迷宮都市・那覇を歩く 第7回 開南バス停ものがたり

カルチャー|2022.1.30
島村 恭則

開南バス停

1987年に初めて那覇に滞在したとき、路線バスであちこち出かけてみたが、その際に気づいたことがある。那覇のバスターミナルから沖縄本島南部方面に向かう市外バスに乗ったところ、ターミナルから乗っている客は数名だったのに、四つ先の「開南(かいなん)」というバス停で20人くらいが乗り込んできたのである。その多くは中年以上の女性で、買い出しの帰りだろうか、たくさんの荷物を抱えていた。バスが那覇市を越えて郡部に入ると、彼女たちは停留所ごとに少しずつ降りていった。
 このバス停に興味を持った私は、翌日、ここに行き周囲を観察してみた。その結果、郡部から次々とやってくるバスから、昨日見たのと同じような女性たちが降りてきて、バス停の脇にあるアーケードに吸い込まれていくことがわかった。また、逆にアーケードから出てきた女性たちが、郡部の各地に向かうバスにそれぞれ乗り込んでいく様子も見ることができた。
 アーケードの名前は「サンライズなは」(1987年以前の名称は「新栄通り」)。私は、このアーケードの中に入っていった。すると、250メートルくらい歩いたところで別のアーケードと交差する地点に出た。その前方角には「新天地市場」と書かれた衣料品中心の市場があった。また左折した先には「第一牧志公設市場」があった。また歩いてきたアーケードをさらに進むと別のアーケードとも交差した。そしてその先にもまた別のアーケードがあった。つまり、このあたりは、「第一牧志公設市場」を中心とする那覇の巨大な商業空間の真ん中だったのである。ということはつまり、開南バス停は、この商業空間の出入り口にあたる場所だったということになる。

写真1 開南バス停(1978年)。那覇市歴史博物館提供

開南の歴史

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍は沖縄の占領を宣言する。その後、那覇に侵攻した米軍は、前年10月10日の大空襲で壊滅状態となった街の全域を接収し、全住民を収容所に移動させた。しかし、11月になると、壺屋・松尾・開南・真和志の4点を結ぶ道路で囲まれた地域を例外的な入境可能地域に指定して、陶芸職人を彼らの元の居住地である「壺屋」に帰還させた。各地の収容所で不足している食器の製造をさせるためだ。その際、地区復興のための設営隊、陶工や設営隊の家族も順次入域させ、1946年1月末には1000人が壺屋・松尾・開南・真和志の4点を結ぶ道路で囲まれた地域で暮らすようになった。その後も、彼らの縁故を頼って各地の収容所から入域する者が続き、この地区の人口は増大していった(その後、段階的に米軍による土地接収は解除され、那覇市全体の人口が激増する)。
 そうした中で、自然発生したのが「壺屋マチグヮー」(マチグヮーは、市場のこと)と「上(うえ)マチグヮー」と呼ばれた二つの闇市(経済統制下で統制を逸脱して商売が行なわれる自由市場)である。このうち上マチグヮーは、現在の開南バス停付近にあった。闇市では、周辺農漁村から持ち込まれた野菜や魚、米軍からの横流し品、密造酒、台湾・香港・日本本土との密貿易によって持ち込まれた砂糖、薬、雑貨などさまざまなものが売られ、賑わった。
 1948年4月、壺屋マチグヮーと上マチグヮーは、区画整理のため移転させられた。その移転先として用意されたのが、「牧志公設市場」であった(当初は、バラックの市場。のちにビル化)。
 これとは別に、1946年の秋になると、日本本土や外地(日本の旧植民地など)からの引揚者で那覇出身の人たちの一部が開南に流入してきた。開南バス停から壺屋方面に向かうゆるい下り坂の両側にテント小屋を建てて住みつき、商売を始めたのである。その数は約80戸。この坂道が、のちに店構えを整えた「新栄通り」となり、さらにアーケード化や名称変更を経て現在の「サンライズなは」となったのである。

左/写真2 新栄通り。1950年頃。大里喜誠氏・那覇市歴史博物館提供
右/写真3 1960年代の開南バス停付近。新栄通りが見える。那覇市歴史博物館提供

バスおじさん

開南バス停は、那覇やその周辺の人たちにとって懐かしい場所として記憶されているようである。那覇生まれ、那覇育ちで沖縄の出版人として活躍する新城和博氏(1963年生まれ)の著書『ぼくの〈那覇まち〉放浪記──追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』の冒頭には、「開南のバス停から街に出かけたころ」という文章が掲げられている。


 南部方面の路線バスの上り・下りのほとんどが通る開南バス停は、平和通りや牧志の公設市場、そして国際通りへの入り口として、南部の人たちにとっては、東京でいえば「上野駅」のようなものだった。いつも大勢の人であふれていた。多分僕が子どもの頃が最盛期で、バス停一帯はちょっとした商店街を形成していた。バスの乗り口がプラットホームのようになっているところが駅っぽくて、その横に交番があった(中略)。とにかくたくさんの路線バスがやってくるので、行き先を案内してくれる駅員さんならぬバス停員のおじさんもいた。「次は〇〇番線、どこそこ行き~」なんて感じの、ガラガラ声の片腕で制服姿のおじさんの姿は、僕が小学生の頃からずっと同じだった。(新城和博『ぼくの〈那覇まち〉放浪記──追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』ボーダーインク、2015年、13頁)


 開南バス停をめぐる同様の語りは、1989年に刊行された『事典版 おきなわキーワードコラムブック』という本(ちなみに、本書の編集代表者は前掲書の著者、新城和博氏)にも記載されている。


 (前略)開南のバス停いや、第二の上野駅には、片手のバス員さんがバス停に立ち、「次は、識名行き」とか「糸満行き」と若干ダミ声でアナウンスしてくれて、又、どこそこのバスは、何時にきますかと聞くと、親切に教えてくれたんだ。懐かしいあのおじさんは、どこへいったのやら。いつのまにか月光仮面のように、去ってしまったおじさん。ぐすん。(楚南美智子「開南のバス停」『事典版 おきなわキーワードコラムブック』(まぶい組編著、沖縄出版、1989年、57頁)。


 実は、このバスおじさんについては、取材記事がある。那覇の街に暮らす人びとについての多彩なレポートを掲載する地域情報誌『み~きゅるきゅる』の第5号(「開南」特集号)に掲載された記事だ。それによると、1921(大正10)年生まれの真栄城忠義さんは、バス協会にバス案内員として雇用され、1959年から1981年まで雨の日も風の日も開南バス停に立ち続けた。勤務時間は午前8時から午後8時までだったが、6時の始発前にはバス停に着いて掃除をし、昼休み以外は、休憩なしで案内し続けたという。
 いつの頃からか街の人びとから「バスおじさん」「バスのおじさん」と呼ばれるようになった真栄城さんは、無事故で22年間勤めあげた。引退後も街を歩いていると声をかけられることが多くてうれしいと語っている。(小野尋子「実直な働きぶりが人々の心を打つ──“開南バス停のバスおじさん”こと真栄城忠義さん」『み~きゅるきゅる』第5号、2008年、8-9頁)
 
 開南は、現在では市街地の一角として埋没している。しかし、今日に至るまで、市外からバスでやってくる人たちにとっては、ここが実質的な那覇の入り口であることに変わりはない。人びとが行きかうこの境界的な場所からは、さまざまな物語が生みだされた。それらは、懐かしい記憶として今も多くの人たちによって語り継がれている。

写真4 現在の開南バス停(2021年12月)、周丹氏提供

付記
開南の地名は、戦前、この地にあった「開南中学校」(旧制)に由来する。


●次回の更新は2/28を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回はこちら

【参考文献】開南・壺屋周辺の歴史については以下の文献を参照して本文を構成した。
川平成雄 2011 『沖縄 空白の一年──1945-1946』吉川弘文館
那覇市企画部文化振興課編 1987 『那覇市史』資料篇3-1(「戦後の都市建設」)、那覇市役所
比嘉朝進 2000 『戦後の沖縄世相史──記事と年表でつづる世相・生活史』暁書房
三嶋啓二 2020 「沖縄の戦後を歩く22 那覇市(新栄通り・平和通り)」
沖縄ある記編『沖縄の戦後を歩く──そして地域の未来を考える』沖縄しまたて協会

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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