迷宮都市・那覇を歩く 第16回 沖宮とシャーマニズム

カルチャー|2022.10.30
島村 恭則

沖宮と比嘉真忠

 那覇市の奥武山(おうのやま)公園の中に「沖宮(おきのぐう)」という神社がある。琉球国時代から「琉球八社」と呼ばれてきた由緒ある八つの神社のうちの一つだ。沖宮は、明治以前には沖山三所大権現と呼ばれていた。
 かつて、那覇港に光り輝くものがあり、琉球国王が探索させたところ枯木が引き上げられた。国王はこの枯木を「蓬莱(ほうらい)の霊木(れいぼく)」だとして社を建てて祀った。これが同権現の起源とされている(『琉球国由来記』1713年)。  
 沖山三所大権現=沖宮は、那覇港に突き出た堤の上にあったが、1908(明治41)年に那覇港築港工事のため安里にある八幡宮の境内に移された。その後、沖縄戦によって焼失したが、1954(昭和29)年、のちに戦後初の沖宮宮司となる比嘉真忠に「沖之神宮を復興せよ」との神託があり、再び祀られようになった(以下、比嘉真忠および沖宮に関しては、比嘉真忠『御嶽神教――うるま琉球沖縄神道記』〔沖宮、1986年〕、および1990年と2022年に実施した聞き取りにもとづく)。

写真1 比嘉真忠(1914-1990)。比嘉真忠『御嶽神教――うるま琉球沖縄神道記』沖宮、1986年より

 1914(大正3)年に那覇市住吉町で生まれた比嘉は、戦後、運送関係の仕事をしていたが、1953(昭和28)年、数え41歳のときに沖宮復興を命ずる神託を受けた。そのときから「わが身でありながらわが身でないかのように、宙に浮かされたような行動で、目に見えない神霊の誘導に引っ張られ」るようになり、行き着いたところが奥武山の天燈山(てんとうざん)であった。以来、天燈山御嶽に日参しての修行が始まった。そして「沖宮で祀られていた古木の根源は奥武山天燈山にあり。神の名は天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ)、またの名を天照大御神」との神託を得た。比嘉はこの神託にもとづき、1957(昭和32)年旧暦3月23日にこの神の名を刻んだ石碑を御嶽に建立した。この日は現在でも沖宮の例大祭の日となっている。

写真2 天燈山御嶽。右側の石碑が、天受久女龍宮王御神(天照大御神)の碑。沖宮提供。

 その後、1961(昭和36)年には沖宮の仮社殿を奥武山の一角にあたる通堂町に建立し、復興の第一歩とした。またこれ以外にも 市内のあちこちの聖地に、自らに下った神託にもとづく神名を刻んだ石碑を建てたり、新たに神社を建立したりしていった。たとえば、那覇市安謝にある恵比須神社も比嘉が建立したものだ。
 1973(昭和48)年、奥武山公園の整備事業によって仮社殿の移転が求められ、新たに現在地に社殿を建設することになった。そこは天燈山御嶽のすぐ下に位置する場所であった。そして1975(昭和50)年、現在の沖宮が完成し、沖宮の正式な復興が果たされた。境内には、本殿、拝殿のほか、権現堂や弁財天堂、住吉神社なども設けられた。

左/写真3 沖宮拝殿。沖宮提供
右/写真4 沖宮拝殿。沖宮提供
写真5 沖宮境内図。沖宮提供

 興味深いのは、沖宮と天燈山御嶽との関係である。比嘉によれば、本土の神社神道の世界は「表の道理」であり、これを体現するのが沖宮、一方、沖縄固有の御嶽信仰の世界は「裏の道理」であり、これを体現するのが天燈山御嶽だという。そして、天燈山御嶽は沖宮の奥宮であると位置づけられている。

シャーマニズム

 比嘉のように、神からの啓示を受け取ったり、神と直接交信できたりする人をシャーマンといい、そうした現象をシャーマニズムという。沖縄には、現在も、神霊と直接交流することが可能な人びと、つまりシャーマンが多く暮らしている。その多くは女性である。彼女たちは生まれつき霊感体質であることが多く、成人後、大病を繰り返したり、精神的にも不安定な時期を経たりする中で、次第に神霊との交流能力を身につけていく。そして、自分の霊的な使命を悟ったり、守護神と出会ったりすることでシャーマンとして自立する。このことを沖縄では、「チヂビラキ(チヂは「頭頂」「守護霊」、ヒラキは「開き」の意)」とか「チヂアケ(アケは「開け」の意)」と呼んでいる。そして、道開け後、客をとって祈禱や託宣を行なう人たちは、ユタと呼ばれている。
 筆者は、1990年に沖宮でフィールドワークを行なったことがある。1週間ほど通って観察や聞き取りをしたが、そのとき気づいたのは、シャーマンになる直前の段階の人たちがたくさん集まってきているということだった。この人たちは、祈りの最中に体がぶるぶる震えだしたり、大あくびをしたり、嘔吐したりもしていた。この現象は、カミダーリと呼ばれるもので、シャーマンになる過程で誰もが通る道とされる。これを宮司(このときは2代目の宮司)の指揮のもと、すでにチヂビラキを経験した先輩の信者たちが介抱し、現象の霊的意味を解釈して聞かせたりしていた。シャーマン予備軍の人たちは、沖宮に通ってこうした経験を重ねるうちに、次第に心身が安定し、チヂビラキへと至る。沖宮は、シャーマンを育てる場として機能しているように見えた。

写真6 沖宮のシャーマン。金城千代(左)、西銘トシ(右)。いずれも故人。沖宮提供

有銘松子

 現在、沖宮総代会の一員で、那覇市在住の有銘松子(ありめまつこ)も、沖宮でチヂビラキしたシャーマンの一人だ。有銘は、1936(昭和11)年に宮古島で生まれた。小学生のときから、防空壕で顔や胴体のない足だけの霊を見るなどの経験をしていた。23歳で那覇に出て、宮古島で見習い看護師をしていたときに出会った那覇出身の刑務官の男性と再会し、結婚する。4人の子育てに追われる毎日であったが、41歳のとき、脳下垂体の病気になり、一時、耳がまったく聞こえなくなった。そして46歳のときには、自律神経失調症の発作で「お腹から酸素が全部出ていく」苦しみが日に何度も繰り返されるというような状態が9か月間続いた。さらに、51歳で腎臓の病に侵され、摘出手術を受けなければならなくなった。
 手術の直前に、生まれて初めてユタを訪れ占ってもらった。「安心して手術を受けよ」という託宣を得ての帰り道、「神様」という言葉が頭に浮かぶとともに、「この手術は、50年間で汚れた心身を神様が大掃除してくださるためのものだ」と悟らされた。
 手術は無事に成功し、37日間の入院を終えて帰宅したところ、夫の従妹が運命学の先生を紹介してくれた。有銘はこれも何かの導きかもしれないと考えて弟子入りし、毎日、那覇市三原にある先生の自宅に通って四柱推命や易を学ぶとともに、客の鑑定をする現場を見て修行した。そうして3年が経過したころ、先生から得度を勧められ、静岡県にある真言宗寺院で得度した。その直後、53歳で独り立ちし、那覇市壺屋で「光明運勢鑑定所」を開業した。那覇の中心部という立地から客も多く、忙しい毎日が10年以上続いた。

写真7 有銘松子。光明運勢鑑定所開業の頃。有銘松子氏提供

 転機が訪れたのは、2001(平成13)年のことだ。たまたま用事があって安謝に行き、そこで車を止めたとき、うっかり鍵を車内に残したままドアをロックしてしまった。困っていると近くの運送会社の若者がハンガーを持ってきてこじ開けようとしてくれたが、40分近くやっても開けることができない。そのとき目の前に恵比須神社があることに気づき、有銘は「この鍵を1分でも早く開けてくれたらお礼にうかがいます」と念じた。するとその直後に赤い車がやってきて中から男性が降りてきた。若者からハンガーをうばうと、ペンチで短く切り、それを鍵穴に入れて1分も経たないうちに鍵を開けてしまった。そしてそのまま立ち去っていった。
 これは神の仕業に違いないと考えた有銘はすぐに恵比須神社に向かった。するとそこには「宇天良長老(うてぃんらちょうろう)」という老人の像があった。「宇天良長老」像は、比嘉真忠が神託によって祀ったもので、「人間にそれぞれの使命を与えてくれる神」の神像である。有銘は、この像を見て驚いた。この神にそっくりの神の姿を、17、18歳の頃に夢で見ていたからだ。

写真8 恵比須神社(那覇市安謝)境内にある宇天良長老の像。有銘松子氏提供

 運命を感じた有銘は、社務所でこの神社のことを尋ねると、恵比須神社は、沖宮の管轄下にあると教えてくれた。そこで今度は沖宮を訪れた。いままで知らなかった神についての話をたくさん聞き、以後、毎月2回お参りすることになった。通いだして4、5回目のとき、突然、自分の背中に霊が入った。それ以来、沖宮で行なわれる行事を休もうとすると胸が苦しくなり、参加すると治るということが続くようになった。
 沖宮では、先輩の女性シャーマンたちに連れられてあちこちの聖地を巡拝した。その範囲は、沖縄本島はもとより、宮古島にまで及んだ。そして、自分の使命は、宮古島の神と沖縄本島の神を結びつけることであると知った。またその過程で、宮古島から初めて中山国(琉球国誕生以前に沖縄にあった国の一つ)に入貢した与那覇勢頭豊見親が夫の守護神であり、かつ有銘家の大元祖であることも判明した。さらに、琉球国時代の宮古諸島と八重山諸島で人頭税(にんとうぜい。過酷な租税制度)に苦しんで死んでいった祖先たちを供養するとともに、それを強要したために恨まれて亡くなった役人たちの霊も供養することが自分の使命だと考え、2013(平成25)年には有銘の呼びかけで「人頭税終結百十一年記念怨親平等之供養」を沖宮で執り行なった(以上は、2022年9月25日に行なった有銘氏への聞き取りにもとづく)。

写真9 有銘松子の著書『私と人頭税との関わり 怨親平等――行動したつもりが行動させられていた』View出版、2022年

 以上のケースからは、離島から那覇に出てきた女性が、病苦を経て沖宮に出会い、故郷との結びつきを取り入れながらシャーマンとしての自らの宗教的世界を構築してきた過程を読み取ることができるだろう。

沖宮の現在

 比嘉真忠は、1990(平成2)年に亡くなった。その後、宮司が代替わりして、現在の宮司は3代目である。近年の沖宮は、シャーマニズム的な要素は後景化させ、より広い活動で多くの人を神社に呼び込もうとしているようだ。2016年以来、沖宮を拠点に、沖縄県内外のさまざまな芸能を組み合わせたエンターテインメント神楽「奥武山大琉球神楽(おうのやまだいりゅうきゅうかぐら)」を組織して公演活動を行なっていることもその一環であろう。

写真10 奥武山大琉球神楽。2020年。沖宮提供

 また、本土からの観光客も含めて、沖宮をスピリチュアルなパワースポットとみなしてやってくる人びとが少なくないが、神社側もそれに柔軟に対応しているようである。こうした柔軟性は、「沖宮ハロウィン」にも見て取れる。
 これは、10月の日曜日の夕方に、中学生以下の子どもたちが仮装して参拝する行事で、神社側は「沖宮のハロウィンは、五穀豊穣をもたらす八百万の神への感謝奉納と、子どもたちの元気をパワーアップし地域の疫病祓いを行うお祭りです。さあ、心わくわくする大好きな衣装で楽しもう! みんなの元気な笑い声でおばけも疫病も吹き飛ばそう!」(沖宮Facebook 2022年10月4日より)という意味づけを行なっている。ハロウィンを神社神道に結び付ける大胆さが興味深い。

写真11 沖宮ハロウィン。2021年10月。おきなわラビュウ【沖縄タウン情報】提供

謝辞
本稿執筆にあたり、沖宮の上地一郎宮司、沖宮責任役員の重田博美氏、沖宮総代会の有銘松子氏から多大なご協力を賜りました。記して謝意を表します。

●次回の更新は11/30を予定しています。
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【参考文献】
有銘松子 2022 『私と人頭税との関わり 怨親平等――行動したつもりが行動させられていた』View出版
比嘉真忠 1986 『御嶽神教──うるま琉球沖縄神道記』沖宮

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

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