山崎佳代子『ダダと詩人たち』

第2回
リトルマガジン『赤と黒』から『死刑宣告へ』①

連載|2024.3.19

恭次郎とリトルマガジン

 『死刑宣告』は、先回、取り上げた「日比谷」で見たように、今もなお閃光を放つ。都会で生きる人間の孤独、不安、苛立ち、金銭に翻弄された群衆。発表から百年が過ぎようとする今日、世界の都市はますます複雑な迷路となっていく。
 このアバンギャルド詩集を世に問うた萩原恭次郎は、前橋の農村に生まれた。故郷で過ごした少年時代から短歌をよみ、文学の道を歩みはじめる。恭次郎の詩は、前橋で文学活動を開始した初期、東京に移りアバンギャルド詩人として活躍する中期、都会から故郷に戻りクロポトキンの思想を深め、やがて瞑想的な詩を創作する後期と、三段階を経て変容する。初期の自然主義的な作品群にはアバンギャルドの萌芽が見られ、そして晩年の瞑想詩群にはアバンギャルド詩学の片鱗が残る。アバンギャルド詩運動は、恭次郎の詩精神のみならず詩形式に消すことのできない刻印を押した。
 『死刑宣告』は、前衛詩運動の母体となったリトルマガジンや日刊紙に発表した作品を集め、恭次郎が自ら編んだ詩集である。掲載紙誌は、朝日新聞や読売新聞のほか、川路柳虹らが発起人となり、詩壇諸派の交流の場として結成された『日本詩人』(1921年10月-1926年11月、通巻59冊)などであるが、『日本詩人』の編集による年刊のアンソロジー『日本詩集』、関東大震災の際に刊行された震災特集『災禍の上に』に掲載された作品もあり、恭次郎が川路柳虹や同郷の萩原朔太郎ら先輩の詩人たちの支持を得ていたことがわかる。
 なかでも『日本詩人』との交流は、恭次郎の詩学に変革をもたらすきっかけとなった。1920年7月、川路柳虹らの編集による年刊『日本詩集』に恭次郎の詩作品「梢にかかり眠るもの」が収録されて10月に東京の大森で版祝賀会があり、そこで未来派の詩人、平戸廉吉と知り合う。また古俣裕介の『‹前衛詩›の時代』によれば、翌1921年10月には、川路柳虹主宰の詩雑誌『現代詩歌』が改組され、『炬火たいまつ』(第1次1921年9月-1923年1月; 第2次1926年4月-1928年5月)として出発することになり、「炬火の会」に出席するため上京、社会運動家でアンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴した小牧こまつ近江おうみ(1894-1978)、小説家のアナーキスト宮島みやじま資夫すけお(1886-1951)など他の同人と知り合い、アナーキズム系の詩人たちの知遇を得た(古俣 1992:40-42)。恭次郎は、こうして新しい詩精神と詩形式、新しい思想に目覚めたのだった。

 『死刑宣告』に収められた作品の発表の時期は1921 年から1925年で、1920年代前半の日本の前衛詩運動と連動している。詩集の巻頭の「詩集例言」に、恭次郎は「『装甲弾機』篇最も古く、すでに五年前の作である」と述べ、「掲載順はほぼ三四年来のものを創作年代の順序によって配列した」(2頁)と記している。「装甲弾機」篇は6作品からなり、この中で発表が最も早いものは1921年9月の『炬火』に掲載された「恐怖に変色せし魂」である。第3連には「肺は病巣に/頭脳は不調和に/不均正なる爆弾のような赤い狂精神を/どこへもつて行つて打ちつけやうか」(萩原1925:12)とあり、やり場のない怒りや焦燥感、調和や均整を失った病める肺と精神がうたわれる。
 『死刑宣告』に収録された詩作品を最初に発表したリトルマガジンの多くは、日本アバンギャルド詩運動の母体となった雑誌であり、思想的にはアナーキズムや社会主義的な色彩を帯び、詩作品は前衛的な傾向を示す。川路柳虹と門下による『炬火』は、恭次郎のほかに、未来派の平戸廉吉、沢ゆき子らの作品を掲載している。ダダイスト辻潤が発行した『虚無思想研究』(1925年9月)はアナーキズムの傾向を示し、後に『ニヒル』(1930年2月-5月)と改称された雑誌で、辻潤、生田春月、萩原朔太郎らが執筆している。弁護士の山崎きやまざき今朝弥けさやが復刊した第2次『解放』(1925年10月-1933年3月)は、同人誌的な体裁をとり社会主義的な傾向が強く、文芸欄は大震災後のプロレタリア文学運動の再建推進の舞台となって青野季吉、平林たい子らが作品を発表した総合雑誌である。この他、ドン・ザッキーこと都崎友雄が主宰した『世界詩人』(1925年8月-1925年11月、全3号)、『ダムダム』(1924年11月、全1号)にも恭次郎は同人として詩を発表している。
 数ある詩誌のなかで『死刑宣告』の成立過程を克明に伝えるのは、恭次郎自身が創刊から終刊まで編集にかかわった『赤と黒』(1923年1月-1924年6月、全+4号外)である。すでに言及したが、恭次郎も同人として参加した村山知義の編集による総合芸術雑誌『MAVO』は、恭次郎のコラージュや宣言文を掲載し、『死刑宣告』のコンセプション、視覚的要素、総合芸術性を考える上でやはり重要である。
 つぎに、『赤と黒』に発表された詩作品と詩集『死刑宣告』との関わりに光をあて、恭次郎のアバンギャルド詩の成立過程を辿ってみたい。

恭次郎と『赤と黒』

 『赤と黒』は、1923年1月に創刊され4号まで続き、1924年6月の号外を最後に終刊となった。第1号は20銭、その後は各号10銭。日本初のアバンギャルド的な傾向をもった雑誌である。表紙も文字だけ、本文も挿絵など美術的な要素は一切なく、詩作品が中心の視覚的には地味なリトルマガジンだ。だが粗末さゆえに野性的なエネルギーを放出する。当時の大正詩壇の中心は白鳥省吾らの民衆派で、平明な詩語と民主主義的な社会性を唱えていた。『赤と黒』は、固定化した社会認識に基づく一義的で平板な民衆派の詩学を否定し、アナーキズム的な詩学を掲げ、文壇に登場した。言論の自由が限られていた時代である。第1号から終刊となった号外まで、同人は壷井繁治、萩原恭次郎、岡本潤、川崎長太郎の4人で、第4号から林政男、号外に小野十三郎が参加した。第2号と号外に同人以外の8人が作品を掲載している。
 同人は、文学を志して地方から東京に出た若き詩人たちである。壷井繁治(1897-1975)は香川県小豆島出身の詩人。早稲田大学中退後、個人誌『出発』を機に岡本潤と恭次郎を知り、『赤と黒』を構想する。後にアナーキズム系の『ダムダム』を恭次郎、岡本潤、高橋新吉と刊行、アナーキズムの総合文芸雑誌『文学解放』を経て、1928年にナップ(全日本無産者芸術連盟)に加盟、マルキシズム文学に移行し、コップ(日本プロレタリア文化連盟)に参加していく。岡本潤(1901-1978)は本名保太郎、埼玉県児玉郡出身の詩人で、東洋大学を中退後、アナーキズム思想に触れて『シムーン』(後の『熱風』)に反抗的な精神に満ちた詩を発表、『赤と黒』に参加した後、恭次郎とともに『MAVO』に参加した。なお壷井繁治らと『ダムダム』(1924年11月創刊、全1号)にも加わっている。川崎長太郎(1901-1985)は、神奈川県小田原市生まれの小説家で、同郷の民衆詩人福田正夫の影響のもとに詩や小説を発表、アナーキストの詩人加藤一夫によって社会運動に目覚め、『熱風』に寄稿。加藤に従って上京、岡本潤に誘われ『赤と黒』に参加したが、関東大震災を機に、自分は社会運動家ではないと自覚し、私小説に移行した。同人の最年少の小野十三郎(1903-1996)は本名藤三郎、大阪市難波出身の詩人で1921年の春に上京、『赤と黒』の同人との出会いを機に詩人として新たに出発、壷井繁治らの『文芸解放』の同人となる。戦後は大阪文学学校を創設した。『赤と黒』の同人たちは、創刊当時にはそれぞれ大正期の虚無思想的な詩誌に接点を持っていた。
 『赤と黒』創刊の時期は、恭次郎が平戸廉吉からアバンギャルド詩を知り、悩んだ末、育ての親で恩義ある義母をひとり残して前橋を離れ、東京で文学活動を始めた時期に重なる。『萩原恭次郎全集』の年譜には、1922 年9月に無断で上京、本郷区駒込の松寿館に止宿、山崎晴治の斡旋で正光社に入社、『飛行少年』の編集に従事したとある。壷井繁治らの誘いで恭次郎は同人となり、1922年12月、岡本潤、壷井とともに有島武郎を訪問し、雑誌の発行資金援助を受け、『赤と黒』は出発する。

 『赤と黒』の第1号(1923年1月1日発行)は全21頁、同人は壷井繁治、萩原恭次郎、岡本潤、川崎長太郎の4人、編集兼発行人の住所は東京市小石川区水道端2の16、杉本方、壷井繁治とある。発行所は「赤と黒社」、住所は東京市外瀧野川町字西ヶ原302、岡本方とあり、岡本潤の住所であろう。4人の詩作品を1頁から17頁に掲載、18頁から19頁は同人の短いエッセイをまとめた「導火線」、20頁に編集後記がある。
 第2号(1923年2月1日発行)は全8頁、この号から終刊まで編集兼発行人は萩原恭次郎で、住所は東京市本郷区千駄木町65 (奥田方)、「赤と黒社」の住所も同じである。4人に加え、畑山清美(畠山清身)、プロレタリア詩人本地正輝(本名:木村重夫; 別筆名: 遠地輝武)、カロインこと深沼ふかぬま火魯胤ひろたね、故大橋仙之助が詩を発表、8頁に川崎長太郎と萩原恭次郎の短いエッセイを置き、左翼系の雑誌『新興芸術』の広告が掲載されている。
 第3号(1923年4月発行)は全8頁、同人4人のみが執筆。2頁の宣言文「階級芸術抹殺論」は、ヨーロッパ・アバンギャルド誌に典型的な宣言文(プログラム文)で、前衛詩運動のコンセプションを提示する。3頁から7頁は詩作品、8頁のコラム「二月の詩から」は壷井繁治が担当、編集部に寄贈されたリトルマガジン『新詩潮』『感覚革命』『月光』『映像』についての短評が記される。
 第4号(1923年5月発行)は全16頁、同人4人のほかに、林政雄が同人として参加。2頁から8頁までの宣言文「赤と黒運動第一宣言」を掲載、8頁の後半から13頁まで同人の詩作品、14頁のコラム「四月の詩檀評」は川崎長太郎が執筆、『新興文学』『帆船』『新詩潮』『文学世界』を評し、15頁の同人雑記で結ばれる。
 号外(1924年6月)は全4頁。前年の9月1日に起きた関東大震災のため、社会は大混乱に陥り、第4号刊行から長い空白がある。編集兼発行人の萩原恭次郎の住所も「赤と黒社」の住所とともに東京府外瀧野川町字西ヶ原302に移る。第1号の岡本の住所だ。同人として小野十三郎が参加、「紅顔の美少年なり」(4頁)とある。壷井繁治、岡本潤、小野十三郎、畑山清美、齋藤大、興野勝巳、梅津錦一(前橋出身の左翼系政治家)、溝口(アナキスト前衛画家)の詩作品を掲載。これで終刊となり、恭次郎は村山知義の『MAVO』に活動の場を移した。
 関東大震災の混乱は、恭次郎自身に深い爪痕を残す。群馬県には被害はなかったが、朝鮮人が暴動を起こしたという流言で各地に自警団が作られ、不穏な時代が訪れていた。年譜によれば、たまたま前橋駅構内で朝鮮人が追われているのを見て、止めようとした恭次郎も迫害にあったという。この混乱の中で、社会主義者、共産主義者、労働組合員も迫害の対象となり、亀戸事件では習志野騎兵第13連隊により労働争議に関係したとされる10名が虐殺された。犠牲者の中には恭次郎の同郷、石倉出身の近藤広蔵がおり、後に追悼の詩を捧げている。アナーキスト大杉栄と妻伊藤野枝、6歳の甥が特高課憲兵により殺害されて井戸に投げ込まれたのも、大震災の直後、9月16日のことである。『死刑宣告』は、重たい空気のなかから生まれたのだ。

関東大震災による東京駅前の焼け跡、日本橋方面
出典:気象庁ホームページ

注 文中の引用は、以下の書物による。旧漢字を新字に改めた。
『赤と黒』1号-4号+号外、1923年1月-1924年6月
(『プロレタリア詩雑誌集成 上』伊藤信吉、秋山清編、戦旗復刻版刊行会、1983年所収)
萩原恭次郎、『死刑宣告』、長隆舎、東京、1925年
(名著復刻詩歌文学館 <石楠花セット> 日本近代文学館 東京 1981年)

執筆にあたって以下を参照した。
「『死刑宣告』*初出形・校訂・異文」、『萩原恭次郎全集』第1巻、静地社、東京、1980年、p.547-p.592
「年譜」、『萩原恭次郎全集』第3巻、静地社、東京、1982年、p.489-p.512
「初出誌紙一覧」、『萩原恭次郎全集』第3巻、同上、p.521-p.524
『日本現代詩辞典』、分銅惇作、田所周、三浦仁編、桜楓社、東京、1986年
『新潮日本文学辞典』、新潮社、東京、1988年
古俣裕介、『‹前衛詩›の時代』、創成社、東京、1992年

山崎佳代子 (やまさき・かよこ)
詩人、翻訳家。1956年生まれ、静岡市に育つ。北海道大学文学部露文科卒業。サラエボ大学文学部、リュブリャナ民謡研究所留学を経て、1981年よりセルビア共和国ベオグラード市在住。ベオグラード大学文学部にて博士号取得(比較文学)。著書に『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』(左右社)、『パンと野いちご』(勁草書房)、『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『戦争と子ども』(西田書店)、『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫)など、詩集に『黙然をりて』『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』『死者の百科事典』(創元ライブラリ)など。 

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