第1回 ラズウェル細木の酔いどれ自伝
    ──夕暮れて酒とマンガと人生と

カルチャー|2021.7.27
ラズウェル細木×パリッコ×スズキナオ

『酒のほそ道』をはじめとして、四半世紀以上にわたり、酒やつまみ、酒場にまつわる森羅万象を漫画に描き続けてきたラズウェル細木。 そのラズウェル細木に公私ともに親炙し、「酒の穴」という飲酒ユニットとしても活動するパリッコとスズキナオの二人が、ラズウェル細木の人生に分け入る──。 「ラズ先生のお酒話はどうしてこうも面白いのか⁉」、その神髄を探る!

パリッコとスズキナオ、ラズ師匠に人生を聞く

パリッコ(以下、パリ):光栄なことに、数年前にお酒の縁で知りあわせていただき、以来、何度も一緒に飲みに行かせてもらっているラズ先生ですが、考えてみれば、あまりこちらからあれこれ質問する機会はなかったですよね。いつも目の前にある酒とつまみの話ばかりで。

スズキナオ(以下、ナオ):ですね。今回、いい機会をもらえたということで、これまで聞けなかったこともたくさんお聞きしたいです! というわけで、まずはラズ先生が生まれたところからお願いします。

ラズウェル細木(以下、ラズ):そこからね(笑)。僕は1956年6月29日に山形県米沢市で生まれまして、でも生後3週間目にして京都へ引っ越したんですよね。

パリ:僕もナオさんも子育ての経験はありますが、赤ちゃんがそんなデリケートな時期に引っ越しを!?

ラズ:そうそう。だから母が生まれたての僕を抱いて長距離列車に乗ってたら、車内にいたおばちゃんに「そんな小さな赤ん坊を連れて!」と怒られたと言ってました。

ナオ:(笑)。ちなみにご両親とも山形のご出身なんですか?

ラズ:両親の家は山形なんだけど、うちの父親は東京生まれなんです。おじいさんが東京の会社に勤めていた時に父親が生まれて、東京大空襲があって、みんなで米沢市に引っ越してきたらしいんですよね。それ以来、ずっと米沢市で暮らして、そのまま繊維関係の会社に就職した。米沢は「米沢織」っていう織物が盛んで、その反物を売る会社ですね。そこが京都に拠点を作って関西に販路を広げようとなって、父親がそこへ行くことになった。京都には3歳くらいまでいたので、僕が覚えている最初の記憶は、京都の風景なんですよね。

パリ:すごい! 僕、3歳の頃の記憶なんてほとんどないなぁ。まぁ、そもそもぼーっとしてるので、そのあと大人になるまでのこともあんまり覚えてるわけじゃないんですが(笑)。

ラズ:あのね、子供の頃に何度か引っ越しをしたので、その都度ガラッと空気や風景が変わるわけです。それが、記憶に強く残る理由な気がするんですよね。

パリ:なるほど。僕は生まれてこのかた、練馬区すら出たことないからな〜。京都についてはどんなことを覚えていますか?

ラズ:けっこういろいろと、風景なんか鮮明に覚えてる。京都はあまり町並みが変わらないから、子供の頃と同じだ! みたいな風景がまだ残ってたりするんです。昔住んでいたあたりが懐かしくて、数年前に京都の拠点として、かつての家の近くにマンションを買ってしまったくらいで。

ナオ:最初に見た風景というのがそれだけ思い出深かったわけですね。

パリ:一度、みんなで京都でハシゴ酒をしまくったあと、ナオさんと泊めてもらったことがありましたね。確か京都御所の近くで。

ラズ:そうです。家具屋がたくさんある「夷川通(えびすがわどおり)」っていうのが近くにあって、店に並んでるタンスの間をくるくる走り回って遊んでた記憶もあります。

ナオ:あ、家具屋通り、パリッコさんとも通りましたね! 幼き日のラズ先生がいた場所だったんだ。

3歳で東京・下町に2度目の引っ越し

ラズ:その後、3歳の終わりくらいかな? また転勤で、今度は東京の下町に引っ越すことになった。その時の寝台列車の光景も覚えてますね。東京では、秋葉原から北の方にちょっと行ったあたりに住むことになりました。昔の町名だと、台東区二長町。「鳥越神社」や「おかず横町」も近くてね。そこに住んでいた頃の記憶はもう、すごくたくさんありますわね。幼稚園の年少くらいまではそこに住んでたから。

パリ:4、5歳くらいまで。

ラズ:そうですね。なぎら健壱さんの著書『下町小僧──東京昭和30年』(ちくま文庫)にその頃の下町の様子が描かれていて、僕よりは少し上の世代なんだけど、エリア的にも年代的にも近いから空気感がすごくよくわかる。あの街で今の自分の土台が作られたなっていう気がするんです。近所に幼稚園の一級上の友達がいて、毎日のように遊んでましたね。あと、我が家にテレビがきたのもその頃。「豹(ジャガー)の眼」とか「ナショナルキッド」「お笑い三人組」って番組なんかをよく見てたな。相撲中継を見ていた記憶もある。若乃花とか朝潮が横綱だった時代ですね。大鵬がちょうどペーペーで上がってきた頃で。

ナオ:おお。後に人気者になる大鵬が!

パリ:大鵬のペーペー時代を知ってるのがすごい(笑)。

ラズ:なんとなく大鵬って名前がおもしろくて、僕も応援してましたよ。

パリ:友達とはどんな遊びをされてたんですか?

ラズ:近所に紙芝居屋が毎日来るので、それを見に行ったり。もちろん駄菓子屋にもよく行った。時代的に「渡辺のジュースの素」が売り出された頃で。それを買って粉のまま舐めるのが好きでした(笑)。

ナオ:私が小さい時もそうやって食べていました(笑)。

パリ:紙芝居というのは無料で見られるんですか? 駄菓子を買わなくちゃいけない?

ラズ:買わなくちゃいけないんだけど、ある時から母親に「紙芝居屋のものは買っちゃダメ」と禁止されたんです。不衛生だというのが理由だと思う。引き出しから直接ソース煎餅を出したりとかするからね。

パリ:紙芝居が見られない!

ラズ:でも、遠巻きには眺められる(笑)。それで紙芝居屋が引き上げたあと、みんなが買った煎餅の切れ端が地面に落っこちてるから、それを拾って食べたりして、前よりよっぽど不衛生じゃないかっていう。

ナオ:引き出しの方がまだよかった(笑)。しかし、秋葉原あたりでも当時はそんな雰囲気だったんですね。

ラズ:もともと二長町のあたりは、大昔は芝居小屋があったりしたらしくて、下町然としているところなんですよ。当時、親戚が墨田区の方にありまして、そっちへ行くと、川が汚くて臭かったりしてすぐ帰りたくなるんですよ(笑)。あとになって勉強すると、下町って言えるのは隅田川の西側まで。川を越えるともう下町じゃないということになるらしくて。敏感にそれを感じていたのかな。

ナオ:今は、隅田川を越えた向こうの方にかえって情緒が残っているような気もします。

ラズ:今ではね。でも昔住んでた二長町のあたりは、今も取り残されたような感じで、古い建物が残っていたりするんですよ。

ナオ:二長町でのお住まいは社宅みたいなところだったんですか?

ラズ:いや、2階建ての借家の2階に住んでたんですよね。後で家賃を聞いたらめちゃくちゃ高かったらしくて、高度経済成長期の会社だから払えていたという。だから、当時としては一等地みたいな感じだったんですかね。

「出身地」の山形へ

ラズ:次は4歳か5歳の頃、また山形県の米沢市に引っ越した。

パリ:ラズ先生が出身地と名乗る山形にふたたび。ちなみに、子供の頃に好きだった食べものなんかはありました?

ラズ:それがね! 僕が東京に住んでた時の3大好物が、シュウマイ、ヨーグルト、海苔巻きだった。米沢に引っ越していちばんショックだったのが、そのなかのふたつ、ヨーグルトとシュウマイがないんですよ! 

ナオ:山形にはなかったんですか!

ラズ:少なくとも我が家の近くでは手に入らなかった。海苔巻きは寿司屋に行けばあるけど、とはいえ子供がそんなに食べる機会もないでしょう。だから好きなものが食べられなくて、もう悲しくて悲しくて(笑)。

パリ:じゃあ、引っ越した当初はちょっと嫌だったんですね。

ラズ:周りは聞き慣れない言葉をしゃべっているし、見ず知らずの田舎に連れてこられた感じですよね。

ナオ:都会っ子が急に田舎に引っ越したような。

ラズ:そうそう。東京で通っていたのが教会がやっている幼稚園だったので、毎日礼拝をさせられてたんですよね。それが、米沢に引っ越して行くことになったのがお寺がやっている幼稚園。何かにつけてギャップが大きい! ただ、社長の持ち物なんだけど使っていないという家に住ませてもらうことになったから、めちゃくちゃだだっ広いんですよね。庭も広い。そういう意味ではのびのびとできて良かったんですけどね。

パリ:ちょうど走り回りたい盛りのお年頃ですしね。遊びも変わりそうですね。

ラズ:うん。あとそうだ、これまであまり言ってなかったんだけど僕、子供の頃から鉄道が好きだったんですよ。父親も鉄道好きなので、東京時代はよく、自転車で汽車が見えるところに連れて行ってもらってた。それがなんと山形の家からは、米沢と新潟県を結ぶローカル線を走る列車がものすごくよく見えるんですよ! 周りには田んぼしかないしね。僕はどっちかっていうと貨物列車のファンなんですよね。バリエーションがあっておもしろくて。

パリ:初耳すぎて、ラズ先生から聞くのが新鮮なお話です(笑)。形とかで種類がわかるんですか?

ラズ:わかりますよ。有蓋車、無蓋車、タンク車、石炭車とかいろいろ種類がありまして、大きさによって記号が決まっていて「ム・ラ・サ・キ」ってなってるんですよ。「ム」が小さくて「キ」になるにつれ大きくなる。無蓋車には「ト」の記号が割り当てられているから、一番大きいのは「トキ」とかね。そこそこ「鉄ちゃん」の要素もあるんですよ(笑)。

ナオ:家からウォッチできるなんて、鉄道好きにはたまらない環境だ。

ラズ:そうですねえ。そういえばあの頃、東京ではまだSLが走ってましたね。総武線をSLが走っているのを見た記憶があるので。

パリ・ナオ:すげー!

ラズ:かなり昔だよね(笑)。そんなこんなで米沢の小学校に入学することになります。あ、ちなみに父親は、米沢に戻ってからも出張がものすごく多かったんです。帰りに必ずお土産を買ってきてくれるんだけど、多かったのが「崎陽軒」のシウマイで、「やっとシュウマイが食べられる!」って嬉しかった。それからずっと崎陽軒のシウマイは大好き! 

パリ:僕もナオさんも新幹線には必ずシウマイ単品かシウマイ弁当を買って乗りこむタイプですが、年季が違いますね!

ナオ:大阪に住んでいると崎陽軒のシウマイがなかなか味わえないので、その点ではちょっと恋しさがわかる気がします。お父さんの出張が楽しみになりますね。

漫画誌にハマる

ラズ:漫画の本を買ってきてくれることもありました。ある時、手塚治虫先生の『0(ゼロ)マン』のハードカバーの単行本を買ってきてくれて、これがたまらなくおもしろくて、何度も何度も読んだな。

パリ:お父さんの出張が漫画との出合いにもなったんですね。

ラズ:そうですね。それで漫画が好きになっていった。当時、漫画はまだ月刊誌の時代だったんです。『少年画報』とか『少年』とか。月刊誌は、次の号が出るまでくり返し読むわけですけど、本当におもしろくて、こんな絵を描けたらなあと。まだ漫画家を目指すぞ! まではいかないけど。

ナオ:他に好きな漫画家はいましたか?

ラズ:辻なおき『0(ゼロ)戦太郎』とか、一峰大二とか、月刊誌に載ってるのはいろいろ読んでましたね。『少年画報』を一番読んでいたかなあ。

ナオ:その月刊誌は近所の書店で買ってたんですか?

ラズ:それもあったし、届けてもらってたこともあった気がする。小学校低学年くらいまではそんな感じで、その後世の主流が週刊誌に移行していったんですね。

パリ:それだけ、出せば売れる状況だったってことですよね。しかし、週刊で漫画を描くってとんでもないことだと思います。本当に世の漫画家さんはすごいなぁと。ラズ先生をヨイショしているわけではないんですが(笑)。

ナオ:週刊誌にはどのようなものがあったんですか?

ラズ:かなり早い時期から『少年マガジン』は読んでましたね。昔の『少年マガジン』はすごくて、人気漫画が目白押しだったりするわけですよ。『巨人の星』と『あしたのジョー』と『ゲゲゲの鬼太郎』が同時に連載してるとか。当時の米沢では東京より1日遅い入荷が当たり前だったんだけど、米沢駅の売店だけは東京と同じタイミングで売られてるんですよね。そこへ毎週買いに行ってましたね。わざわざ自転車で20分くらいかけて。もう、一刻も早く読みたくて読みたくて、待てないから(笑)。

パリ:僕の小学生時代も、「あそこの文房具屋、『ジャンプ』が1日早く売られてるらしいぞ!」とか、情報が流れてました。

ナオ:ありましたね。今はもう大人の余裕というか、単行本になるまで待とうっていうぐらいだけど。

パリ:うんうん。しかも単行本の発売日が覚えてられなくて、買い忘れてる漫画が大量にある(笑)。

ラズ:当時はやっぱり渇望してたからねぇ。その後、小学校1年生の時に米沢市内の別の学校に転校して、それからはずっと同じ場所で暮らしてました。僕も高校を出るまではそこにいましたね。

(つづく)

ラズウェル細木
1956年、山形県米沢市生まれ。食とジャズをこよなく愛する漫画家。代表作『酒のほそ道』は四半世紀以上続く超長寿作となっている。その他の著書に『パパのココロ』『美味い話にゃ肴あり』『魚心あれば食べ心』『う』など多数。2012年、『酒のほそ道』などにより第16回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。米沢市観光大使。


パリッコ
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家/イラストレーター、DJ/トラックメイカー、他。酒好きが高じ、2000年代後半より、酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『天国酒場』『つつまし酒』『酒場っ子』『ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある』など多数。


スズキナオ
1979年、東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『メシ通』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』『関西酒場のろのろ日記』『酒ともやしと横になる私』など、パリッコとの共著に『酒の穴』『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』『“よむ"お酒』がある

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