館提供

物売りの声、古鉄回収のチャルメラ

 街の中には行商人も歩いていた。女性は品物を入れた籠を頭の上に載せ、男性は荷箱を肩に担いで回っていた。南部の漁師町、糸満(いとまん)からやってきた魚売りは「イヨーコウンチョラニー(魚を買いませんか?)」と言って回り、中部の農村からやってきた山桃売りは「ムムグァーコーミソラニー(桃を買いませんか?)」と言って回った。いずれも女性たちだった。豚肉や牛肉を売って回るのは男性で、呼び声は「ケンソレー、コンソレー(買ってください)」だった。
 アイスケーキやアイスコーヒー、饅頭を売る男性もやってきた。「コーヒーだ、コーヒーだ、うまいだー」、「アイスケーキは氷菓子、ひやっこくて甘くって一本が一銭」、饅頭の場合はさまざまな種類の抑揚をつけた「マンジュー」というのが呼び声だった。
 古鉄(ふるがね)回収の男もやってきた。チャルメラを鳴らしながら街中を流すと、子どもたちが、前もって拾い集めていた針金や鉄片を持って集まってくる。男はそれらと引き換えに、朝鮮飴と呼ばれる長い飴を厚手のハサミでパチリと切って渡す。古鉄と飴の物々交換であった。

路面電車、蒸気機関車、人力車

旧那覇中心部の様子。中央やや右よりに市役所の塔や路面電車が見える。那覇市歴史博物館提供

 那覇の街には路面電車(1914年開業)もあった。チンチンという鐘の音を響かせながら、那覇港から街の中心部を通って首里まで走っていた。
 また、久茂地川の東側、今の那覇バスターミナルがあるところには軽便鉄道の那覇駅があり、ここから南部の糸満、与那原、中部の嘉手納まで列車が走っていた。子どもたちは、蒸気機関車が走る様子を、「アフィー、シッタンガラガラ、シッタンガラガラ」と真似て遊んだ。アフィーは警笛を、シッタンは蒸気の噴出音、ガラガラは車輪の音を表している。
 人力車も、ケレレンという警笛を鳴らしながら街のあちこちを走っていた。「那覇名物」と言われるほどその数が多く、1913(大正2)年当時、約900台が市内を走っていた。値段が安く手軽に利用されたようだ。

映画・芝居の宣伝、大道芸人

 那覇には、かつて大正劇場、平和館、那覇劇場、旭館といった劇場があり、映画や沖縄芝居が興行されていた。映画の宣伝は、トロンボーン、トランペット、クラリネットからなる楽隊が「美しき天然(1902〔明治35〕年につくられた唱歌。武島羽衣作詞、田中穂積作曲。チンドン屋の定番曲として知られる)」 などをにぎやかに演奏しながら街中を回ってチラシを配った。子どもたちは楽隊の後をどこまでも追いかけた。沖縄芝居のほうは、役者が一人ずつ人力車に乗って街を回り、角々で降りて口上をするというものだった。
 街角や空き地には大道芸人の姿もあった。ホーカー(放下)と呼ばれる曲芸師は、銅鑼(どら)をガンガン叩いて客を集め、逆立ちやとんぼ返りなどの軽業(かるわざ)を見せた。

港の音

戦前の那覇港。出校風景。那覇市歴史博物館提供

 那覇は港町である。出船入船の汽笛が空に響いた。汽笛の音色でどの船かを聞き分ける人もいた。港では、見送りの人たちが出航する船に向かって「ちばてぃ くーよー (気張って来いよ)」「胴頑丈(どぅがんじゅう)さ しよーりよー (からだに気を付けろよ)」「儲きてぃ くーよー (儲けて来いよ)」などと叫びながら指笛を鳴らし、ティーサジ(手ぬぐい)を振った。見送られるのは、関西方面へ出稼ぎに行く人や南米に移民する人たちだった。

寺の鐘、雀の声

 那覇には、浄土真宗や真言宗の寺院があり、夕方になると、それらの寺の鐘の音が聞こえてきた。1908(明治41)年に移転するまで、那覇港の堤防の上には臨海寺という真言宗寺院もあり、ここの鐘の音は、街の対岸にあるガジャンビラ(蚊坂)という丘に反響して街中に届いていた。
 

葛飾北斎「臨海湖声」(1832年頃。錦絵「琉球八景」のうちの1枚)に描かれた臨海寺(堤防上の右側)。北斎は、『琉球国志略』(中国で刊行された琉球についての本)に載せられた「球陽八景」の絵を参考にしてこれを描いたとされる。原図は、メトロポリタン美術館が所蔵・公開しているもの

 街の中にはところどころに大きなガジュマル(榕樹)があって、夕暮れ時には、そこをねぐらとしている雀の大群が戻ってきた。ガジュマルの周囲は雀たちの鳴き声で騒々しかった。

石ブラ、辻の料亭、物売りと按摩

昭和初期の旧那覇中心部(抜粋。『那覇市史』資料篇第2巻中の7付録図「旧那覇の歴史・民俗地図(昭和初期)」1979年より)

 那覇の銀座通りと呼ばれた繁華街「石門(いしじょう)通り」は、夜の11時頃まで店が開いており、夕涼みに「石ブラ」する人々も多かった。夜になるとチコンキ屋(蓄音機屋。レコード店のこと)が無料でレコードを聞かせてくれた。夕飯をすませた人びとが集まってきて店先に座り込み、店員がレコードをかけるのを、固唾をのんで見守っていた。
 同じ頃、街の北西にある辻の料亭街では、あちこちで宴の真最中である。芸妓たちの三線(さんしん。沖縄の伝統的な弦楽器)と歌声、酔客の歓声が道に聞こえてきた。
 一方、住宅街の夜は静かである。その中を、「つけあげー、つけあげー」と言って揚げ蒲鉾を売り歩く者や、黒メガネに白い服で杖を突き、笛をプーヒー、ホロホロと鳴らしながら歩くアンマトリイ(按摩)が回っていた。

■本稿は、次の文献に記された音に関する記述を抽出の上、筆者が再構成したものである。
 東恩納寛惇『南島風土記――沖縄・奄美大島地名辞典』(沖縄郷土文化研究会、1950年)、東恩納寛惇『童景集』(興南社、1952年)、沖縄風土記刊行会編著『那覇の今昔』(沖縄図書教材、1969年)、金城芳子『なはをんな一代記』(沖縄タイムス社、1977年)、琉球新報社編『むかし沖縄 写真集』(琉球新報社、1978年)、那覇市企画部市史編集室編『那覇市史』資料篇第2巻中の7「那覇の民俗」(那覇市企画部市史編集室、1979年)、船越義彰『なはわらべ行状記――わが童景集』(沖縄タイムス社、1981年)、三木健編『那覇女の軌跡――新垣美登子85歳記念出版』(潮の会、1985年)、島袋全幸『昔の那覇と私』(若夏社、1986年)。
 なお、本連載の性質上、個々の記述が上記の文献のどれに拠るものかまでは注記していない。この点、ご了解いただきたい。


 ●次回の更新は9/30を予定しています。

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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