錬金術師列伝

カルチャー|2022.8.5
澤井繁男

第2回 アラブ世界へ(1)

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 アラブ世界の錬金術はギリシア世界の錬金術の、言ってみれば「要約」なので、今回はギリシア文化の自然哲学と、ヘルメス思想を眺め、アラブ世界の錬金術へと向かおう。ギリシアの自然哲学の感化とは、火、空気、水、土(軽い物から重たい物へ)の相互変換の理論である。これは「医化学派の成立」のときに詳しく説明する。この哲学の影響下、当初の冶金術が、本性(魂・霊魂)の発見によって人間化された(これは擬人化の始まりを意味する)。また惑星との照応も考慮されていた。例えば、太陽と金、月と銀、金星と銅、土星と鉛、火星と鉄、木星と錫、水星と水銀、といったふうに。

錬金術を錬金術ならしめているのは、なによりも、ヘルメス思想である(錬金術は中世まで「ヘルメスの科学」とよばれてきたくらいである)。へルメスとはエジプトの神・トートのギリシア名である。トートは神々の書記的役目を果たし、学術や魔術の神とされた。当時の書物には多く、このヘルメスの名が象徴的に付された。

このヘルメス・トリスメギストス(三倍に偉大なるヘルメス)によって著わされたと信じられた書物が『ヘルメス文書』である(15世紀後半、フィレンツェのマルシリオ・フチーノ〔1433-99年〕がギリシア語からラテン語に翻訳した)。『ヘルメス文書』は前3世紀から後3世紀の間(特に、後1、2世紀)にエジプトの知の中心地だった、ローマ帝国治下のアレクサンドリアで口頭にて、教義が伝授されたものを筆記したものである。

マルシリオ・フチーノ

当時の知識人たちは、ギリシア哲学(特にプラトン哲学)の教えを受け継いでいた。しかし反復学習のような硬直化した暗唱には満足せず、プラトン哲学を軸に独自の哲学を打ち立てようとした。秘密裡に組織が形成され、上記のように教義の筆記が始まった。それが『ヘルメス文書』となる(後3世紀まで)。内容も多彩で、神学、占星術、医学(術)、錬金術、魔術等であった。その内実はきわめて瞑想的、神秘的だった。

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 ヘルメス思想を一言でまとめると、「事物・生命の秩序的連鎖」と言えよう。つまり秩序を重んじて、上位のもの(原型・一者)の模倣として下位の者が生じるという考えである。例えば、「星辰界」が「地上界」を支配する力は「運命」としてみなされ、宇宙(マクロコスモス)と地上界(ミクロコスモス)が照応・感応の関係として把握される。
 『ヘルメス文書』のなかの「ポイマンドーレス」には次のような記載がある。

世界よ、私の声に注意を向けてくれ、地よ、開いてくれ、大量の水が私に向かって開い
 てくれるように。木よ、ふるえるな。私は主とすべてと一を崇め讃えたい。空が開いてく
 れるように。そして風がおさまり、すべての私の機能が、すべてと一を崇め讃えるように。

 「すべて(=全)」と「一」の原理で、これこそ錬金術の基本原理であり、「対立物の一致」と「物資の相互変換」の理論を確定するものである。後者の方は先に述べたように回を変えて解説する。ここでは「対立物の一致」に言及しておく。

両性具有(ヘルマプロディトウス)の図

錬金術の表象としては「両性具有(ヘルマプロディトウス)」がもっともわかりやすいだろう。男性器と女性器が一点で交差している図である。対立物とは「男」と「女」を指す。先に公開した、『魔術師列伝』で、1400年から50、60年代まで活躍した3人の人士(ロレンツォ・ヴァッラ、ニコラウス・クザーヌス、エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ〔ピウス2世〕)に関しての説明不足をお詫びしなくてはならないが、「対立物の一致」の説明には、ニコラウス・クザーヌスに登場してもらおう。

ロレンツォ・ヴァッラ
ニコラウス・クザーヌス
エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ〔ピウス2世〕

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 「対立物の一致」とは究極的には「調和」を意味する。私はこう説明することにしている。
英語構文の、All you have to do is to do’~という英文を掲げる。訳は「君がしなくてはならないすべてのことは、~することである」。これはallを円とすると、円の内側からみた訳だが、allを円として、それを外部から眺めたら、「君がしなくてはならないのは~『だけ』である」となる。これをもっと砕くと、「君は~だけをすればよい」「君は~しさえすればよい」となる。

即ち、allという「すべて(最大)」が「だけ(最小)」になり、視点が変わってallの意味に変化したのだとわかる。「最大」と「最小」の一致(調和)で、「対立物の一致」と言えよう。この訳出方法はプロセスが肝要で、初っ端から「~しさえすればよい」と教示してはいけない。


第2回(1)了

澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。

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