第6回 ラズウェル細木の酔いどれ自伝
    ──夕暮れて酒とマンガと人生と

カルチャー|2021.10.25
ラズウェル細木×パリッコ×スズキナオ

『酒のほそ道』をはじめとして、四半世紀以上にわたり、酒やつまみ、酒場にまつわる森羅万象を漫画に描き続けてきたラズウェル細木。 そのラズウェル細木に公私ともに親炙し、「酒の穴」という飲酒ユニットとしても活動するパリッコとスズキナオの二人が、ラズウェル細木の人生に分け入る──。 第6回は、漫画アシスタントのバイトなど、充実した学生生活を送るラズ先生に、就職試験という関門が立ちふさがります。

第1回/第2回/第3回/第4回第5回

プロのアシスタント現場の壮絶さ

ラズウェル細木(以下、ラズ):漫画に関して言えば、学生のころからプロの漫画家のアシスタントもやりはじめたんですね。一度はアシスタントをやってみたいと昔から思っていて。

スズキナオ(以下、ナオ):すごく勉強になりそうですもんね。

ラズ:最初に行ったのが、当時漫研に在籍しながらも漫画を描いていた関野ひかるさんという先生。関野さんは学生でありながら『漫画サンデー』で連載を持ってたんです。その関野さんの住居兼仕事場が下井草にあって、呼ばれて行ってみると、まぁ、学生が住むオンボロのアパートなんだけど、やっぱり作業をしてるところを見るとむちゃくちゃ興奮するわけですよ。「漫画の作業だ!」って。そこでペンを使って背景を描く基礎的な部分を教えてもらったりしてね。線には強弱をつけるとかね。

パリッコ(以下、パリ):初めて目にするプロの現場だ。

ナオ:漫研にいたら漫画家さんのアシスタントをするっていうのは自然と入ってくる話なんですか?

ラズ:そうですね。関心があったらちょっとやってみない? って。ただね、締め切りが迫った漫画の作業って、すごく時間に追われながら必死でやらなくてはいけないということも、その現場で目の当たりにして、「こりゃ大変な仕事だぞ」と思いましたね。どうしても睡眠時間を削って、仮眠をとりながらやるみたいな感じになっちゃう。

ナオ:プロの漫画家さんというと、そういうイメージです。

ラズ:もちろん「好きな漫画の世界に関われて、お金までもらえて、いいな、これは!」とも思いましたけどね。その後、関野先生の知り合いの漫画家で、前田俊夫先生のところにも行くようになったんです。後に『うろつき童子』という作品を大ヒットさせた先生。僕が行っていたころは『エロトピア』という大人の雑誌に長く連載をしてまして、西川口に仕事場があった。そこへ行ってみるとね、さっきの関野さんの締め切り前なんてもんじゃなく、さらにむちゃくちゃきついんですよ。

ナオ:とんでもない忙しさ。

ラズ:そうなんです。本当に、一度呼ばれて行くと数日は家に帰れなくて、たまに机と机の間にバタンと倒れて1~2時間だけ寝る、みたいなね。その前田先生の画風がね、背景もすべて集中線なんかでびっしり埋めるスタイルなので、それが自然に身についちゃったんですよね。だから、僕の最初のころの漫画って、むっっっちゃくどい絵を描いてた!(笑)

パリ:そんな影響が(笑)。

ナオ:前田先生から引き継いだんですね。

ラズ:そうそう。前田先生はジャンルでいうと劇画で、しかも、エロと暴力を全面に出した作品で(笑) 。とにかく、そうやって漫画家という仕事の大変さを知りましてね、「漫画家になりたい!」という気持ちが、急速に削がれていったんです。

パリ:わはは!

ナオ:削がれていったんですか(笑)。でもたとえば、大変なぶん豪華な生活をされていて、それにあこがれるとかはなかったですか。

ラズ:確かにギャラはいいんですよ。特に前田先生は大阪出身で、食い道楽な面もあったので、仕事が終わると仕事場の近くのちゃんとした寿司屋に連れていってもらえる。それが僕の、高級カウンター寿司屋デビューでしたね。その時に連れてってもらったお店は、後々まで一人でも通うことになったくらいいい店だった。今は大将がお亡くなりになっちゃって、お店はたたんでしまったんですけどね。だから、前田先生の食い道楽の影響というのは大きかったかもしれません。僕が漫画とグルメを教わった先生というか。

ナオ:ラズ先生のグルメ漫画路線にもつながっていく経験だったという。

ラズ:でも、アシスタントがとにかく辛すぎて、そのあとから今に至るまで、「漫画家になりたい」と思ったことは一回もないんですよ。

パリ:えっ、それがどうして!?

ラズ:気がついたらなってた(笑)。前田先生のところにいちばんよく通っていたのは大学4年のころだったんです。つまり、「さあ卒業した後はどうしよう?」という時期ですよね。漫画家は目指さないにしても、漫画は好きだし、関わりのある仕事をしたいから「じゃあ出版社だな!」と考えて、4社くらいは受けましたかね。

パリ:つまり編集者になろうと。

ラズ:うん。どこを受けたんだっけな? 記憶にあるのは集英社。確か筆記試験は通って、一次面接までは行ったんだけど、受からなかった。面接で「支持政党はあるの?」「いえ、特にないです」「じゃあ、何を基準に投票するの?」「ま~、顔ですかね~」なんて答えて、面接官を「顔!?」って驚かせちゃったり。向こうも見る目がありますよ(笑)。今考えると僕はぜんぜん編集者に向いてないので、けっきょくどこにも受からなくてよかったなと。

パリ:確かに、ラズ先生が編集者というのは想像できないですね(笑)。

ラズ:でしょ? あとね、文藝春秋も受けたんですよ。当時の文藝春秋の社長と父親の仕事関係者が知り合いだったかで、両親には「コネがあるから絶対入れる!」とか言われてた。けど筆記で落ちた(笑)。

ナオ:話が違う(笑) 。

ラズ:はは。期待してただけに、うちの家族は本当にがっかりしていましたね。その後漫画家になって「文春漫画賞」にノミネートされたことがあったんです。その時、一応電話待ちをしていたけど落選したことがわかって、両親に「お前は本当に文春とは縁がないねぇ」って(笑)。だからこの間、雑誌の『文藝春秋』に、パリちゃん(パリッコ)とチェアリングをした記事が載ったでしょ? あれを見たうちの妹から、「ついにあの時落とされた仇を討った!」という連絡がきて(笑)。

パリ:何十年越しの(笑)。

ナオ:それは……仇討ちになってるんですかね(笑)。

ラズ:まぁそんなこんなで結局、就職活動には失敗したんです。当時はね、どうしても出版社に行きたい人は、みんな留年するんですよ。卒業しちゃうと採用してもらいづらくなるから。で、父親に「お前はどうするんだ?」って聞かれて、「じゃあもう一回受けたいから留年かな~」って言ったら「留年? ダメに決まってるだろ、そんなこと!」って激怒されてね。うちの父は高校を中退していて、サラリーマンをしながらも学歴コンプレックスがすごくあって、とにかく息子には大学を卒業させたいという気持ちがあったらしい。だから「できるんだったらとにかく卒業しろ!」 と。

パリ:そりゃあもっともでもありますよね。

卒業後、いきなりフリーのイラストレーターに

ラズ:で、「あ~そうか~、じゃあどうしよう?」と思って、ちょうどそのころ、同じように就職に失敗した友達が何人かいたんですよ。で、「みんなでイラストの事務所をつくったら、チームでも個人でも仕事ができるし依頼も来やすいんじゃないか」と思いつきまして、そういう集団をつくったんです。

ナオ:おお、それができる行動力がすごい!

ラズ:高田馬場にマンションを借りて、そこを事務所兼共同の仕事場にして、家賃は分割で払う。メンバーはいちばん多い時で7、8人いたかな? つまり、卒業と同時にフリーのイラストレーターになったというわけです。

パリ:いきなりフリーランス! だけど、仕事ってそう簡単にくるものですか?

ラズ:なんとかね。学生のころからしていたイラスト関係のバイトを引き続き受けたりとか。景気がいい時代だったので、仕事を選ばなければ単行本の挿絵カットの仕事とかがいくらでもあったんですよ。それでなんとなく食えちゃう。だから、卒業していきなりイラストレーターとして暮らせて。まぁ、やっぱりいい時代だったんでしょうねぇ。

パリ:夢がありますね~。

ラズ:ただ、今思うとね、当時の自分が描いていたのはヘッポコな絵なんだ。イラストレーターと言うのもおこがましいくらい。その後、メンバーを5人くらいで再編した新たなグループをつくって、今度は早稲田に事務所を移したんですが、だんだん経験を積んでイラストもちょっとはマシになって、たまに名のある雑誌からも仕事がくるようになったんです。それと並行して相変わらず似顔絵のバイトなんかの依頼もきたし、漫画のアシスタントもやってた。同じ漫研の国友やすゆき先輩のところに行ってましたね。だから、ひとまず絵に関わることだけでなんとかやっていけてたんですよね。いろいろなことをしながらも、とにかく30歳くらいまではイラストレーターだったんです。

パリ:お仕事をしている時代は、学生時代とは飲みかたが変わったりしたんでしょうか。

ラズ:まあ、学生のころよりは、それなりの飲みかたはできてたかな。その後、チェーン店全盛の時代になっていくじゃないですか。「村さ来」とか「北の家族」とか「つぼ八」とか。だけど、個人居酒屋で育ったせいか、チェーン店はあまり好きになれなかったですね。

ナオ:街を見ているとそういう店が増えていくっていう感じの時代だったんですね。

パリ:僕とかナオさんなんかその全盛の時代ですもんね。

ナオ:大学生時代に飲みに行くっていったらまずチェーン店でした。

パリ:そこから逆に個人店の良さに気づいていくっていう。

ナオ:そうそう。だから順番が違うんですね。

パリ:僕もナオさんもチェーン店はチェーン店で楽しむっていうスタンスだけど、最初の酒との出会いが大きいのかもしれないですね。

ナオ:「軟骨の唐揚げっていいつまみだな!」とか、そういうのをチェーン店で教わってきたというところが私はあります。

ラズ:僕がチェーン店を楽しめるようになったのは、最近ですよ、本当に。でも確かに、定番やスタンダードみたいなものは身につけやすいですよね。そういう意味ではチェーン店は、お酒の道への入門としてはいい。

ナオ:もちろんその一方で、2階で寝ていい店とか、そういうのにあこがれますけどね。

ラズ:(笑) あれが許されていたのも、あの時代ならではだったんだろうなと思うけどね。あとね、我々の時代の特徴として、ウイスキーの店に行くことが多かった。

パリ:トリスバーとか、そういうようなものですか?

ラズ:サントリーのやってる大きめのパブのような、行くともうウイスキーしか飲まないみたいな。みんなでボトルを取ってウイスキーを飲むみたいな文化。僕が学生のころがウイスキー文化の最後のほうですよね。今思うと不思議な時代で、寿司屋でもどこでもウイスキーを飲んでいた。その終わりくらいだったと思うんですよね。でもボトルって高いのに、大勢で飲むからすぐなくなって、よく会計でびっくりしてた。だいぶサントリーを儲けさせましたよね(笑)。

パリ:時代ごとに、お酒の流行の変遷ってありますもんね。

ラズ:チューハイが出だしてきたのが、僕らが学生のころくらいじゃなかったかな。「新宿に焼酎ハイボールっていうのがあるらしいぞ」って聞こえてきたぐらいでしたから。考えてみると昔は、ビール、ウイスキー、日本酒くらいしか選択肢がなかったんだよね。やっとチューハイがそろそろみたいな感じで。

ナオ:僕やパリッコさんの学生時代だと、お酒をあんまり飲めない人はカルピスサワーを注文してみたいな感じでしたよね。

パリ:カシスウーロンとか。

ナオ:そういう、女性向けのイメージのお酒なんかは全然なかったですか。

ラズ:ないですね。女性がおおっぴらにお酒を飲めないような雰囲気もまだ残っていた。

パリ:ラズ先生が初めてホッピーを飲んだ時のお話も聞いたことがあるんですが、あれはいつぐらいの話ですか?

ラズ:あれは、大学4年生ぐらいの時ですね。あれは漫研じゃない、学部のほうの友達で、新派の脚本家をして今は大劇場でやっている齋藤雅文っていうのがいるんですけど、その周辺に演劇の人たちのグループがあって。今も昔も演劇の人たちって大酒を飲むじゃないですか。彼らがね、早稲田の西門の近くの、じいさんがひとりでやってる、薄暗いカウンターだけの飲み屋によく行っていた。そこに僕も一緒に行って、「ホッピーってのがあるんだ」っていうので注文したんですけど、そのホッピーが“三冷”の真逆! 何ひとつ冷えてないんですよ。“三温”のホッピー(笑)。

パリ:わはは。お腹に優しい。

ラズ:それが生まれて初めて飲んだホッピーで、「う~ん……!」みたいな感じで、もう、まずいとかうまいとかっていうレベルのもんじゃないですよね。そのじいさんがやってるカウンターの店で飲む、独特の飲みものみたいな感じで。

ナオ:異国のお酒を飲んでるかのような。

ラズ:そうそう、それがホッピー初体験で、そのイメージを払拭するのに相当かかりました(笑)。ただ、雰囲気ありましたよ。あのじいさんの店。戦争時代の恨みを言うんですよ、じいさんが。「みんな、国に騙された」みたいな話をね。

(次回掲載は、11月10日です)

ラズウェル細木
1956年、山形県米沢市生まれ。食とジャズをこよなく愛する漫画家。代表作『酒のほそ道』は四半世紀以上続く超長寿作となっている。その他の著書に『パパのココロ』『美味い話にゃ肴あり』『魚心あれば食べ心』『う』など多数。2012年、『酒のほそ道』などにより第16回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。米沢市観光大使。


パリッコ
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家/イラストレーター、DJ/トラックメイカー、他。酒好きが高じ、2000年代後半より、酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『天国酒場』『つつまし酒』『酒場っ子』『ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある』など多数。


スズキナオ
1979年、東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『メシ通』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』『関西酒場のろのろ日記』『酒ともやしと横になる私』など、パリッコとの共著に『酒の穴』『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』『“よむ"お酒』がある

RELATED ARTICLE