十二支と四カ寺
首里を含む那覇市やその周辺地域に住む人たちの間に、「首里十二カ所巡り」という習俗が伝えられている。首里にある4つの寺(いずれも臨済宗妙心寺派)を参拝して回る行為のことだ。
これらの寺には、十二支に対応する「守り本尊」(守護神のような働きをする仏)が祀られており、人びとは、自分や家族の守り本尊がある寺を選んで巡拝する。ただし、それとは別に、4カ寺のすべてを回る参拝方式も存在する。この場合は、全部の守り本尊にお参りしたことになる。
参拝対象となる4カ寺と、守り本尊は次のとおりである。
① 慈眼院(じげんいん。通称「首里観音堂」、首里山川町):千手観音(子)、虚空蔵菩薩(丑・寅)、勢至菩薩(午)、普賢菩薩(辰・巳)
② 安国寺(あんこくじ。首里寒川町):不動明王(酉)
③ 西来院(さいらいいん。通称「達磨寺〔だるまでら〕」、首里赤田町):文殊菩薩(卯)、阿弥陀如来(戌・亥)
④ 盛光寺(せいこうじ。首里儀保町):大日如来(未、申)
この一覧からわかるように、「首里十二カ所」といっても、その「十二カ所」は「寺」をさすものではなく、守り本尊が担当する十二支のことをさしている。したがって、正確にいえば「十二支巡り」になるだろうが、慣例的に「十二カ所巡り」と呼ばれている。
左から2、3番め/写真2・3 安国寺境内の「首里森十二支堂」。安国寺の場合は、首里十二カ所巡りの参拝は、本堂(写真左)ではなくこのお堂で行なうことになっている。2022年3月。島村恭則撮影。
右/写真4 西来院(通称「達磨寺」、首里赤田町)。2022年3月。島村恭則撮影。
拝み方
4つの寺では、朝の8時頃にはもう参拝者がやってきている。筆者の観察では、夕方に至るまで参拝者はやってくるが、午前中のほうが多いようだった。参拝者の多くが女性である。一人で来ている人は少なく、家族数名であることが多い。またユタと呼ばれる霊能者を伴っているケースもかなり多い。沖縄では、何か悩み事があるとユタのもとを訪れて占ってもらう人が少なくない。ユタは、依頼者にいろいろな問題解決法を示すが、その一つとしてユタが同行する首里十二カ所巡りが含まれている。
参拝者たちは、供物と線香(ヒラウコーと呼ばれる黒色で平らなもの)を用意して寺にやって来る。興味深いのは、参拝者一組ごとに、ビンシー(瓶子)と呼ばれる携帯用の供物入れを持参している点だ。ビンシーは、漆が塗られた木製の箱でふたが付いており、この中に生米、洗米、塩、酒(泡盛)が入っている。供物がコンパクトに収納されたビンシーは、巡拝の際の持ち運びに便利である。参拝の際には、ふたを開けて本尊に供える。ビンシーのほかに餅や果物、お菓子も供える。線香は火をつけずに供物の横に置く。
準備が整ったら唱えごとをして祈る。ユタの中には、祈りの最中に霊的な啓示を受け、それを同行の参拝者に説明する者もいる。また、祈りのあとで参拝者同士がそのままのんびりとユンタク(世間話)を楽しんでいる姿も見られる。このような場合、そこには仏への礼拝だけにとどまらない安らぎの時間が流れているといえる。参拝者たちは、そういった部分も含めた全体を「拝み」として受け止めているようだ。
一連の参拝時間は、およそ20分で、ひとしきり拝みが終わると供物を片付けて次の寺へ向かう。片付けの際、米と酒は、参拝者の前に設けられた台の上にある「お米いれ」「酒」などと書かれた容器に入れることになっている。これらは、参拝後に供物が散らからないようにするための工夫として寺側が用意したものだ。
中/写真6 ビンシー(瓶子)。携帯用の供物入れ。一般財団法人 沖縄観光コンベンションビューロー提供
右/写真7 参拝する人びと。写真右の2人は、礼拝後もしばらくユンタク(世間話)をしていた。盛光寺、2022年3月。島村恭則撮影。
寺側の反応
こうした参拝のあり方、とくにユタが介在する信仰形態を寺側はどのように見ているのだろうか。筆者はかつて4カ寺それぞれの寺院関係者数名に話を聞いたことがある。そこでは、「参拝者たちの信仰は、仏教の教理そのものからは距離のある民間信仰的なものだが、昔から行なわれている伝統なので、寺としてはこれを頭から否定することはしていない。ただ、さい銭箱の前に供物を大々的に広げて他の参拝者の妨げになったり、供物の後片付けがきちんとできていなかったりなど、秩序が守られていないときは注意をするようにしている。また、できればせっかく寺に来るのだから、仏教の教えの世界にも触れてほしい」というのがほぼ共通する声であった。
もっとも、これは現在、十二カ所巡りを受け入れている寺院に関してのものであり、かつて十二カ所巡りの対象であったが、仏教の立場を強調するためにそこから離脱した寺もある。万松院(ばんしょういん。臨済宗妙心寺派。首里当蔵町)だ。かつて同寺は、文殊菩薩(卯)、普賢菩薩(辰、巳)を祀っていたが、1990年に文殊菩薩を西来院に、普賢菩薩を慈眼院に遷し、十二カ所巡りの対象から外れたのである。
筆者は、ちょうどこの離脱直後に万松院を訪れたことがある。境内には案内板が立てられ、「当万松院は、仏教布教の一方法として、首里十二カ所参拝寺(う・たつ・み)を九月三十日をもって廃止いたしました。十月一日以後は『う』はだるま寺、『たつ・み』は観音堂にまつられますので、そちらでおまいりして下さい。なお今後も一般の方々のおまいり(おさい銭だけでのおまいりはできますが、ビンシーを用いてのおまいりはできません。)健康祈願などの諸祈願、悩み事、信仰相談などはできますので、お気軽に御来寺下さい。」と書かれていた。
このときは、住職の松久宗清師にもお目にかかったが、同師は「より純粋な仏教布教のためには何をすればよいかを考え抜いた末の決断だった」と話されていた。仏道を真摯に追究されている様子がいまでも印象に残っている。
中/写真11 万松院(首里当蔵町)。2022年3月。島村恭則撮影。
右/写真12 「首里十二カ所巡り」からの離脱を告知する掲示。万松院、1990年12月。島村恭則撮影。
のーまんじゅう
ところで、首里の名物の一つに「ぎぼまんじゅう」で売られている「のーまんじゅう」がある。サンニン(月桃)の葉に包んで蒸した饅頭の表面に、贈答用の「のし(熨斗)」を意味する「の」の字を食紅で書いてあるため、「のーまんじゅう」と呼ばれる(「の」を伸ばして発音するので「のー」となる)。首里久場川町(くばがわちょう)の住宅街の中に店舗があるが、ここに店を構えたのは2004年のことで、それまでは4カ寺の一つ、盛光寺の境内に店があった。
ぎぼまんじゅうは、先々代の名嘉真ハルさんが戦前に儀保で創業した。店名の「ぎほ」はここから来ている。このときは、寺とは別の所に店があったが、戦争による休止期をはさんで、戦後、1947年に同じ儀保にある盛光寺の境内を借りて店を出した。そして、2004年に盛光寺の改築が行なわれるまでここで営業を続け、その後は現在地で営業するようになった。
境内に店があった頃は、十二カ所巡りの参拝者たちがここで饅頭を買い、供物にしていた。筆者は1990年に盛光寺を訪れたことがあるが、たくさんの「のーまんじゅう」が供えられているのを実見している。また改築前の盛光寺には住職が常住しておらず、ハルさんが事実上、寺の管理人のようになっていた。
2022年3月、筆者は「のーまんじゅう」を買いに「ぎぼまんじゅう」を訪れた。そのとき先客の一人に話を聞いてみた。その人は首里にある内装工事の会社で働く女性で、首里以外の街の取引先に行くときは、いつも「のーまんじゅう」を手土産に持っていくことにしているという。「首里と言えば『のーまんじゅう』。首里から来ましたってわかるからこれがいい。月に2回は買っている」とのことだった。
「ぎぼまんじゅう」は、客が200人を超える日もある。1000個つくっても午前中に売り切れてしまうことが多い。欲しい人は早い時間に行くことをお勧めする。
左中/写真14 のーまんじゅう。2022年3月。島村恭則撮影。
右中/写真15 改築前の盛光寺。境内に「ぎぼまんじゅう」の店舗があった。1990年12月。島村恭則撮影。
右/写真16 現在の盛光寺(首里儀保町)。駐車場の一角にかつて「ぎぼまんじゅう」があった。2022年3月。島村恭則撮影。
謝辞
首里十二カ所巡りについては、盛光寺の上江洲瑞雲住職から多大なご教示をいただいた(2022年3月)。また、32年前のことになるが、万松院の松久宗清住職からもご教示を賜った(1990年12月)。同時期には、他にも各寺院の関係者の方々にお話を聞かせていただいている。ここに記してお礼申し上げます。
●次回の更新は10/30を予定しています。
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【参考文献】
首里十二カ所巡りについては、以下の先行研究がある。
稲福みき子 1995 「『首里十二カ所巡り』にみられる宗教の重層構造――寺院の組織化と民間宗教」『復帰20年・沖縄の政治・社会変動と文化変容』(平成4・5・6年度文部省科学研究費補助金〔一般研究A〕研究成果報告書)、比屋根照夫編、琉球大学教養部
稲福みき子 1997 「沖縄の仏教受容とシャーマン的職能者――『首里十二カ所巡り』の習俗をめぐって」『宗教研究』312
浜崎盛康・安次嶺勲 2009 「ユタと首里十二支寺」『琉球大学法文学部紀要 人間科学』24
島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。