迷宮都市・那覇を歩く 第17回 仏壇通り

連載|2022.11.30
島村 恭則

「仏壇屋」が並ぶ通り

 那覇市の中心部、開南バス停から与儀十字路までの通りは、「仏壇通り」と呼ばれてきた。この通称は、仏具店(仏壇屋)がたくさん並んでいたことに由来する。2000年代に入って行なわれた道路の拡幅事業で多くの店が立ち退き、現在では1軒が残るだけとなっているが、それ以前、最盛期には約30軒の仏具店が営業していた。どうしてこのような通りが形成されたのか。話は戦前の若狭にまでさかのぼる。

若狭から開南へ

 戦前の那覇の街は、久茂地川よりも海側にあり、そこはもともと浮島だった。その旧那覇の一角を占める若狭は、琉球国時代から轆轤(ろくろ)師、漆器職人、櫛(くし)職人などが多く暮らす職人の町だった。
 1944年10月の那覇大空襲で那覇の街は灰燼に帰し、米軍が上陸してからは那覇全域が接収された。住民は住み慣れた街を離れて米軍の用意した収容所に入った。戦後、久茂地川よりも内陸側への民間人の居住が認められると、旧那覇の住民たちは現在の開南、壺屋、牧志といった地域で生活するようになる。
 そうした中で、開南には闇市が発生し、ここから牧志方面にかけての一帯が商業の中心となった。このとき、そこに隣接する通りで商売をしようと集まってきたのが若狭出身の漆器職人たちであった。もっとも、戦後の混乱期であるから、お膳、お椀、お盆などの需要はまだ少ない。需要があったのは、「トートーメー」と呼ばれる沖縄式の位牌であった。

戦後の位牌需要

 沖縄の人びとは、祖先祭祀を重視する。また、沖縄戦では多くの人が亡くなった。祖先祭祀、死者祭祀で必要なものは位牌である。沖縄戦で焼け出されて祖先の位牌を失った人、戦災で亡くした家族を祀る必要がある人など、位牌を求める人はたくさんいた。この需要に応えたのが、漆器職人たちだった。
 沖縄の位牌は、上下2段で5列、7列、9列などからなる位牌立てに、金文字で戒名が彫られた朱塗りの木片を収めたものだ。位牌の製造には、漆塗り、螺鈿(らでん。貝類の光沢部分を用いた装飾)、堆錦(ついきん。漆と顔料を練り合わせた材料を用いた装飾)などの高度な技術が要求される。それらを持っていたのが若狭出身の漆器職人たちだったのだ。
 位牌は、飛ぶように売れた。現在も仏壇通りで唯一営業を続ける照屋漆器店の照屋ハツ子氏によると、とくに売れたのが沖縄のお盆である旧盆(旧暦7月13~15日)の時期で、800~900個、多いときには1000個が売れ、開店前から店の前に行列ができるほどだった。また、2000年代初頭までは、近くの農連市場(現在の「のうれんプラザ」)の開店にあわせて午前3時に店を開け、21時に店を閉めていたという(「『仏壇通り』の由来:照屋漆器店 照屋ハツ子さんに聞く」『み~きゅるきゅる』5〔特集「開南」〕、2008年)。

写真1 トートーメー(沖縄式位牌)。朱塗りの木片に戒名を彫る。上段に男性、下段に女性を祀り、それぞれ右から左へ向かって世代が下っていく。夫婦は上下で対になるように配置する。照屋漆器店提供

仏壇の時代

 戦後復興が進み、位牌需要も一段落すると、今度は仏壇の時代がやってきた。新築した家に仏壇を設置するからだ。タンスと一体化した沖縄式の仏壇が開発されると、これも次々と売れた。漆器から位牌、そして仏壇へ。漆器職人たちは、時代の需要に応え続けた。やがて、彼らの店が並ぶ通りは、「仏壇通り」と呼ばれるようになった。命名したのは誰なのか。一説には、タクシーの運転手たちがこの通称を使い始めたともいわれるが、本当のところは誰にもわからない。

左/写真2 道路拡幅前の照屋漆器店。照屋漆器店提供
中/写真3 道路拡幅前の照屋漆器店。照屋漆器店提供
右/写真4 沖縄式仏壇。下半分はタンスとして使用される。照屋漆器店、2022年11月。島村恭則撮影

照屋漆器店

 2000年代に入って、仏壇通りでは道路の拡幅工事が行なわれた。ちょうどその頃、多くの漆器店=仏具店が世代交代の時期にあたっていたため、これを機に廃業する店も多かった。また、一部は他所に転出した。その中で、唯一、この地に踏みとどまり、5階建てのモダンな自社ビルを新築して営業を続けたのが照屋漆器店である。
 同店の創業は、1868(明治元)年。まだ琉球国の時代である。初代は、中国で漆の技術を学んで帰ってきた人物で、若狭で漆職人として出発した。3代目になって漆器の小売りをするようになり、現在は、7代目の照屋慎氏が店を守っている。前出の照屋ハツ子氏は、慎氏の祖母である。
 照屋漆器店は、往時の仏壇通りの中に4店舗を構えていた最大手で、現在でも沖縄を代表する仏具店としての地位を占めている。テレビコマーシャルの効果もあって、仏具店といえば照屋漆器店といわれるほど人びとに知られた存在だ。

新店舗

 2013年に完成した新店舗の中を覗いてみよう。1階には、芸術作品といっても過言ではない美しい位牌がショーケースの中にたくさん並べられている。また、香炉をはじめ、仏壇に供えるさまざまな祭具も豊富だ。それとともに興味深いのは、ヒヌカン(火の神)を祀るための香炉やビンシーと呼ばれる携帯用の供物入れなど、沖縄の民間信仰にとって欠かせないいろいろな祭具が販売されている点だ。

左/写真5 照屋漆器店の新店舗。2013年に完成した。照屋漆器店提供
右/写真6 照屋漆器店、店内の様子。2022年10月。島村恭則撮影。

 沖縄の女性は、結婚して所帯を持つと、台所でヒヌカンを祀るようになる。この神は万能の神で、主婦となった女性たちは、家族の健康や自らの願い事をこの神に祈る。悩み事があるとき、ヒヌカンの前で心を静めて祈りの言葉を唱えると気持ちがすっきりすると語る人もいるくらいだ。ヒヌカンを仕立てる(祀り始める)際に、この店で相談すると、経験豊富な「火の神マイスター」の店員が祀り方を説明しながら必要な道具を揃えてくれることになっている。ちなみに、照屋漆器店の公式キャラクターは、「ヒヌカンくん」である。

左/写真7 ヒヌカン(火の神)。台所で主婦が祀る。北谷町、2022年11月。喜納育子氏提供
左中/写真8 ヒヌカン(火の神)。台所で主婦が祀る。北谷町、2022年11月。喜納育子氏提供
右中/写真9 店頭に掲げられた「火の神(ヒヌカン)マイスター」についてのポスター。照屋漆器店提供
右/写真10 照屋漆器店の公式キャラクター「ヒヌカンくん」。「ナカビ」(旧盆〔旧暦7月13~15日〕の「中日」〔14日〕について告知するTwitter上のツイートより。照屋漆器店提供

 ビンシーも女性にとって重要な祭具である(第15回「首里十二カ所巡りと『のーまんじゅう』」参照)。ビンシーは、首里十二カ所巡りなどの巡拝行事や清明節、盆の墓参りなどに持参して使用するが、その家の「実印」と同じ意味を持つ道具だとされ、人に貸すことは許されない。こうした決まりや使い方についても店員が詳しく説明してくれる。

写真11 ビンシー。携帯用の供物入れ。生米、洗い米、塩、酒(泡盛)を入れて携行する。照屋漆器店、2022年11月。島村恭則撮影

 また、ヒラウコー(平御香。沖縄式の平たい線香)やウチカビ(打紙。祖先祭祀の際に燃やして用いる「あの世のお金」)など祭祀の際の消耗品も売られている。民間信仰に関する道具はすべてここで手に入るのだ。

左/写真12 ヒラウコー(平御香)。沖縄式の平らな線香。屋部寺(名護市)、2022年11月。森田玲氏提供
右/写真13 ウチカビ(打紙)。あの世のお金。照屋漆器店提供

 2階には、モダン仏壇といわれる日本本土式の仏壇、3階には、沖縄式仏壇のショールームがある。このほか、工房や事務所もこのビルの中にある。

仏壇文化の現在

 照屋漆器店では、インターネット上での情報発信にも力を入れている。自社のホームページでは、商品広告以外に沖縄の祖先祭祀や年中行事についてのコラムを多数掲載し、SNSでも日々、民間信仰関係の情報が発信されている。たとえば、旧暦の毎月1日と15日はヒヌカンと仏壇に供え物をして祈る日であることから、この日になるとtwitterにそのお知らせと祀り方の解説が投稿される。
 また、沖縄の高校生を主人公にした人気マンガ『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』(空えぐみ著)とのコラボレーションによって、沖縄の旧盆文化を紹介するマンガを公開するなど斬新な情報発信も行なっている(https://mobile.twitter.com/teruyashikki_of/status/1421063322716172289)。

写真14 『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』(空えぐみ著)とのコラボレーションマンガ。照屋漆器店提供。©空えぐみ/新潮社

 さらに、2021年には、沖縄県内在住の20歳以上の既婚男女300人を対象とした「仏壇仏具や沖縄の行事等についての県民意識調査」を独自に実施し、その結果を公表している(https://teruyashikki.com/wp-content/uploads/houkoku20210520.pdf)。それによると、「沖縄の仏壇行事は残していくべきだと思いますか」の質問に、全体の58.0%が「そう思う」「ややそう思う」と答えているが、注目すべきは、20代の70.0%、30代の63.3%が同じ質問に「そう思う」「ややそう思う」と答えている点だ。これは、40代の56.7%、50代の46.3%、60代の54.9%を上回る数字であり、若い世代のほうが仏壇行事の継承に肯定的であることが示されていて興味深い。この点について前出、照屋慎氏は「昔は本土への劣等感を感じる若者が多かったが、今は沖縄は『ブランド』にもなり、若者ほど文化を大事にしようという意識が高まっている」とコメントしている(『沖縄タイムス』2021年8月20日)。
 仏壇通りの仏具店は照屋漆器店だけとなった。しかし、これは仏壇文化の衰退を意味するものではない。沖縄の祖先祭祀、仏壇文化は、時代の変化に対応しながら、生き続けている。

謝辞
 本稿執筆にあたり、照屋漆器店7代目、照屋慎氏に多大なご協力を賜りました。また、山城美鈴氏(照屋漆器店)、喜納育子氏、森田玲氏から写真の提供を受けました。さらに、空えぐみ氏、新潮社からは、マンガ掲載についてお認めいただきました。ここに記して謝意を表します。

●次回の更新は11/30を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回、第10回、第11回、第12回、第13回、第14回、第15回、第16回はこちら

【参考文献】
小野尋子 2008 「『仏壇通り』の由来:照屋漆器店 照屋ハツ子さんに聞く」『み~きゅるきゅる』5(特集「開南」)
空えぐみ 『沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる』(新潮社くらげバンチ連載 https://kuragebunch.com/episode/10834108156739758650、書籍
https://www.amazon.co.jp/dp/4107722961/)

島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。

RELATED ARTICLE