戦前の小禄
沖縄の玄関口、那覇空港の歴史は1933(昭和8)年につくられた小禄海軍飛行場にまでさかのぼる。飛行場名にある小禄(うるく/おろく)は、現在では那覇市の一部となっているが、1954(昭和29)年以前は島尻郡小禄村(しまじりぐん おろくそん)、1908(明治41)年以前は小禄間切(おろくまぎり)という行政区画に相当する地域であった。
村よりも下位の行政区画を字(あざ)というが、1908年に小禄村が設置された時点では、小禄、安次嶺(あしんみ/あしみね)、鏡水(かがんじ/かがみず)、当間(とうま)、高宮城(たかみやぐしく/たかみやぎ)、具志(ぐし)、宇栄原(うえばる)、大嶺(うふんみ/おおみね)の8つの字があった(現在の小禄には12の字がある)。このうち、たとえば大嶺は半農半漁の村で、「夏などは午前十時頃になると暑くて畑仕事が出来なくなるのでみな海に出かけ」た。そして夕方になるともどってきて、とった魚を町まで売りに行った(沖縄風土記刊行会編著『沖縄風土記全集──那覇の今昔』沖縄図書教材、1969年、415頁)。また、それ以外の字は純農村で、ネギ、大根、サトウキビなどを栽培していた。たとえば鏡水は、「大根といえば鏡水、鏡水といえば大根と思い出す程に大根で有名」で、住民は収穫した大根を那覇の町へ運んで売っていた。典型的な都市近郊農村の姿である。
津真田原への人口集中
沖縄戦当時、小禄は那覇とともに空襲の標的となった。1944年10月10日の大空襲では甚大な被害を受けた。1945年6月、米軍が小禄に上陸してくると、住民は沖縄本島北部の収容所へ移動させられた。そして小禄村の全域が米軍によって接収された。
1947(昭和22)年、小禄村の中で、小禄、田原(たばる)、宇栄原、高良(たから)の各字に限って接収が解除された。それとともに、それ以外の字も含む小禄村の住民が収容所から解放され、村に戻ってきた。しかし、土地がもどってきた4つの字以外に住んでいた人びとには帰る場所がない。このため、小禄村は、高良と宇栄原のそれぞれ一部からなる津真田原(つまだばる。現在の高良1丁目)という場所を指定して、この人びとの居住地とした。そのため、一帯には大量の人口が流入し、たくさんのバラック住宅が建てられた。高良市場と呼ばれた市場、商店街、映画館、診療所、小中学校、郵便局もつくられ、小禄村役場もここに移転してきた。1954(昭和29)年当時の津真田原の人口は1万人を超えていたと推定されている(三嶋啓二「那覇市小禄(五月橋・津真田)」『沖縄の戦後を歩く そして、地域の未来を考える』NPO法人 沖縄ある記編、沖縄しまたて協会、2020年、59頁)。
右/写真5 「高良市場前」バス停。市場は現存しないが、バス停の名称として残っている。2022年3月。島村恭則撮影。
この時期の小禄村住民の間では、隣接する米軍施設から排出される廃棄物の再利用が日々の暮らしを立てる上での重要な位置を占めていた。たとえば、廃棄された飛行機や自動車からは、「大小の車輪を外して荷馬車をつくる」「燃料タンクを包んだ厚いゴムを切り取ってゴムゾーリをつくる」「回収したジュラルミンを溶かし、鋳型に流し込んで鍋を作って売ったり、マグネットランプを作って食糧品と交換したりする」「真空管を取り出してラジオを組み立てる」といったことが行なわれた。また、容器に傷がついただけで捨てられた缶詰や、木材などの廃材を拾ってくるといったことも行なわれていた。他にも、「廃棄されたコカコーラの瓶をロープでまきつけて過熱し、半分に切ってコップをつくる」といったものもあった。
また、「軍作業」といって、米軍関係の仕事にありつける場合もあった。ドライバー、ハウスボーイ、ハウスメイド、ランドリー(洗濯業)、炊事班(軍人の食事をつくる)などであった。このうち、炊事班として勤めた場合は、使われずに残った食糧品や残飯を持ち帰ることができた。残飯は養豚の飼料に用いた(小禄村史編纂委員会編『小禄村誌』小禄村誌発刊委員会、1992年、44-46、106頁)。
新町社交街の誕生
1950年代の小禄に関して、もう一つ特筆すべきは、新町社交街の誕生についてである。その経緯はつぎのようなものだ。
昭和25年2月には、これまで禁止されていた軍施設一哩(マイル――引用者注)以内地域における村落形成や家屋新築などの建築制限令も緩和され、あるいは商企業活動も活発化しはじめた頃、津真田原に米兵が頻繁に出入りするようになった。そして米兵を相手とする女性がたむろしはじめ、果ては米兵による婦女暴行事件や民家への不法侵入などの犯罪が多発しはじめたのである。
従って風紀面といい、社会秩序や治安対策上も大きな問題となり、子供たちの教育上も好ましくない事態となったため、その解決策として、米軍基地を抱える他の町村に習って、小禄村でも「新町(正しくは新辻町)」を建設し、犯罪の多発を防止しようじゃないか……との話し合いが、有志間で持ち上がった。
時に、米兵を相手とする遊興街(基地の町)が、ホワイト・ビーチ近くの勝連村「松島」と宜野湾の「真栄原」に出来ていたので、小禄村でもこうした特殊地帯を設けるべく請負業者を募り、道路をつくるために小禄村から補助金も交付されたのである。(中略)こうして、現在地・宇栄原在の「新町」は昭和26年11月に完成し、これによって米兵はもとより一般住民も頻繁に出入りするようになり、飲食店をはじめ遊技場も出来て活気を呈したのである。(前掲『小禄村誌』57-58頁、一部、不適切な表現を改めたところがある)
新町社交街は、現在、往時の賑わいは消えているが、それでも数軒のスナックが営業を続けている。
「新部落」の建設
人口が密集した津真田原には、戦前からの住民も暮らしていた。彼らにとっては、同じ小禄村の住民とはいえ、他の字の者が自分たちの集落に入り込んで次々と住みつくことは迷惑な話だった。新住民の人口流入は、法的には「割当(わりあて)土地制度」(旧住地への帰還がかなわない住民に行政が無償で土地を割り当て、その使用権を認める制度)によるもので、合法的な居住であったが、旧住民としてはおもしろくない。新旧住民の間にトラブルも発生するようになった。
こうした状況を打開すべく、新住民たちは、自分たちだけの新たな居住地をつくることを考えた。1953(昭和28)年に「新部落建設期成会」が結成され、新天地建設事業がはじまった。米軍の接収から開放された山岳地の土地3万5000坪を住民の自己資金で地主から買収して入手し、米軍から演習名目でブルドーザーと兵士を提供してもらって宅地造成工事を行なった。新部落への居住は字単位で行なうこととし、どの字にどの場所を割り当てるか、また字の中で個人にどの宅地を割り当てるかは、くじ引きで決定した。こうして1958(昭和33)年、完成した新部落に鏡水、大嶺、安次嶺、当間、金城の5字の住民、約500世帯が入居した(前掲『小禄村誌』59-68頁、『沖縄の戦後を歩く そして、地域の未来を考える』59頁)。
この場合、興味深いのは、字ごとに公民館が設けられ、また戦前の各字にあった御嶽(うたき)などの聖地を復活させている点である。すなわち、新部落において、戦前の字のコミュニティが再生したのである(小野尋子・清水肇・池田孝之・長嶺創正「戦後の沖縄集落の住民によって継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究──沖縄県那覇市旧小禄村地区の被接収集落の変遷および再建過程を事例として」『日本建築学会計画系論文集』第618号、2007年、49-56頁)。
中/写真10 「新部落」。那覇市歴史博物館提供
右/写真11 「新部落」。字鏡水付近。2022年3月。島村恭則撮影。
米軍跡地の再開発
1965(昭和40)年以降、それまで米軍の「那覇空軍・海軍補助施設」として、将校・下士官・軍属用の住宅地やゴルフ場などがあった土地の返還が段階的に開始された。とくに、1980年代に入って返還が加速化し、1986(昭和61)年に全域(378万7000㎡)の返還が完了した(沖縄県「跡地利用の事例」
https://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/tochitai/atochi/
atochijirei/documents/14nahakugunkaigunhojoshisetu.pdf 2022年6月19日閲覧)。
返還された土地について、那覇市では「小禄金城地区土地区画整理事業」を実施した。その結果、公営住宅団地や郊外型ショッピングセンター、戸建て住宅地からなる新たな街が形成された。
那覇空港から乗ったモノレールが最初に停まる「赤嶺(あかみね)」駅から二番目の「小禄」駅までの車窓に見える住宅地が、その新しい街である。
右/写真17 小禄金城地区土地区画整理事業完了後の様子。沖縄都市モノレール小禄駅。2022年3月。島村恭則撮影。
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【参考文献】
沖縄風土記刊行会編著『沖縄風土記全集──那覇の今昔』沖縄図書教材、1969年
小野尋子・清水肇・池田孝之・長嶺創正「戦後の沖縄集落の住民によって継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究──沖縄県那覇市旧小禄村地区の被接収集落の変遷および再建過程を事例として」『日本建築学会計画系論文集』第618号、2007年、49-56頁
小禄村史編纂委員会編『小禄村誌』小禄村誌発刊委員会、1992年
三嶋啓二「那覇市小禄(五月橋・津真田)」『沖縄の戦後を歩く そして、地域の未来を考える』NPO法人 沖縄ある記編、沖縄しまたて協会、2020年
島村恭則(しまむら・たかのり)
1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。