迷宮都市・那覇を歩く 第11回 真嘉比の変貌:都市化のなかのシマ

カルチャー|2022.6.1
島村 恭則

農村だった真嘉比

現在では想像しにくいが、那覇市の中でも「真和志」や「小禄」という地域は、戦前まで農村地帯であった。そこにはいくつものシマ(沖縄の言葉で「集落」を意味する)が点在していた。
 那覇市街地と首里との間の丘の上にある「真嘉比(まかび)」(「真和志」地域に属する)もそのようなシマの一つである。1903(明治36)年の人口は506人で、世帯数は120。集落の周りに、さとうきび畑や芋畑が広がる典型的な純農村であった(真嘉比字誌編集委員会編『真嘉比字誌』真嘉比自治会、2014年。本稿の記述は、同書、および筆者による現地取材にもとづく)。

真嘉比の変貌

真嘉比の人びとの暮らしは、沖縄戦で一変した。那覇・首里周辺が激戦地となり、集落の人びとは山原(沖縄本島北部)や島尻(同南部)へ避難した。そして避難先で米軍の収容所に強制収容され、戦後もしばらく収容所暮らしが続いた。住民が真嘉比に戻ることができたのは1947年になってからだった。
 1950年代に入り、真嘉比の人口は急増した。沖縄各地から那覇に仕事を求めてやってきた人びとの一部が、ここに住みつくようになったのだ。1965(昭和40)年には、738世帯、3673人が暮らすまでになっている。かつての畑地に住宅が無秩序に建てられ、それに挟まれるように墓地が点在しているというのが当時の真嘉比の景観だった。下水道は整備されておらず、未舗装の道路も多かった。

写真1 区画整理前の真嘉比の様子。真嘉比自治会提供

このため、那覇市は居住環境改善のための区画整理事業を実施した。住宅1298戸と墓地1317基(うち所有者不明が約700基)の移転をともなう工事は1988(昭和63)年に始まり、25年後の2013(平成25)年に完了した。

写真2 現在の真嘉比の様子。2022年3月。島村恭則撮影

真嘉比探訪

現在の真嘉比の様子を見てみよう。集落の中心部にあるのが「真嘉比自治会館」だ。その南側にある駐車場は、かつてメーヌムイ(前之森)と呼ばれる広場だった。ここには大きなガジュマルの木が3本あり、夏はその下で夕涼みをしながらおしゃべりする人が絶えなかった。青年男女が集まって話し合ったり、ダンスに興じたりもしていた。その後、区画整理によって広場は駐車場になり、ガジュマルの木は3本とも真嘉比中央公園(集落の一角に新たにつくられた)に移植された。

左/写真3 真嘉比自治会館。2022年3月。島村恭則撮影
中/写真4 メーヌムイ(前之森)跡、現在は駐車場になっている。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真5 メーヌムイから移植された3本のガジュマル。真嘉比中央公園。2022年3月。島村恭則撮影

真嘉比中央公園のすぐ隣には、やはり区画整理によって新たにつくられた「墓地街区」がある。それまであちこちにあった墓を集約した場所だ。

写真6 墓地街区。2022年3月。島村恭則撮影

自治会館の北東方向、真嘉比交番があるところには、かつてアガリンクムイ(東の池)という池があった。

写真7 アガリンクムイ(東の池)跡。交番、空き地、駐車場になっている。2022年3月。島村恭則撮影

120~130坪の大きさで、水脈があるため枯れることはなかった。戦前には、夕方になると畑から帰ってきた人が農具や手足を洗い、井戸端会議が開かれていた。この池では青年団が鯉を養殖していた。鯉は、熱さましの薬として煎じて飲むのに用いられた。池は、戦後しばらくして埋められた。
 集落内には3つの井戸があった。その一つ、集落の東側にあるアガリンカー(東の井戸)は、水量豊富で、飲料用のほか、洗濯水や農業用水としても使われた。ここにもガジュマルの木があり、木陰は文字通り井戸端会議の場となっていた。

写真8 アガリンカー(東の井戸)。道路の右側にある。2022年3月。島村恭則撮影

自治会館から東に少し行くと「真嘉比殿内」(マカビドゥンチ。殿内は、神を祀る建物の意)と書かれた赤瓦の建物にぶつかる。「シマができたときの初代の役人」と「2代目・3代目の役人」の位牌、そして火の神を祀るところだ。集落の年中行事の際に、自治会の役員らが参列して祭祀が行なわれている。

左/写真9 真嘉比殿内(マカビドゥンチ)。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真10 真嘉比殿内の祭壇。右から、シマができたときの初代の役人、2代目・3代目の役人、火の神をそれぞれ祀る。2022年3月。島村恭則撮影

真嘉比には他にも重要な聖地がある。集落から北へ約900メートル離れたところにあるハルガンウタキ(原神御嶽。御嶽は聖地の意)、アガリヌトゥン(東の殿。トゥンは神を祀る建物のこと)、イリヌトゥン(西の殿)、ヌールガー(聖なる井戸。ヌールは神を祀る役の女性のこと)がそれだ。いずれも祭神は、はっきりしていないようだが、現在でも住民の信仰を集めている。

左/写真11 ハルガンウタキ(原神御嶽)。2022年3月。島村恭則撮影
右/写真12 アガリヌトゥン(東の殿)、イリヌトゥン(西の殿)、ヌールガー(聖なる井戸)。2022年3月。島村恭則撮影

綱引き

真嘉比の年中行事で最も大きなものは、毎年夏に行なわれる綱引きだ。戦前からの住民に、戦後の新住民も加わり、シマ総出で行なわれる。この行事は戦前からあり、かつては旧暦6月26日に実施されていた。現在では、真嘉比御殿での祈願行事のみを同日に行ない、綱引きそのものは直後の日曜日に行なっている。綱引き当日は、早朝から大勢が集まって綱づくりを開始、午後に完成する。綱は雌綱と雄綱からなり、自治会館を境に雌綱が西、雄綱が東となるよう道路に設置する。
 行事の開始は午後6時。東西双方の旗頭(はたがしら。竿に飾りを取り付けた祭具。綱引きのチームのシンボルとされる)が向かい合うガーエー(士気を高めるための示威的パフォーマンス)で人びとの熱気が一気に高まったところで、綱引き本番となる。勝負は2回で、昔から「西が勝つと豊作」といわれてきた。
 真嘉比の綱引きは、戦後、一時中断していたものを1950年頃に復活させたものだが、当初は新住民の参加がなく、盛り上がりに欠けていた。これに危機感を抱いた当時の青年会が中心となり、新住民へ参加を呼びかけた。そして、みんなが参加しやすい日曜日に開催日を変更し、もともと真嘉比には存在しなかった旗頭を導入して行事を賑やかなものにするなど、さまざまな工夫も行なった。こうして今日のシマ全体を巻き込むような綱引きが実現した。

左/写真13 綱引きの旗頭。2000年。真嘉比自治会提供
右/写真14 綱引き。2012年。真嘉比自治会提供

新住民

綱引きに限らず、新住民たちの地域への溶け込みは、住民自身が誇りとするところだ。シマの歴史や生活について自治会がまとめた『真嘉比字誌』(字は、集落の意)には、新住民の次のような声が載っている。

 自治会の活動をして感じることは、一つは、旧部落の人とよそから入ってきた人との間に違和感がないですね。本当にみんな一つになっている。そういうものがひとつの大きな特色ではないかなと思いますね。よそから来た人でも気持ちよく受け入れて、一緒に活動するということ。それともう一つは、真嘉比に来ている人は地方から来ていますよね。真嘉比も昔は農村ですから、そういう共同体意識が非常に強いです。(中略)これは地域の大きな誇りとしていいんじゃないかな。(前掲『真嘉比字誌』234頁)

 農村だった真嘉比は、この80年で大きく変貌した。戦後の人口大量流入、区画整理事業は地域の様相を大きく変えた。しかし、聖地は現在でも維持され、綱引きはむしろ活性化している。新住民の地域への融合も顕著である。ここには、新たな状況に柔軟に適応しながら生き続けるシマの姿がある。


謝辞
写真掲載にあたって真嘉比自治会のご協力を賜りました。記して謝意を表します。

●次回の更新は6/30を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回、第10回はこちら

【参考文献】
真嘉比字誌編纂委員会編『真嘉比字誌』真嘉比自治会、2014年

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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