大湿地帯に棲む怪物
戦前の那覇の商業中心地は、久茂地川の西側(海寄り)、東町、西町、西新町一帯であった。一方、戦後は、久茂地川の東側、「国際通り」とそれに隣接する「市場本通り」「市場中央通り」「むつみ橋通り」「平和通り」「えびす通り」「太平通り」「牧志公設市場」「第一牧志公設市場」などの一連のエリアが商業の中心地となった。
戦後に形成されたこれらの地域は、戦前には那覇の街の外側に位置し、原野や湿地帯であった。
終戦直後の那覇で少年時代を送った山口栄鉄(のちに渡米してイェール大学教授)は、この地域について次のように描写する。
経済活動の発展をうながす立地条件、特定の地勢というのが仮にあるとすれば、戦後那覇の市場経済の中心となる「まちぐわあ」(市場やそれに類する商店街のこと。マチグヮー――引用者注)の地勢、地理は、その最悪の条件下にあったとしても決して過言ではない。今でもあの界隈を散策するだけですぐ分かることだが、平和通りを中心に、四方にのびる那覇経済の中心地はその昔、いや終戦直後まで旧那覇市郊外の一大盆地であり、一大湿地帯である。那覇の地勢に詳しくない方には、今の国際通りのほぼ中心を占める位置にある三越デパート(2014年に閉店──引用者注)の前に立って、ただ前方に伸びる那覇の庶民の一大商業活動の中心地である平和通りの入り口に目をやるだけで、すぐそのことが分かるだろう。そこがぽっかりと大きく口を開いたまま、ふところ具合のいい獲物なら、ことごとく吸い込んでしまう、大湿地帯に棲む怪物の薄暗い喉元になっていて、その先がどうなっているのか皆目分からないことに気づくことだろう(山口栄鉄『琉球弧からの飛翔――沖縄戦・疎開・米留・沖縄学』榕樹書林、2001年)。
闇市から公設市場へ
第二次世界大戦末期、沖縄本島に上陸した米軍は、那覇の街を接収し、全住民を収容所に移動させた上で全域を立ち入り禁止とした。その後、1945(昭和20)年11月に壺屋地区への陶工や関係者の入境が認められ、それに続いて牧志、開南といった地区への移動が許可されていった。これにより大量の人口流入が起こり、それとともに壺屋、開南などに闇市が自然発生した(第7回「開南バス停ものがたり」参照)。
1948(昭和23)年、那覇市は、道路、公有地、私有地を占拠していたこれらの闇市を整理することを計画し、のちに「牧志公設市場雑貨部」「牧志公設市場衣料部」「第一牧志公設市場」と呼ばれることになる場所に闇市の商売人を移動させた。そして、1951(昭和26)年に木造の長屋を4棟建て、精肉と鮮魚を扱う市場を「那覇市公設市場(西市場)」、雑貨と衣料品を扱う市場を「那覇市公設市場(東市場)」とした。
1969(昭和44)年に、市場の需要増に対応してもう一つの公設市場が設けられ(「第二牧志公設市場」。従来の公設市場からやや離れた場所に立地し、2001〔平成13〕年まで営業)、これを機に、西市場は「第一牧志公設市場」、東市場は「牧志公設市場雑貨部」「牧志公設市場衣料部」と呼ばれるようになった。そして、1972(昭和47)年には「第一牧志公設市場」が、1982(昭和57)年には「牧志公設市場雑貨部」「牧志公設市場衣料部」が、それぞれ鉄筋コンクリート造りに建て替えられた。
なお、「第一牧志公設市場」は建物老朽化のため、現在、建て替え工事が進行中である。工事期間中の営業は、かつて第二牧志公設市場があった場所に設けられた仮店舗で行なわれている。建て替え工事の完成は2023年の予定だ。
一方、「牧志公設市場雑貨部」「牧志公設市場衣料部」は、2022年2月末をもって閉場した。
水上店舗
公設市場の歴史とは別に、公設市場誕生の頃、ここに入れなかった商人や、新たに商売を始めた者は、付近の路上で露店を開いた。そしてこれらがもとになり、現在の平和通り商店街や新天地市場などが形成されていった。
また、商売人の中には、公設市場のすぐ横を流れるガーブ川(ガーブは湿地帯の意)の橋の上で露店を開く者や、川の中に杭を打ち、その上にバラックを建てて店を開く者も現れた。1950年代のことである。その後、川に打ち込まれた多数の杭が、台風で大水が出たときの流れを妨げ、これが原因で付近一帯が浸水するという問題が多発したため、対策が求められるようになった。そこで、那覇市は水上バラックを撤去した上で、ガーブ川を暗渠化し、その上に新たに鉄筋コンクリートづくりの建物(「水上店舗」と呼ぶ)を建設し、ここにバラックの商売人を入居させることとした。
中/写真3 ガーブ川の水上バラック。小野田正欣氏撮影、那覇市歴史博物館提供
右/写真4 ガーブ川の水上バラック。那覇市歴史博物館提供
工事は1965(昭和40)年に完成し、暗渠上の水上店舗の両サイドの通りをそれぞれ商店街とした(後にアーケード化)。写真6を見てほしい。①と②はそれぞれアーケード商店街(屋根が写っている)で、①と②の間にあるのが水上店舗。①は「市場本通り」で、①の左側が水上店舗の店。右側は地上の店である。同じく、②は「むつみ橋通り」で、②の右側が水上店舗の店、左側は地上の店である。
右/写真6 水上店舗とアーケード商店街。手前(写真下部)を横切る道路は国際通り。2007年。島村恭則撮影
こうした水上店舗は、実は那覇以外にもあった。2020(令和2)年まで北海道小樽市にあった「妙見市場(みょうけんいちば)」がその一つ。ここは、戦後に発生した市内の闇市を撤去して商売人たちを移転させるために市が用意した市場で、妙見川を暗渠化した上に建てられていた。あるいは、岩手県釜石市には、2003(平成15)年まで「橋上市場(きょうじょういちば)」があった。これも戦後闇市の撤去・回収のために市が設けた市場で、1958(昭和33)年に甲子川(かっしがわ)に架かる橋の上に建物をつくって営業を開始した。さらに、福岡県北九州市の「旦過市場(たんがいちば)」も、神嶽川(かんたけがわ)の中に杭を打ってその上に建物の一部分が建てられている。こちらはすでに戦前から水上へのせり出しが始まっていたようである。
中/写真8 釜石市の橋上市場。1992年。「駅前橋上市場サン・フィッシュ釜石」( Wikipedia)投稿者提供写真より転載、CC BY-SA4.0、https://ja.wikipedia.org/?curid=2811005
右/写真9 北九州市の水上店舗(旦過市場)。2008年。島村恭則撮影
国際通り
国際通りのルーツは、1934年につくられた「新県道」である。当時の那覇と首里の間を最短距離で結ぶための新しい県道として敷設された。完成当時の道路周辺は、人家はまばらで墓地が点在するような寂しい場所だったが、終戦から3年後の1948年、この道路に面して映画館が建てられた。館名は、アメリカの著名な従軍記者で、沖縄戦の戦禍で亡くなったアーニー・パイル氏の名に因んだ「アーニー・パイル国際劇場」。この人名と「国際」の語を入れることで、占領軍から劇場開設の許可を得やすくなるのではないかというのが命名の由来だった。
映画館が開設されると、周囲に商店が出現するようになった。そして、1954(昭和29)年の道路拡幅後は、「デパートリウボウ」「山形屋」「大越百貨店(のちに沖縄三越と改名)」といった沖縄を代表する百貨店もこの通りに店を構えるようになり、沖縄随一の目抜き通りとして成長した。「国際通り」の名称は、通りの発展の出発点となった「アーニー・パイル国際劇場」の「国際」からとられている。
国際通りを散策するときには、ぜひ通りの裏側も歩いてほしい。沖縄式の墓地を見つけることができるだろう。これは、このあたりが戦前の那覇の外れで、墓地が散在する原野、湿地帯であったことの名残なのである。
中/写真11 拡幅(1954年)以前の国際通り。那覇歴史博物館提供
右/写真12 国際通り裏の古墓。2007年。島村恭則撮影
(次回更新は3月30日を予定しています)
第1回、第2回、第3回、第4回、第5回、第6回、第7回はこちら
【参考文献】
大濱 聡『沖縄・国際通り物語──「奇跡」と呼ばれた一マイル』ゆい出版、1998年
比嘉朝進『戦後の沖縄世相史──記事と年表でつづる世相・生活誌』暁書房、2000年
山口栄鉄『琉球弧からの飛翔──沖縄戦・疎開・米留・沖縄学』榕樹書林、2001年
地域情報誌『み~きゅるきゅる』Vol. 4、特集「むつみ橋」、特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく、2006年。
地域情報誌『み~きゅるきゅる』Vol. 6、特集「牧志公設市場衣料部・雑貨部」、特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく、2010年。
地域情報誌『み~きゅるきゅる』Vol. 7、特集「第一牧志公設市場」、特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく、2011年。
地域情報誌『み~きゅるきゅる』Vol. 8、特集「マチグヮーのアーケード」、特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく、2020年。
島村恭則(しまむら・たかのり) 1967年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得退学。博士(文学)。現在、関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授、世界民俗学研究センター長。専門は、現代民俗学、民俗学理論。著書に『みんなの民俗学』(平凡社)、『民俗学を生きる』(晃洋書房)、『〈生きる方法〉の民俗誌』(関西学院大学出版会)、『日本より怖い韓国の怪談』(河出書房新社)、『文化人類学と現代民俗学』(共著、風響社)、編著に『引揚者の戦後』(新曜社)、『民俗学読本』(共編著、晃洋書房)などがある。