与那原街道
那覇の東方、約9キロのところに与那原(よなばる。島尻郡与那原町)という街がある。ここは第二次世界大戦前まで、山原(やんばる)と呼ばれた沖縄本島北部地域から木材や薪炭、砂糖などを積んだ山原船(本島北部と中南部を結ぶ交易船。18世紀に出現した帆船で、明治時代には蒸気船も使われた)が入港する港町として栄えた。
この与那原と那覇を結ぶ街道が、1897(明治30)年に車道として開通した通称「与那原街道」(現在の国道329号線)で、与那原で陸揚げされた物資は、この道を使って馬車で那覇へ運ばれていた。
一日橋と真玉橋
与那原街道には、途中、二つの有名な橋があった。板敷川(いちゃじちがー)に架けられた一日橋(いちにちばし)と街道沿いの真玉橋(まだんばし)である。
一日橋は、那覇市上間にあり、琉球国時代には板敷橋(いちゃじちばし)と呼ばれていた。もともと木造だったが、1689年に石橋に改築された。橋の名前の「一日」は、国王の養父の葬列が通過できるよう一日で橋の修繕をしたからとも、「板敷」(いちゃじち)の音が「一日」(いちにち)に転化したからともいわれている。現在の一日橋は、戦後に架け替えられたもので、かつての橋の上流50メートルのところに位置している。
真玉橋は、那覇市国場(こくば)と豊見城市(とみぐすくし)真玉橋の境界を流れる国場川に架かる橋で、1522年に架けられた。当初は木造で、1708年に石橋となった。橋名の「真玉」は、「すばらしい玉」を意味している。かつての石橋は1945(昭和20)年に破壊され、その後、鉄橋、コンクリート橋へと架け替えられ、現在の橋(2002年に架けられた)の両端付近には、発掘された往時の石橋の遺構が保存されている。
この橋は、与那原街道上の橋ではなく、首里から南部方面へ向かう「真珠道(まだんみち)」が通る橋だが、与那原街道のすぐ南側に位置しており、通行人はこの橋を横目に見ながら往来していた。
右/写真3 真玉橋。第二次世界大戦前。那覇市歴史博物館提供
右/写真5 真玉橋の石橋遺構。2022年3月。島村恭則撮影
一日橋の怪
一日橋は、古くからユーリー(幽霊)、化け物の出る場所として人びとに知られてきた。与那原街道のちょうど中間地点に位置するこの場所は、現在は市街地となっているが、戦前まではあたりに人家もない寂しい場所であった。那覇生まれで、戦前のこの場所を知る金城和彦は、つぎのように述べている。
辺りは民家もなく、昼でも人が通るのは稀で、夜になると、右手に識名の森が闇の中に黒々と鎮まり、左手には津嘉山方面への畑が物悲しく拡がって、時折り犬の遠吠がするだけで、一日橋はキーブリダチャー(身の毛がよだつ)する名所であった。(金城和彦『沖縄の昔面影──怪談・綺談の話ぐゎー』那覇出版社、1997年、160-161頁)
以下、この橋にまつわる怪談の具体例を2つ、要約して紹介しよう。
[欄干をよじのぼる老婆]
与那原から那覇へ薪を積んで運ぶ馬車の車夫が体験した話。那覇で薪を売りつくし、与那原に戻る途中の車夫が一日橋に近づいたときには、すでに日がとっぷりと暮れていた。車夫は、荷物のない空の馬車に腰かけて、ときどき馬の尻を叩き、ウトゥルサ(恐怖心)を打ち消そうとサーヨー(琉歌)を歌っていた。
そのときである。骨と皮だけになったシラガーハーメー(白髪の老婆)が、ずぶ濡れの姿でしずくのたれる髪を振り乱しながら橋の欄干をよじのぼってくるではないか。そしてかすれた声で、手招きをしながら車夫を呼び止めた。
車夫は生きた心地がせず、懸命に馬の尻を叩き、やっとのことでその場を逃れた。振り返ると、シラガーハーメーは道に出て、よろけながらなおも手招きをして追いかけてこようとしていた。(金城、前掲書、161-162頁より要約)
[消えた乗客]
ある夏の夜であった。那覇の波上(なみのうえ)通りで、一人のクルマー(人力車の車夫)が、夜風に吹かれながら客を待っていた。するとそこへ「車屋さん」と呼ぶ声がした。夜目にも色白のすらりとした美人であった。
「どちらへ?」と尋ねると、「南風原(はえばる)の兼城(かねぐすく)まで」と美人は答えた。行き先を聞いて車夫は躊躇した。なぜなら、そこへ行くには、ユーリー話で有名な一日橋を通らなければならないからだ。
「どうしたの? 車代はうんとはずむから、どうか行ってちょうだい」。そう言うと彼女はにっこり微笑んだ。車夫は断るわけにもいかず、車を走らせた。
壺川から古波蔵、真玉橋、国場へと車は足早に向かった。車の中からは物音ひとつなく、夜風が頬をなでながら過ぎていくばかりだった。
ちょうど一日橋にさしかかったとき、急に車が軽くなった。車を止めて中を覗くと、確かに乗せたはずの女がいない。「これはユーリーだ」。はじめて気が付いた車夫は、梶棒(かじぼう)をとると、無我夢中でそこから駆け出したという。(金城、前掲書、165-166頁より要約)
二つの話とも、馬車夫や人力車夫という街道交通を生業(なりわい)としている者の身に起きていることが興味深い。彼らの間では、この種の怪談がさかんに語られ、共有されていたに違いない。
ちなみに、二つ目の話は、現代のタクシー運転手の間でよく語られる「消えた乗客」の話にそっくりだ。路上で乗せた客が目的地に着くと消えていたという怪談である。この話は、実は世界各地で伝承されている。現代の日本、韓国、中国などではタクシーが舞台となるが、アメリカの場合は、消えるのはタクシーの客ではなく、ヒッチハイカーである。また、かつての中国や韓国では、自転車の荷台に乗せた女が消えてしまったという話もある(島村恭則『日本より怖い韓国の怪談』河出書房新社、2003年、112-113頁)。一日橋の話からは、戦前の沖縄において同じ話の人力車版が語られていたことがわかり、興味深い。
真玉橋の怪
次に紹介する話は、前半は一日橋についてのものだが、後半で真玉橋が登場する。真玉橋で乗せた乗客が那覇に着いたら消えていたという話だ。
[消えた乗客]
那覇の人力車夫が夜中に辻遊郭の近くから南風原の兼城まで客を乗せていった。現地に着いたのは午前3時で、そこから那覇に引き返した。途中、一日橋にさしかかると、何やら異様なにおいが鼻をつき、ガランガランという金属音も聞こえてきた。不思議に思ってあたりを見ると、首に白い布切れを巻き、ボロをまとっている17、8歳の男が欄干に腰かけ、ため息をついている。車夫は逃げ出したいのをこらえて、男に向かって身構えた。しかし、男は何の反応も見せずにしきりにため息をつく。車夫が「お前は何者だ」と怒鳴ると、男はあっという間に黒い牛に姿を変え、尾を振りながら近くのサトウキビ畑に向かってノソノソ歩いて行った。
車夫は悪夢に襲われたような心地になって、一目散に車を引いて駆け出した。暗い夜道を駆け抜けて真玉橋付近までやってきてやっと人心地つき、一息入れていると、前方から22、3歳とおぼしき遊女風の女がやってきた。そして、「辻町まで乗せてくれ」という。車夫は、さきほどのことがあったから、この女も化け物に違いないと思い、「おまえは幽霊だな。幽霊なんか乗せられないよ」と即座に断った。女は「それならキセルを貸してください」と不思議なことを言う。車夫は「キセルなんか持っていない」と答えると、女はホホホと笑い出し、「あら、いやですわ。ウソをおっしゃったりして。キセルはちゃんとお腰にさしてあるではありませんか」と言う。ウソを見破られた車夫は、ここでひるんだら負けだと思い、声を荒げて女にこぶしを挙げた。女はひどく驚いた様子であとずさりしながら、「何をなさるんです。女の私に暴力をふるうのですか」と悲鳴に近い声を上げた。そこで我に返った車夫は、これは幽霊ではないようだと思い、女の手を握ってみた。すると人間と同じく温かかった。そこで車夫は「すまないことをした。さっき一日橋で化け物に出会って気が変になっていたのだ」と女に言うと、女は、「自分は辻の遊女で、里帰りの帰りです。一日橋に化け物が出るなんて、こわいですね」とおびえながら車夫にしがみついてくる。車夫は、「安心しろ、もう化け物は出ないよ。辻まで送ってやる。車賃はいらないよ」と言って、女を乗せた。女は、「後ろが怖いから、車を後ろから押してくださいませんか」と頼んだ。車夫は、言われたとおりにして、那覇の街中まで車を押してきた。その頃には夜がすっかり明けており、途中、道路わきにたむろしている車夫仲間たちからは、「どうした、どうした」と車を押している姿を冷やかされた。しかし、車夫は女との約束どおり押し続けた。ところが、途中で急に車が軽くなったので、変だと思い、ホロをめくって車の中を確かめた。すると、あの女がいなくなっていた。
あれも幽霊だったのか、と気づいた瞬間、車夫は腰をぬかしてしまったという。
(佐久田繁編『霊界からの使者』月刊沖縄社、2001年、158-165頁より要約)
一日橋で化け物に遭遇し、その後、真玉橋でも化け物(消える乗客)を乗せたという話である。真玉橋には、橋を架ける際に生贄として人柱が埋められたという「人柱伝説」があることでよく知られているが(注)、この話は、それとは別に、この橋の付近が、一日橋に続いて化け物が出現した場所として語られているものだ。
境界空間としての橋
沖縄に限らず、日本本土でも、橋は怪異や不思議と関わる場所として語られることが多い。幽霊の出現を示す「幽霊橋」という通称名の橋は、東京都墨田区や鳥取県米子市、福岡県久留米市など各地に見られるし、橋の上で占いが行なわれたことを示唆する「思案(しあん)橋」「言問(こととい)橋」「ささやき橋」といった名称の橋も各地に存在する。
なかでも京都の一条戻橋はそうした橋の代表格にあたる。平安時代の漢学者、三善清行(みよしきよゆき/きよつら)が死に、葬列がこの橋の上を通った際に、子の浄蔵(じょうぞう)が祈禱をしたところ、清行が生き返った。「死者が戻ってきた」ことから戻橋の名が付いたとされている。
また、平安時代の陰陽師、安倍晴明は自分が使役する「十二神将(じゅうにしんしょう)」という神々をこの橋の下に住まわせており、この橋の上で占えば十二神将の託宣が必ず下ったとも伝えられている(市古夏生・鈴木健一校訂『新訂 都名所図会』1、筑摩書房、1999年、38頁)。
さて、それではなぜ橋には怪異がまとわりつくのであろうか。民俗学では、次のように解説している。橋は、此岸と彼岸の二つの世界を結びつけるが、橋自体はどちらの世界にも属さない境界空間である。そしてこの境界空間は、現実世界とは違う世界、異世界ともつながる怪異空間、不思議空間としても想像されてきた。この世ならざる世界の住人は、この境界空間を通してこの世に出現する。また人知を超えた予知行為もこうした境界空間で行なうとうまくいく。昔の人はこのように考えたのだ(宮田登『妖怪の民俗学――日本の見えない空間』岩波書店、1985年)。橋は、あの世とこの世を結ぶ境界空間だったのである。
【注】
たとえば、次のような話が伝えられている。
真玉橋の架設工事が難航し、幾度も失敗したのをみかけたある人が、七色の元結いをした者を人柱にしたら橋はうまくかかるであろうと進言した。それで手をつくして七色の元結いをした者をさがし求めたが、結局そう進言をした者が実は七色の元結いをしていたことがわかり、人柱にかけられることとなり、橋が完成した。(『那覇市史』資料編 第2巻中の7「那覇の民俗」那覇市企画部市史編集室、1979年、398頁)
●次回の更新は1/30を予定しています。
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【参考文献】
市古夏生・鈴木健一校訂 1999 『新訂 都名所図会』1、筑摩書房
金城和彦 1997 『沖縄の昔面影――怪談・綺談の話ぐゎー』那覇出版社
佐久田繁編 2001 『霊界からの使者』月刊沖縄社
島村恭則 2003 『日本より怖い韓国の怪談』河出書房新社
那覇市企画部市史編集室編 1979 『那覇市史』資料編 第2巻中の7「那覇の民俗」、那覇市企画部市史編集室
宮田登 1985 『妖怪の民俗学――日本の見えない空間』岩波書店
島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。