真和志の大原
前回(第9回 真和志の迷宮)の記事で、戦後、那覇と首里の中間地帯である真和志に大量の人口流入があり、新たな集落がつくられたという話をした。その中の一つが「大原」(現在の那覇市寄宮3丁目付近)で、ここには陸運関係の仕事をする人びとが集まっていたことを紹介したが、この記事を書いた直後に大原を訪ね、住民の中田憲彦さんから興味深い話を聞いた。今回は、これを取り上げる。
中田さんは、1944(昭和19)年に沖縄本島北部、本部町備瀬で生まれた。中田家は代々、備瀬で暮らしてきた。父の中田和夫氏(1922〔大正11〕年生まれ)は、戦時中、パラオにあった南洋庁でドライバーをしていたが、終戦で引き揚げ。1946(昭和21)年、沖縄民政府(米軍統治下の行政機構)が米軍の指示で自動車の運転や整備の技術を持つ者を集めた際、これに応じた。このとき集められたドライバーや技術者たちのためにつくられた集落が大原であり、憲彦さんたち家族も備瀬からここへやってきた。
モータープールとGMCトラック
当時の大原は湿地帯で、ここに米軍から支給された野戦用テントで応急住宅がつくられ、120世帯が入居した。男たちは、毎日、トラックの荷台に乗って約10キロ離れた馬天(現在の南城市津波古)の米軍施設内にあったモータープールへ通勤した。馬天は、中城湾に面した小さな港町で、戦前には日本軍の軍港が設けられていたが、戦後は、米軍が地区の背後の丘陵地に基地を設営した。モータープールというのは、この基地内にあった「自動車集積所」のことである。
大原の男たちは、ここに駐車された「GMCトラック」と呼ばれる頑丈な軍用トラック(GMCは、アメリカの自動車メーカーの名称)を運転して、沖縄本島各地の基地や民間人収容所(当時、沖縄の住民はここに収容されていた)、港湾などを結んで人や物資を運んだ。また、トラックの整備士として働く者もいた。
1947(昭和22)年、沖縄民政府は、戦後復興の中で交通機関を整備すべく、「公営バス」を設立した。車両は、米軍から借りた20台のGMCトラックで、荷台を改造して側壁を設け、後部に乗降用ステップを付けたものだった。運転するのは、大原の男たちで、路線は、首里や中部の石川を通り、北部の名護まで通じていた。
右/写真2 GMCトラックを改造した沖縄の路線バス。1950年代。小野田正欣氏撮影、那覇市歴史博物館提供
沖縄バス
1950(昭和25)年、米国政府の資金援助で日本製のバスが輸入されることになり、これが契機となって、バス事業の民間移管が決定した。このとき、「公営バス」の従業員たちによって創立されたバス会社が「沖縄バス株式会社」である。
「沖縄バス」の創業時の車両は、GMCトラック12台と、輸入した「いすゞ」製バス3台だった。那覇市内に本社を、名護をはじめ各地に営業所を設置して沖縄本島全域に路線を設けた。従業員の大半が会社の株を所有し、わが社の繁栄のためにがむしゃらに働いた。運転士の中には、一日で那覇と名護(なご)のあいだ約70キロを2往復した上に、那覇と糸満(いとまん)のあいだ約12キロの1往復をこなす猛者もいた。
右/写真5 沖縄バス創業当時の運転士・車掌たち。1950年。中田憲彦氏提供
沖縄バスの社史には、創業当時の様子が次のように描かれている。
当時は、軍作業(米軍基地でのいろいろな労働――引用者注)華やかなりし頃で、沖縄経済は、ほとんど米軍基地に依存していた。軍雇傭員は5万余を超す程の盛況で、バスにとっては上得意であった。各基地に通う朝夕の通勤時は、物凄いばかりの乗客でバスは常に超満員となり、定員オーバーで警察官のお叱りを受けることもシバシバであった。そのために100人余を一時に運ぶことの出来る日野トレーラーバスも購入するほどであった。
さらに、地方と那覇市との客の往来が激しく、牧志にあった那覇出張所にバスが着くと、地方への客で5分と待たずに満員になり、運転手は、スシ詰めの車内に入ることも出来ず、止むなく運転台の窓から乗り込む光景も見られた。
女子車掌は、当時若い女性の憧れの的となって希望者が多く、選考するのに一苦労であった。真新しい制服制帽に身を包みテキパキと客に応対する姿は、新生沖縄の姿でもあった。(沖縄バス株式会社30周年記念誌編集委員会編『沖縄バス株式会社30周年記念誌』沖縄バス株式会社、1981年、8頁)
会社創立10年後には、バスの台数が123台まで増えた。1950年に貸し切りバスの認可を得て、翌年からは南部や中部での観光バス事業をスタートさせた。1972(昭和47)年の本土復帰後、沖縄国際海洋博覧会(1975〔昭和50〕年)の影響もあって観光需要が増大し、観光バス事業は拡大の一途をたどった。2020(令和2)年には創業70年を迎え、現在、沖縄を代表するバス会社の一つとして揺るぎない地位を築いている。
憲彦さんの父の和夫氏は、公営バスを経て、創業当初から沖縄バスの経営に携わっていた。「事務運行管理那覇所長」などを経て、常務取締役になった。創業時の社長、中山良輔氏の家も大原にあり、中田家とは家族ぐるみの付き合いであった。
郷友会
ところで、和夫氏には、もう一つの顔があった。故郷、備瀬から那覇にやってきた人たちのまとめ役としての顔である。戦後の那覇には、沖縄各地の村から一旗揚げようと大勢の人たちがやってきた。彼らは、それぞれの出身地ごとに「郷友会」という組織を作って助け合った。新年会や運動会などの行事などもさかんに行なわれた。和夫氏は、備瀬を含めた「上本部村」出身の那覇在住者たちの集まり、「那覇在住上本部村郷友会」で熱心に活動し、会長も歴任した。社会的成功者、かつ同郷の人たちをまとめるリーダーとして篤い信頼を得てきたのである。
大原集落の形成から今年で76年。住民の世代交代も進んだ。いまでは、和夫氏らモータープール世代の孫、ひ孫の代が地域の主役になっている。
謝辞
大原集落の歴史についてお話を聞かせてくださった中田憲彦氏にお礼を申し上げます。
●次回の更新は5/30を予定しています。
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回はこちら
【参考文献】
沖縄バス株式会社30周年記念誌編集委員会編『沖縄バス株式会社30周年記念誌』沖縄バス株式会社、1981年
砂川敏彦「復興初期に大活躍したGMCトラックとモータープール」『沖縄の戦後を歩く──そして地域の未来を考える』NPO法人 沖縄ある記編、一般社団法人沖縄しまたて協会、2020年、124頁
三嶋啓二「沖縄の戦後を歩く② 『馬天さんばし通り』」『沖縄の戦後を歩く──そして地域の未来を考える』NPO法人 沖縄ある記編、一般社団法人沖縄しまたて協会、2020年、8-11頁
島村恭則(しまむら・たかのり) 1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。