空海 祈りの絶景 #8 四国遍路〜高知編〜

連載|2023.7.1
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

#8 辺路修行の跡を追う

 行けども行けども、海、また海が続く。

 四国八十八ヶ所霊場の遍路道は、第二十三番札所の薬王寺から海沿いに進路をとる。気がつけば県境を越え、土佐の国、高知県へ。「修行の道場」のはじまりである。

 四国遍路は、4県を仏道修行の道場にたとえ、それぞれ、釈尊が悟りに至った4つの段階にちなんだ名前で表現されている。つまり、第一番札所がある徳島は「発心(ほっしん=仏の悟りを得ようという心を起こすこと)」、高知は「修行(悟りを目指して心身浄化を習い修めること)」、愛媛は「菩提(世俗の迷いを離れ、煩悩を断って得られた悟りの智慧)、香川は「涅槃(悟りの智慧を完成させ、一切の悩みや束縛から脱した境地)」の道場、というように。

 なかでも高知が「修行の道場」であることは、県境を越えた頃から少しずつわかってくる。というのも、薬王寺から次の札所がある室戸岬の最御崎寺(ほつみさきじ)までは、約75km。

高知県最初の札所、最御崎寺。

 これまでどんなに山中を歩いても、最長20kmほどで次の札所に到着する徳島県に比べると、札所がなかなか現れない印象を受ける。ちなみに高知県の札所の数は、総距離約400kmに対して16。徳島県が約190kmに対し23の札所があるのに比べると、はるかに少ない。

第三十一番札所、竹林寺。禅の高僧、夢窓国師の作庭と伝わる庭園がある。
第三十九番札所、延光寺。境内にいた赤い亀が竜宮城へ行き、梵鐘を背負って帰ってきたという伝説が残る。

 遍路をする者にとって、札所は小さな達成感を得られる場所。一日のささやかな励みがなくなって、モチベーションが下がることもある。ある意味高知は、四国遍路が、本来海と陸の境目の道を、厳しい修行をしながら歩く辺路(へじ。辺地とも書く)修行にあることを、最も感じさせる土地とも言える。

足摺岬近くの海辺を歩く。

 辺路修行の痕跡は、今もところどころに残っている。
 たとえば室戸岬の北西約8kmにある行当岬(ぎょうどさき)の不動岩は、かつて修行者たちが行道をしていたとされる場所。行道とは、神聖な岩や建物、木の周りを何十回もぐるぐる回る修行の形態の一つで、岬の名も「行道」に由来するのではという説がある。

不動岩。現在は道が整備され、誰でも岩の周囲を歩けるようになっている。

 さらに、「窟(いわや)に籠る」のも修行の一つ。不動岩にも2つの窟があり、どちらも海に面して入り口がある。試しに、そのうちの一つの窟に入り、中から外を覗いてみると……、

 木々の間から、空と海だけの風景が広がっていた。聞こえるのは、波の音と鳥の鳴き声。心が深い静寂に満たされた。
 かつて辺路修行に身を投じた若き空海も、これと似た風景を見たことだろう。

 空海は、自身の著書『三教指帰(さんごうしいき)』に、

 「土州(としゅう)室戸の崎に勤念(ごんねん)す」––––。

 こう記している。つまり、「室戸岬で、心に念じて真言を唱えた」と。

 空海が虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう=当連載の#6、#7を参照)を修法したと伝わる場所は、室戸岬から1kmほど離れたところにある。なかでも修行の際、居住スペースにしていたとされるのが、御厨人窟(みくろど)と呼ばれる窟。

 中は思いのほか広々としていて、現在は大国主命をご祭神とする五所神社が鎮座する。

 御厨人窟の隣には、求聞持法を修法したと伝わる神明窟(しんめいくつ)。現在は国道が走り、窟から海までの距離は遠くなったものの、空海の時代は窟のすぐ近くまで海が迫っていたという。だとしたら、不動岩の窟のように、空と海しか見えなかったはずだ。
 空海は、東南に向いているこの窟で神秘体験を得て悟りを開き、自身の法名を「空海」に決めたと言われている。

 そんな空海ゆかりの場所で、一人の先達(せんだつ)と出会った。

 60歳を機に遍路を始め、14年が経つという日野唯則さんは、これまで160回結願(けちがん=八十八ヶ所の札所をすべて巡拝し終えること)の経験を持つ大先達。移動は車で、いつも1週間ほどかけて八十八ヶ所を巡り終えるという。
 「これまで人に迷惑ばかりかけてきたので、その清算をさせていただいているというのでしょうか。正しい生き方とはどんなものか、そんなことをいつも思いながら巡っています。何より、遍路に来ると心が落ち着いて、浄化された気持ちになるし、1回終えると、また行かなくちゃという気持ちが湧いてくるんです」

 名刺代わりに納札(おさめふだ)をいただいた。

左がは日野さんからいただいた納札。右はあるお寺でご住職から「お守りに」といただいた。

 お参りの際、各札所の本堂や大師堂に納める納札は、回を重ねるごとに色が変わる。最初の1〜4回は白、次の段階で緑になり、その後、赤、銀、金と変わっていき、100回以上になると、錦の札の使用が許されるという。

 納経帳も見せてもらった。

 遍路では、本来写経した経典を札所に納め、その証として、本尊名や寺名などを墨で書いてもらい、ご朱印(ご宝印)を押してもらう習わしがある。もっとも、現在は写経の代わりに般若心経を唱え、それが参拝の証となってご朱印をいただくようになっている。ちなみに納経帳は、何度巡っても同じものを使う。つまり回を重ねるたび、同じページにご朱印の数が増えていくというわけだ。

 先達の納経帳を開くと……、

 どのページも見事に朱色に染まっている。
 一方、遍路初心者の私たちの納経帳は、

 余白だらけ。改めて、160回の重みを感じた。

 「遍路をして変わったことは、人にやさしくなったことでしょうか。少しずつ煩悩がなくなってきたという思いもあります。ときどきふと、拝んでいるときに喜びや嬉しさのようなものが、ワーッととめどなく湧いてくることがあるのですが、そういうときはお大師さんとと一体となった感じがします。そもそも遍路を始めたのは、高野山の奥之院で、まるでシャワーのように太陽の光を浴びたことがきっかけでした。遍路でも光を強く感じるときがあります。きっと、人間世界と神の世界は、オブラートのような膜が存在するだけで、実は共存し、光を通して一緒にいるよと、神様が教えてくれているのではないかと思うようになりました」

室戸岬近くにある夫婦岩(みょうといわ)。

 車はひたすら海沿いの道を走る。今回の遍路は、要所要所で歩きつつ、基本的な移動は車。山と海、それぞれを身近に感じながら、空海も辿ったであろう辺路修行の痕跡を追った。

 第二十七番札所、神峯寺(こうのみねじ)を擁する標高約570mの神峯山(こうのみねさん)は、辺路修行の以前から、神聖な霊場として人々に崇拝されてきた地。山頂近くにはかつての札所、つまり、もとは修行場で、現在は奥の院になっている神峯神社が鎮座する。

 寺の境内には、土佐の名水、神峯の水。

 「お参りをするときは、まず手を洗い、口をすすいで、自分の心身を清浄にすることを大切にする」。そう言った先達の言葉を思い出し、石をつたう清らかな水で手と口を清めた。

 寺の境内を過ぎると、道は徐々に細くなる。

 やがて、樹齢数百年の楠や欅の大木が現れた。

 昔は結界が厳重で、女人は入れなかったというこの聖なる山は、今も神さびた空気を放ちながら、訪れる者を静かに迎える。お社の近くでひときわ目を引いたのは、燈明巌(とうみょういわ)と呼ばれる不思議な巨岩。

 案内板によれば、「燈明」という名は、この巨岩が、太古から夜中になると青白い光を放っていたことに由来するという。加えて、世の中に異変や困難があるときは、その前兆としてこの岩が光ると語り伝えられているとか。
 もっとも、仏教民俗学者の五来重氏は、この光を、辺路の修行者が海の神、つまり常世の神に捧げるために焚いた聖火だとしている。五来氏によれば、辺路修行のルーツには、海の彼方を死者の霊がとどまる常世と捉える海洋信仰があり、火を焚いて常世の神に捧げることは、窟に籠り、行道するのと同じように辺路修行の重要な要素だという。

 山頂からは海が見えた。

 高知でも札所だけでなく、本来の修行場である各札所の奥の院に足を運んだ。
 第三十六番札所の青龍寺(しょうりゅうじ)も、元の札所は現在の奥の院。

(左)青龍寺の奥の院。木製の鳥居をくぐり、参道から靴を脱ぐ。(右)奥の院付近からの眺め

 現在不動堂があるこの場所は、青龍寺の境内より海に近い断崖の上にあり、もとは辺路修行の重要な霊場の一つだったという。かつては女人禁制で、今も聖域としての清浄さ、品格をとどめている。
 境内の木々の間から、海が見えた。波の音も間近に聞こえる。山にいながら海を感じる、そんな不思議な感覚に陥った。

長い階段の先に青龍寺の本堂がある。ご本尊は波切(なみきり)不動明王。
階段の両脇には清流が流れ、途中「行場」と呼ばれる滝には、不動明王の像も。

 遍路道は、海に沿って西南へ進む。

 そして、四国最南端の足摺(あしずり)岬へ。

 この岬は補陀落(ふだらく)信仰と結びつく重要な地。補陀落は、インドの南の海岸にあるとされる観世音菩薩の浄土、ポータラカの音訳語で、入水往生すると自分の魂が補陀落へ行き、そこで永遠に生きると信じられていたという。修行者は、まずこの地で補陀落世界へ行ける段階に達するまで修行をし、しかるべき時を待って、この南に突き出た岬から、補陀落世界を目指して船出したのである。

 もっとも、補陀落渡海が盛んに行われたのは、鎌倉時代以降のこと。前述の五来氏によれば、ルーツは死者の水葬にあるという。死者を水葬すると、その霊は海の彼方に行って、常世に留まる。つまり常世信仰、海洋信仰に繋がり、「足摺」という名の由来も、諸説あるものの、もとは岬の先端に立ち、常世を礼拝する五体投地(額突くこと)にあると解釈している。

 この岬には、第三十八番札所の金剛福寺がある。

金剛福寺。境内にはこの地に残る亀伝説にちなんだ「大師亀」が置かれている

 ちなみに、前札所の岩本寺から金剛福寺までの距離は80kmあまり。全札所の中でも、札所間の距離が最も長い。次の延光寺も、50km以上離れている。修行の道場も終盤に入り、通しで歩き遍路をする人にも、凄みのようなものが感じられる。くたびれた白衣、日焼けした腕や顔。どこか痛いのだろう、足を引きずるように歩く姿も何度か見かけた。
 さまざまな人が、それぞれの想いを抱え歩いている。
 この地のダイナミックな自然の姿とともに、人々の祈りの姿が心に残った。

足摺岬には、室戸岬同様、海蝕による窟や洞門が多い。加えて、いわゆる弘法大師にまつわる伝説もさまざま残る。(左)白山洞門。花崗岩の洞門としては日本最大の規模と言われる。(右)洞門上には白山本宮が鎮座。白山権現が祀られ、鳥居の手前で遥拝する。
亀の形をした奇岩「亀石」。足摺岬には「足摺七不思議」があり、そのうちの一つで岬の先端にある「亀呼場」に石の頭部がを向いている。なお「亀呼場」は、空海が足摺岬灯台前の不動岩に渡るため、亀を呼び、その背中に乗った場所と伝わる。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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