迷宮都市・那覇を歩く 第1回「迷宮都市」への招待

コラム|2021.7.27
文=島村 恭則

モノレールに乗ろう

沖縄旅行で那覇に行ったら、最初にモノレールに乗ることをすすめたい。全線高架で眺めが良いからだ。
 列車は、那覇空港を出ると、しばらく住宅街を走る。本土では見られない白い家々からなる街並みがまぶしい。このあたりは小禄(おろく)という街で、戦後に那覇市になったところ。それまでは那覇近郊の農村だった。次に、国場(こくば)川という川を渡る。この川を越えたところからが那覇市の中心部。高架の下を見てほしい。運河のような川がある。久茂地(くもじ)川だ。ここからしばらくはこの川に沿って走る。
 この川の西(海がある方向。首里方面に向かって左側)は、実はもともと島だった。それがだんだん陸地化していき、内海の東側にあった陸とつながった。つながったといっても、もともとの島と陸の境目はいまもある。それが久茂地川。この川はかつての内海の名残なのだ。
 第二次世界大戦(沖縄戦)で全壊するまで、那覇の街は、この島の中にあった。いま、那覇で賑やかなところというと国際通りや平和通り商店街、公設市場があるあたりだが、かつて、そこは島の外。那覇の街からは遠い湿地帯だった。
 モノレールに乗り続けよう。古島(ふるじま)という駅を過ぎると、列車は勾配を登っていく。最後部の窓からは東シナ海も遠くに見えている。この坂を登りきった高台が首里(しゅり)の街。琉球国の王城、首里城を中心とする城下町で、王朝時代には士族がたくさん住んでいた。いまもここは「山の手」で、那覇の高級住宅地といえば「首里」。
 モノレールは、この先をさらに進み、那覇市の境界を越えて隣の浦添(うらそえ)市まで通じている。那覇空港駅から終点の「てだこ浦西(うらにし)」駅まで17㎞、約40分の小旅行だ。

写真 首里の高台に向かって勾配を登るモノレール。

写真 久茂地川。かつての内海が川になったもの。川よりも西(左側)が島だった。

 魅力的な「迷宮都市」

モノレールを降りたら、次は、街の中を歩き回ってみよう。すると、さきほどとはまた異なる印象を受けるはずだ。作家の島尾敏雄(しまおとしお)は、この印象を「ラビリンス(迷宮)」と表現している。

 それは迷路、と言っていいかどうか、私の頭の中では魅惑的なラビリンスの町、というふうに刻みこまれているものだ。たとえば那覇の市街図を見てみよう。行き止まりになったり、消えて無くなってしまう道筋が至る所で目につくことに、まずふしぎな感じを抱かないわけにはいくまい。その先の地図の中の空白の部分。実際にはそこは一体どうなっているのだろう。
 つまりそれが那覇の都市として際立った特長なのだ。地図の上の空白のそこには、究極のところ墓山やラビリンスの世界が横たわっている。それらの空間を細胞として抱え持った那覇の町は、そのかたちに甚だしく個性的な立体感を与えているのである。
 私の胸の中の那覇の町は、それぞれが地蜘蛛の巣のように行き止まり、しかしその内部は毛細管の先端に似た、容易に窺いにくい有機的な営みを活発に営みつづける小宇宙を、いくつもいくつも抱え持った迷宮的幻想都市の現前である。(島尾敏雄「那覇日記」『新編・琉球弧の視点から』朝日新聞社、1992年)

 この文章以来、那覇は、しばしば「迷宮都市」と呼ばれるようになった。
 さて、那覇は、島尾だけでなく、多くの人を惹きつけてきた。私もその一人である。これから始めるこの連載で、民俗学者の私は、那覇の街を「都市民俗学」の視点で歩いてみたい。
 都市民俗学とは、都市に暮らす人びとの生活文化を、過去と現在を往復しながら読み解いていく学問だ。「フィールドワークによって観察できる現在の姿」と「過去と現在のあいだで何層にも積み重ねられている歴史の記憶」をつなげたり、重ねあわせたりしながら、街と暮らしの成り立ちを読み取っていくのである。このようにして、島尾が指摘する「迷宮」性も含めた、那覇という街が持つ多面的な姿にアプローチしていくことにしよう。

「首里」も「国際通り」も那覇ではなかった

現在、首里は那覇市の一部だ。だが、そうなったのは第二次世界大戦後、1954(昭和29)年のことである。それ以前は「首里市」という別の市だった。また、いま国際通りがあるあたりを牧志(まきし)というが、そこが「那覇」になったのは明治時代。それまでは那覇(当時は那覇区)ではなかった。
 では、いったい「那覇」とはどのあたりをさす地名だったのだろうか。
 島袋全発という歴史学者は、那覇の歴史を次のように説明している。

① 那覇とは、もともと東シナ海に面した「なはどまり」(「とまり(泊)」は「港」のこと)と呼ばれた港の周囲の地をさす名称だった。
② そこは「浮島(うきしま)」と呼ばれる島の中に位置していた。
③ その後、島内の他のエリアや対岸部まで「那覇」の範囲が広がっていった。
(『那覇変遷記』沖縄タイムス社、1978年)

図1 15世紀の那覇(『伊波普猷全集』第4巻、平凡社、1974年より)。 図中の「浮島はげらへて」は、「おもろ」(琉球国時代の古謡。これを集めたものが『おもろさうし』と呼ばれる書物である)の一節で、翻訳すると「(国王が)浮島に港を築かれて」という意味。

図1は、沖縄出身の学者・伊波普猷(いはふゆう)が、いろいろな史料をもとに描いた地図だ。この図の中央やや左よりに浮かんでいる島が「浮島」で、その中の「那覇」と書かれたところがもともとの那覇の街である。そして浮島を取り囲むように陸地(「真和志間切(まわしまぎり)」と書かれているところ)が描かれている。
 次の図2は、「明治初年の那覇」を示した図だ。図1と比べてかなり陸化が進んでいることがわかるだろう。陸地との間の内海は、川になっている。これがモノレールから見えた久茂地川だ。

「首里の着倒れ、那覇の食い倒れ」

ところで、これらの図には首里は出ていない。首里はこの図の東(右)の外側にある。図が示している時代、首里は那覇ではなかったので描かれていないのだ。
 首里が首都=政治都市であるのに対し、那覇は港町=交易都市だった。16世紀までは中国や朝鮮、東南アジア各地と、17世紀以降は中国との間の貿易で繁栄した。 
 城下町首里と港町那覇では、住民の気質にも違いがあったようだ。「首里人は着倒れ、那覇人は食い倒れ」という言い回しが伝わっている(『那覇市史』資料編第2巻中の7「那覇の民俗」、1979年)。「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」そっくりでおもしろい。

図2 明治初年の那覇(『伊波普猷全集』第4巻、平凡社、1974年より)

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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