辻のジュリ馬
沖縄では、いまでも正月やお盆などの年中行事を旧暦で行なっている。旧暦とは、太陰太陽暦のことで、明治時代のはじめまで日本で採用されていた暦のことだ。2023年の場合、旧暦1月1日は、新暦(現在の日本で一般に用いられている暦。太陽暦)の1月22日にあたる。
沖縄では、旧暦の正月を、旧正といい、さまざまな行事が行なわれるが、その最後の締めくくりの日が「ハチカソーグヮチ(二十日正月)」である。各家庭では、仏壇や火の神にお供え物をして祈ったあと、正月飾りなどを片付ける。一方、この日、那覇の花街であった辻では、二十日正月の行事として昔から「ジュリ馬行列」が行なわれてきた。
ジュリ馬とは、着飾ったジュリ(遊女。現在は、遊女役の女性)たちが木でできた馬の首の造り物を腰に付けて踊る芸能のことである。遊女たちが行列を組み、この踊りを中心としてさまざまな出し物からなる行事が「ジュリ馬行列」で、「那覇大綱引」と並ぶ那覇の一大行事として知られてきた。沖縄戦でいったん途絶したが、1953(昭和28)年に復活。その後、1988(昭和63)年から中断していたが、2000(平成12)年に再開され、コロナ禍の2020年から22年までを除いて、毎年実施されている。
戦前のジュリ馬行列は、たいそう賑やかで、沖縄中から観客が集まった。3000人いた辻の遊女たちは、「この日ばかりは色とりどりに錦紗、縮緬と、上から下まで絹ものずくめ」で、その行列は、「白粉と香水の匂いにむせ返り、色とりどりの花が満開のお花畑のよう」だったという(上原栄子『新篇 辻の華』時事通信社出版局、2010年、32-33頁)。
遊行宗教芸人たち
ところで、ここで根本的な疑問が生じる。なぜ遊女たちは馬の首の造り物を身につけて踊るのか。この踊りは何に由来するのだろうか。
戦前まで、首里のはずれにアンニャ村とよばれる集落があった。アンニャとは、「行脚(あんぎゃ。僧侶が各地を巡り歩いて修行すること)」のことで、ここには、ニンブチャー(念仏者)とかチョンダラー(京太郎)などと呼ばれる人たちが暮らしていた。ニンブチャーは、文字通り、念仏を唱える者のことで、葬儀のときに呼ばれ、鉦(かね)を叩き、念仏歌を歌うことを生業としていた。また、京太郎とは、家々を門付け(かどづけ。各家を訪問して門口で芸能を披露すること)して回る芸能民のことで、人形芝居や万歳、さまざまな踊りなどの芸能を披露した。京太郎の名称は、京都からやってきたという伝承にもとづくとされている。
ニンブチャーとチョンダラーという二つの名称は、実は同じ人びとのことをさしていた。つまり、アンニャ村に住む人たちは、あるときは、葬儀に呼ばれて念仏を唱え、あるときは門付け芸を行なった。職能の内容に応じて二つの名称が存在していたのである。この人びとのことを一言でいうなら、「遊行宗教芸人」(小島瓔禮『中世唱導文学の研究』泰流社、1987年、155頁)とするのがふさわしいだろう。
右/写真5 「行脚村跡」史跡案内板。2022年3月。島村恭則撮影
この遊行宗教芸人たちが演じる芸能の一つに、「ンマメーサー(馬舞者)」があった。大正時代に、彼らの生活と芸能について調査した宮良当壮『沖縄の人形芝居』には、ンマメーサーについての「三人仮面を被り馬の木像(首より上だけ)を下腹に結びつけ手綱を採りて乗馬の姿勢で左の歌にて競馬の有様を演ず」という説明とともに、歌の詞章が記録されている(宮良当壮「沖縄の人形芝居」『日本民俗誌大系』第1巻、角川書店、1974年、272-275頁)。
戦後、アンニャ村は消滅し、遊行宗教芸人たちによるンマメーサーも存在しなくなったが、沖縄本島中部に位置する沖縄市泡瀬地区や宜野座(ぎのざ)村宜野座地区の人びとが、現在もこの芸能を伝承している。これは、アンニャ村の芸能が明治時代に首里の芝居小屋の演目に取り入れられ、それが泡瀬や宜野座に伝えられて、地元の人たちによって演じられるようになったものである(本田安次『沖縄の祭と芸能』第一書房、1991年、274-275頁、「ちょんだらあ」『沖縄文化史辞典』真栄田義見・三隅治雄・源武雄編、東京堂出版、1972年、250-252頁)。
それらの実演を見れば、ンマメーサーは、木でできた馬の首の造り物を腹部につけ、手綱を引くしぐさをして踊るものであることをこの目で確認できる。そして、これは辻のジュリ馬とも同様のスタイルであることに気付かされる。辻のジュリ馬の場合、泡瀬や宜野座と違って具体的な伝来、受容の経緯は不明だが、アンニャ村の遊行宗教芸人たちのンマメーサーが、何らかの経路を経て、辻で受け入れられたものと考えられる。
本土の春駒
ンマメーサーに類似した芸能は、日本本土にもある。春駒(はるこま)である。春駒は、正月に馬の造り物を腹部につけたり、手に持ったりして踊るもので、かつては全国各地で行なわれていた。その担い手は、沖縄と同様、遊行宗教芸人と呼ぶべき人びとで、彼らが家々を門付けして回っていた。春駒は、「春の馬」の意味であり、新春に元気な馬が走り回る様子を演じることで、一年の幸福を予祝(めでたいことが起きることを念じてあらかじめ祝うこと)する意味があったらしい。
現在では、春駒は、群馬県利根郡川場村や新潟県佐渡島など、一部の地域でしか伝承されていない。またそこでの担い手は、地元の人たちである。だが、これらの地域にもかつては遊行宗教芸人がやってきて門付けを行なっていた。そこには、地元の人たちが彼らから春駒を習い覚えた歴史があった(川元祥一『旅芸人のフォークロア――門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる』農山漁村文化協会、1998年)。
春駒の担い手であったかつての遊行宗教芸人たちは、彼らだけが居住する集落を形成し、そこを拠点に各地へ門付けに出ていた。これは、アンニャ村と同様である。また、ニンブチャーと同じく、念仏を唱えながら葬儀に関わる仕事をする者もあったようである。その歴史は、極楽浄土への往生の教えを説いて全国を漂泊していた中世の念仏僧(ねんぶつそう)にまでつながっている可能性がある。
念仏僧の南下
ンマメーサーの担い手であった沖縄の遊行宗教芸人と春駒の担い手であった本土の宗教芸人。両者の生態には、かなりの類似性があった。この類似性は、沖縄の遊行宗教芸人のルーツが、本土から沖縄に渡ってきた遊行宗教芸人にあったことをうかがわせる。沖縄の遊行宗教芸人の歴史を研究した池宮正治は、彼らの祖先は本土の念仏僧だとして、次のように述べている。
チョンダラー(ニンブチャー)たちの祖先の念仏僧たちは、信仰の普及という熱意にもえて、幾代幾度にもわたって、海上の危険をおかし、南海の島々に渡来した。彼らは民衆の心をとらえようと、周辺の芸能を布教の手段として再編・再生した。そして、彼らの芸能はさまざまな形で地方に伝播し、民衆の精神生活を支え、芸能を豊かにしてきた。(池宮正治『沖縄の遊行芸――チョンダラーとニンブチャー』ひるぎ社、1990年、188頁)
念仏僧、あるいはその子孫であるニンブチャー、チョンダラーたちが、布教手段として、あるいは門付けという生業のネタとして用いたのが、本土の遊行宗教芸能である春駒であった。それが、沖縄の地で土着化してンマメーサーとなり、その後、遊行宗教芸人の手を離れて、泡瀬や宜野座のンマメーサー、辻のジュリ馬となっていったと考えられる。
「馬の造り物」芸能の淵源
ところで、ジュリ馬、ンマメーサー、春駒のような馬の造り物を用いた芸能は、ヨーロッパにもあった。民俗学者の小島瓔禮は、イギリスやオーストリアの事例を検討し、造り物の馬は、生きた馬の代用で、もともとは「聖なる者が馬に乗って来訪する」という宗教的な意味があったのだろうと論じている(小島瓔禮『人・他界・馬――馬をめぐる民俗自然誌』東京美術、1991年、118頁)。
聖なるもの、神が馬に乗って現れる事例は、奄美・沖縄の村落祭祀でも見られた。ノロと呼ばれる司祭女性が馬に乗って祭りの場に出現するが、その際、ノロは神の依代(よりしろ)となっており、人びとは騎乗のノロを神として崇(あが)めていた。
これらのことを踏まえると、沖縄や日本本土の馬の造り物芸能も、その遠い淵源は「騎乗の神」への信仰にまで求められるかもしれない。ジュリ馬には、人類の宗教芸能史をめぐる深い問いが隠されているのである。
謝辞
群馬県利根郡川場村の春駒の写真は、民俗学者の板橋春夫氏から提供していただきました。記して謝意を表します。
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【参考文献】
浅香怜子 2011 『じゅり馬と辻村女の里(チージ)の研究――本土(やまと)の春駒から沖縄のじゅり馬へ』春駒じゅり馬民俗芸能研究会
池宮正治 1990 『沖縄の遊行芸――チョンダラーとニンブチャー』ひるぎ社
折口信夫 1995[1929]「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」『折口信夫全集』第3巻、中央公論社
折口信夫 1997[1921]「沖縄採訪手帖(大正十年)」『折口信夫全集』第18巻、中央公論社
上原栄子 2010 『新篇 辻の華』時事通信社出版局
川元祥一 1998 『旅芸人のフォークロア――門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる』農山漁村文化協会
小島瓔禮 1987 『中世唱導文学の研究』泰流社
小島瓔禮 1991 『人・他界・馬――馬をめぐる民俗自然誌』東京美術
本田安次 1991 『沖縄の祭と芸能』第一書房
真栄田義見・三隅治雄・源武雄編 1972 「ちょんだらあ」『沖縄文化史辞典』東京堂出版
宮良当壮 1974[1925] 「沖縄の人形芝居」『日本民俗誌大系』第1巻(沖縄)、池田弥三郎ほか編、角川書店
山内盛彬 1962a 「琉球に於ける傀儡の末路と念佛及び萬歳の劇化(1)」『國語と國文学』第6巻9号
山内盛彬 1962b 「琉球に於ける傀儡の末路と念佛及び萬歳の劇化(2)」『國語と國文学』第6巻11号
島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。