迷宮都市・那覇を歩く 第5回 旧那覇の屋敷町と「かくれ念仏」

コラム|2021.11.30
文=島村 恭則

屋敷町としての泉崎

1945年以前の那覇(旧那覇)の大部分は、久茂地川よりも西側、かつて浮島だった地域である。しかし、唯一、川の東側、現在の那覇市役所や沖縄県庁があるあたり(現在の地名で泉崎)は、旧那覇の一部であった。ここは、琉球王朝時代に「泉崎村」と呼ばれていた一帯で、浮島側とは「泉崎橋」で結ばれていた。

左/写真1 泉崎橋 戦前 那覇市歴史博物館提供 右/写真2 絵図に描かれた泉崎村(左下の橋が泉崎橋)  首里那覇図(阿嘉宗教画、1868-1879年頃、沖縄県立図書館蔵、CC BY 4.0 http://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)から抜粋

橋を渡って泉崎村に入ったすぐのところは「橋口」と呼ばれていた。川沿いに河岸(かし)があり、山原(やんばる。沖縄本島北部)地方から木材や薪を運んできた「山原船」が着岸した。大工など職人が多く居住するとともに、いまの那覇バスターミナルの北側には「仲島遊廓」も立地していた。
 橋口を越えて東に進んでいくと、ゆるい上り坂となり、その両側に立派な石垣に囲まれた大きな家が並んでいた。それらの主は、那覇の豪商や士族だった。泉崎村の大部分は、こうした富裕層の住宅からなる屋敷町であった。市街地の喧騒から離れたこの町には、部外者を寄せ付けない雰囲気があったという。

写真3 泉崎の屋敷町(仲尾次家の石垣)大正期(推定) 那覇市歴史博物館提供

泉崎村の人びとは、自分たちの町を「橋内(はしうち)」と呼んでいたが、この言葉は、彼らの住民意識をよく表すものといえる。すなわち、旧那覇の中心市街地から見ると、泉崎村は「橋の外」だが、住民たちは自分たちの町を、一つの世界としてとらえ、その内部を橋内と呼んでいたのである(東恩納寛惇『童景集』興南社、1952年)。

仲尾次家の歴史

泉崎村に屋敷を構えていた名家の一つに仲尾次(なかおし)家がある。この家の歴史は、薩摩(鹿児島県)の久志(現在の坊津町久志)から那覇にやってきた中村宇兵衛(なかむら・うへえ、1708-1776)という人物にまでさかのぼる。若くして琉球・薩摩間の海運・交易で財を成した中村は、久米村(第3回「丘と坂のあった街」参照)出身の思嘉那(おみかな)という女性と結婚し、5人の子を得た。彼には久志にも家族があったが、そこの長男と次男がともに亡くなったことから、のちに彼は三男を連れて久志に帰っていく。残された思嘉那は、商才に長けた女傑といえる人物で、中村が残していった莫大な財産をもとに家業を拡大していった。この思嘉那を一族のはじまりとして、長男筋によって継承されてきたのが仲尾次家である。仲尾次家は、琉球王府に多額の献金をして士族の身分を得ている。

浄土真宗と琉球

この仲尾次家と深いつながりがあるのが、親鸞を開祖として鎌倉時代にはじまった仏教宗派の浄土真宗(以下、真宗)である。阿弥陀如来への信仰によって極楽浄土へ往生できると教える真宗は、日本本土で多くの信者を獲得していた。それが沖縄に伝わる際の窓口となったのが仲尾次家であった。以下、伊波普猷「浄土真宗沖縄開教前史──仲尾次政隆と其の背景」(『伊波普猷全集』第9巻、平凡社、1975年)、知名定寛『沖縄宗教史の研究』(榕樹社、1994年)に拠って説明すると、つぎのようになる。
 中世以降、教勢を拡大してきた真宗は、戦国時代の一向一揆(真宗の信者たちと戦国大名などとの戦争)のような政治権力との熾烈な戦いを経つつ、江戸時代に入っても各地に多くの信者を獲得していた。これに対して、幕藩権力側は警戒心を持って接しており、なかでも薩摩藩は、真宗を禁教とし、禁令を破って信仰する者を厳しく罰した。それにもかかわらず、真宗の人気は根強く、藩内には監視の目を逃れて密かに真宗を信仰する者たちがいた。いわゆる「かくれ念仏」である。
 中村宇兵衛の故郷、久志は「かくれ念仏」が盛んなところで、彼も熱心な真宗信者であった。阿弥陀如来の木像や経典類を、薩摩と同じく真宗を禁教にしていた琉球に持ち込んで信仰したと伝えられている。また彼だけでなく、琉球・薩摩間を往復した船員たちの中にも真宗を信仰する者がいた。この場合、興味深いのは、船員たちを介して真宗が伝わった先が、那覇の遊廓だったということだ。当時、船員たちは妓楼を定宿とすることが多く、自ずから遊女たちにこの信仰が伝わったのである。苦界に身を沈める遊女たちが、真宗が説く来世の極楽往生を信仰するのは自然の流れであったと推測されている。

仲尾次政隆と「かくれ念仏」

このようにして那覇に伝わっていた真宗は、中村宇兵衛から5代下の仲尾次政隆(なかおし・せいりゅう、1810-1871)の時代に大きな展開を見せた。親鸞の教えについて深く学び、信仰心の強かった政隆は、渡地(わたんじ)や辻の遊廓で布教を行ない、多くの遊女が信者になった。禁教ゆえに秘密裏に集まって念仏を唱える集会も、当初は遊廓内で行なわれていた。外部に露顕しにくいと考えられたからだろう。
 その後、下級士族などにも信者になる者が現れ、秘密集会の会場も仲尾次邸に移された。奥の間に本尊を安置し、人びとが密かに集まって念仏を唱えていたが、信者数が三〇〇を超えた頃、密告者が現れた。「かくれ念仏」の存在を知った琉球王府は、政隆をはじめ多数の信者を遠島(離島への追放)などの刑に処した。ただし、政隆は石垣島に流されたが、私財をなげうって橋の修復に尽力したことから遠島10年後に赦免され、那覇に戻っている。その後、再び王府に仕官して六二歳で亡くなった。

その後の「かくれ念仏」

「かくれ念仏」発覚後も琉球における真宗信仰の灯は消えなかった。仲尾次政隆の宗教上の弟子で、政隆検挙のときには島外にいたために捕まらずにすんだ備瀬知恒(びせ・ちこう)という人物を中心に信仰活動が再開され、明治に入ってからは本土からの布教僧も合流して勢いを増していった。もっとも、禁教であることには変わりなく、信者の大量検挙も発生している(備瀬知恒は遠島となり、移送中に海難事故で死亡)。
 禁教が解かれたのは1878(明治11)年である。琉球国が消滅して沖縄県となる前年のことだ。その後、真宗の公式的な布教が始まり、那覇には真教寺(真宗大谷派)、大典寺(真宗本願寺派)が建てられ、現在に至っている。

 1944年の那覇大空襲で泉崎の屋敷町は灰燼に帰した。戦後、仲尾次家のあったあたりは市街地となり、往時の面影はまったく見られなくなっている。

●次回の更新は12/25を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回はこちら

【参考文献】
伊波普猷 1975 「浄土真宗沖縄開教前史──仲尾次政隆と其の背景」『伊波普猷全集』第9巻、平凡社
多和田真助 1986 『門中風土記』沖縄タイムス社
知名定寛 1994 『沖縄宗教史の研究』榕樹社
東恩納寛惇 1952 『童景集』興南社

島村恭則(しまむら・たかのり)  1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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