空海 祈りの絶景 #9 室戸岬での修行〜高知編 その2〜

連載|2023.7.14
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

#9 空海が悟りを得た地

 眼前に空と海が広がっている。
 いや、正確にいうと、どこからが海で、どこからが空なのか境目のわからない、一面乳白色の世界が広がっている。

室戸岬の頂上近くにある灯台。

 四国の東南端、高知県室戸岬。訪れるたび表情を変える、この太平洋に鋭角に突き出した岬の灯台で、これまでの空海の足跡を思い返した。
 瀬戸内の穏やかな海を身近に感じながら暮らした幼少時代。

空海の生まれ故郷、香川県善通寺近くにある屏風ヶ浦。小島も浮かぶぬくもりある風景。

 海のない奈良の都で勉学に励み、やがて山林修行に身を投じて、吉野の金峯山や四国の大龍嶽などで修行をした青年時代。

(左)奈良県吉野の山々。(右)徳島県の第二十一番札所太龍寺にある舎心ヶ嶽。

 さまざまな経験を経て、空海はこの室戸の地で虚空蔵求聞持法を修法し、「明星来影す」、つまり悟りを得たと、自身の著書『三教指帰』に記している。
 見渡す限り空と海だけという、この潔い雄大な風景を、空海は日々、どんな想いで見つめていたのだろう。

 「ここは自然が荒々しいところです。岬の一番先端なので、東西どちらからの風もここで当たって強くなりますし、自然のありよう一つひとつが力強いんです」
 室戸岬の頂上にある第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)の住職、島田信弘さんは言う。

(左)マグマが地層に貫入して固まったとされるビシャゴ岩。(右)目洗い池。空海がこの水を使って人々の眼病を治したと伝わる。

 加えて、この岬周辺は、過去に繰り返し起こった巨大地震によって土地が隆起し、現在も平均して1000年に1〜2mずつ、大地が盛り上がり続けているという。ダイナミックな地殻運動を感じさせる奇岩も多い。

 「大地が生まれる場所なんです。岩も風化せず、ギザギザしています。そんな荒々しい自然をダイレクトに感じられるこの場所で、自然の力をいただいたからこそ、お大師様は悟りを開くことができたのではないかと思います」

 若き空海が求聞持法を修法するにあたり、この地を選んだのは、四国という自分が生まれ育った島だということも理由の一つにあるだろう。だが、この地の力強い自然も、選択の大きなウェイトを占めていたのではないかと個人的に思う。

 「灯台からの景色を見ていると、海の向こうにある世界を感じたり、この広さに対して自分はなんて小さいんだろうと思うんです」
 島田さんの言葉に思わずうなずく。

 自身も、通しで歩き遍路を経験した島田さんは、「四国は、地域の人たちの信仰が今も生きていますし、自然も荒々しいですが生き生きしている。求めれば感じられる要素がいっぱいあるところです」と言う。

(左)最御崎寺の大師堂。(右)境内の大木。

 「大事なのは、まず心の鎧を脱いで、素直に感じようとすること。それを意識して歩けば、一歩一歩扉が開き、次のステージに行けるようになっています。この地の自然や地域の人たちとのふれあい、お寺でのお参りなど、いろいろな場面で少しずつ心が養われていくと思います」

(左)本堂に施された彫刻。(右)境内の石仏。自然の中に溶け込んでいる。

 また、過去にはスペインのサンティアゴ巡礼も経験。パンプローナから一部バスも利用し、サンティアゴを目指したその旅で、島田さんは、おそらく宗教の違いからくるのだろう、巡礼のスタンスの違いを感じたという。

 「サンティアゴ巡礼では、まちがえたら自分でそれを正し、頑張ることで自分が徳をもらえるというスタンスで、自分が得た徳は自分ものなんです。周囲もそれをわかっているから、あえて手を差し伸べない。もちろん助けを求めると、日本人より親切なくらい優しく教えてくれます。一方遍路では、地域の方々がお遍路さんにお接待をします。それは、私は歩けないけれど、歩いている方々に物を渡しますから、代わりに歩いて、仏様からいただいたお徳を分けてくださいということで始まったんです。つまりお互いに助け合って、お互いに徳がもらえる。スタンスが違うんです」

(左)駐車場近くにある大師像。(右)境内にある虚空蔵菩薩像。最御崎寺のご本尊も、虚空蔵菩薩。

 この日は大師堂の中を見せていただいた。

 島田さんの読経の声が、お堂いっぱいに響き渡る。ゆったりとした息づかいによって生まれる重心の低い落ち着いた声は、静けさと同時に力強さを感じさせた。けっして大声を張り上げているのではない。だが、たおやかな声のなかに揺るぎない力が存在し、それが圧となってお堂のすみずみにまで行き渡った。まるで強風に吹かれても、枝を大きく揺らし、しなりながら、根元はびくとも揺らがない一本の木を連想させる。その声に、この地の厳しい自然と対峙するひとつの在り方を見た気がした。

 空海の修業地にも立ち寄ってみた。

 空海が求聞持法を修法したと伝わる場所は、実は室戸の地に3つある。広く知られる御厨人窟の隣、神明窟のほかに、

(左)御厨人窟。(右)隣にある神明窟。

そこから400mほど離れた一夜建立の岩屋、

そして、室戸岬から北西約8㎞に位置する行当岬(ぎょうどさき)にある不動岩で(御厨人窟と不動岩は前回の#8でも紹介)、

御厨人窟は江戸時代中期、一夜建立の岩屋は鎌倉時代後期、不動岩は平安時代後期の文献に、空海の修行地として記されているという。

 そんな3つの場所について、地質学や天文学の詳細なデータをもとに、1つの説を導き出したのが、第二十六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)のご住職、坂井智空さん。行当岬から3kmほどの三角山の中腹にあるこの寺は、最御崎寺や、第二十五番札所の津照寺(しんしょうじ)とともに、室戸三山と呼ばれている。

金剛頂寺の本堂。1982(昭和57)年、創建当時のものを、京都の 神護寺に残されていた資料をもとに再建。

 境内の沢から聞こえる清らかな瀬音、周囲に広がる原始の森のような鬱蒼とした木々。土地の力を強く感じさせる。

(左)境内にある弁財天堂と池。

 坂井さんは、住職の仕事と併行し、高知女子大学大学院の修士論文で、室戸における空海の修行について研究した経験を持つ。

 「求聞持法では行法に入る前に、朝、明星天子、つまり金星を拝みます。これは求聞持法のご本尊、虚空蔵菩薩を守っている明星天子を先に拝み、これから虚空蔵さんをお迎えしますという意味があり、金星が見える方角が大事なんです」

行当岬の不動岩付近の風景。右下に「空海 修行御座石」の看板があり、ここから金星を拝んだとされる。

 加えて、空海が用いたと思われる求聞持法の経典には、結願のときは、日食、あるいは月食に合わせ、露地に壇を移して修法すると説いているという。このことをふまえ、坂井さんは、さまざまな古文書を繙(ひもと)きつつ、高知大学の地質学研究者が立証した室戸の地質、海面変化、地殻変動の推移のデータと、3つの場所の地形を考慮に入れ、空海の修行地について1つの説を導き出した。さらに、空海が室戸で修行した可能性がある18歳から24歳までの間に、日食、または月食がいつあったか、そのときの金星の位置やその日の開けの明星、宵の明星の位置、光度などのさまざまな条件を、文部科学省国立天文台のデータをもとに多角的に検討。空海が求聞持法を修法したのは、行当岬の不動岩であり、796年(延暦15)、つまり空海が23歳の9月6日に成満したと考えるのが、もっともふさわしいという説に至ったという。

行当岬からの眺め。

 では、空海はどのルートを経てこの地に来たのだろう。ちなみに、仏教民俗学者の五来重氏は、やはり求聞持法を修法した徳島県の太龍寺から日和佐の浦に出て、辺路(へじ)修行の先達に倣って海沿い、つまり陸と海の境の辺路を歩いたとしている。だが坂井さんは、地元に住む者の感覚として、海からのルートは考えられないという。

 「室戸近辺の海岸沿いは、飛石、跳石、ゴロゴロ石と言われて岩がゴツゴツしています。海も紀伊水道と黒潮がぶつかって波が荒く、江戸時代まではとても歩ける道ではなかったんです。

 代わりに、現在は国道が走っていますが、野根山(のねやま)街道という山中を通る道があり、江戸時代には参勤交代で使われていました。その街道の峠から尾根づたいに降りてくると、金剛頂寺の奥の院である池山神社に出ます。そして、その奥の院から三方に分かれて降りてくると、室戸三山の最御崎寺、津照寺、金剛頂寺に出るんです」

 つまり、室戸の海岸が辺路修行のルートだった可能性は低いというのだ。となると、室戸に限って言えば、空海は辺路修行の先達に倣ってこの地に来たのではなく、空海自身が、求聞持法を修法する場所として、この地を見出し、選んだということになる。

 さらに興味深いことに、金剛頂寺には雑密時代、つまり、空海が唐に渡る以前の時代に求聞持法で使われていたと考えられる掛け軸が、寺宝として遺されている。

虚空蔵菩薩の掛け軸。

 「求聞持法を修法するときは、虚空蔵菩薩の軸を掛け、それをご本尊として修法します。ただ、その前行として、1週間は文殊菩薩をご本尊としてその軸を掛け、集中力や記憶力を高める文殊法を修法するんです。つまり、文殊法と求聞持法はセットで行われます。その文殊菩薩、虚空蔵菩薩の軸が、うちにはセットで残っていて、ともに雑密時代のものなんです」

 説明を補足すれば、密教は、すでに奈良時代にはかなりの経典が遣唐使によって持ち帰られ、それに基づく実修も行われていたと考えられている。その後、唐に渡った空海によって、体系的な密教が完全な形で日本にもたらされた。つまり、空海が入唐する前のいわゆる雑密時代と、帰国後に空海によって再構築された密教は別物で、仏様の特徴も相違があるということだ。では、この軸は誰が使っていたのだろう。

境内にある稚児大師像。

 空海にとって、この地は若き日の修行場所では終わらなかった。寺伝によれば、この寺の開創は807(大同2)年。平城天皇の勅願、つまり国家鎮護と皇室の繁栄を祈願し、空海が開基したと伝えている。

 もっとも、空海が唐から帰国したのは、前年の806年。同年には留学の報告書『御請来目録』を朝廷に提出しているものの、本来留学僧の修学期間は20年と義務づけられ、わずか2年で帰国した空海は、罪を問われかねない状況にあった。たとえ唐で密教のすべてを恵果和尚から受け継いだとしても、空海の入京がすぐには許されず、しばらく九州の筑紫の地に留め置かれていた状況を考えれば、帰国後まもなく勅願されたとする寺伝には疑問がある。

ご本尊は薬師如来。

 だが、開創年にこだわらず、坂井さんの説明と歴史的事実をつき合わせて考えると、建立までの一つの道筋が見えてくる。つまり、帰国後まもなく、空海はこの地に修行の場として寺を建立することを平城天皇に懇願。その後入京を許され、京都の神護寺(かつての高雄山寺)に居住していたときにそれが認められ、嵯峨天皇、淳和天皇の勅願によって堂宇が少しずつ建てられたという流れである。
 あるいは、勅願寺には、寺が創建されてから勅許が出る例も多いことから、帰国後、空海は寺の建立を懇願するのと同時に、独自に創建へ向けて準備を進め、その後、空海の実績が認められて天皇勅願となり、堂宇が整っていったとも考えられる。
 ともかく、空海の若き日の修行場である行当岬の不動岩の近くの、水がこんこんと湧き出るこの地に、神護寺を模写した寺が建立されたのだ。

 「当初は金剛定寺という名前で、居住する場所としての寺と行をする不動岩、両者が揃った修行の道場として整えられています。ここは山のものも海のものも揃いますし、何より水がある。この場所から上は一切水が出ないんです。また近くの硯ヶ浜では、硯の原料となる石が採れます。いろいろな意味で、海洋宗教も含め、自然の中に体を放りこませて修行する道場を建てたのだと思います」

密教の教義を伝えた7名の祖師に空海を加えた真言八祖像。もともとこの寺の多宝塔の内部壁面にあり、第十三代住職が鎌倉時代に祈願して作ったと伝わる。板の浮き彫りで色彩があるのは、日本で最古。左が空海の師である恵果和尚。右が空海。

 もっとも、すべては1200年以上前の話である。その間に積み重なったさまざまな伝承や出来事により、ものごとの本質は見えにくくなっている。だが、それでもこの寺が、それでもこの寺が、天皇に認められて建立された、空海開基の最初の寺であることに個人的にこだわってみたいのは、この寺に、寺宝も含め、どう捉えたらよいかわからないものがいくつか存在するからだ。

 たとえば、境内にひっそりとある、智光上人なる人物の御廟。

 聞き慣れないこの人物は、空海の弟子で、平安時代から南北朝時代にかけて書かれた『弘法大師伝』によれば、「世に隠れたる」「行力第一の聖人」と記されているという。

 「いわば初代住職です。空海は修行の場とするこの寺に、自分の弟子である智光を住職として送っているんです。智光は、空海が835(承和2)年3月21日に高野山の奥之院で入定(にゅうじょう=永遠の瞑想に入ること)されたという知らせを聞き、それから1ヶ月後の4月21日にこの地で入定されています」

 さらに、真言密教の根本経典、『大毘盧遮那経(だいびるしゃなきょう)(大日経典)』7巻と『金剛頂経』3巻の、2経10巻揃った写本は、平安時代初頭のもので日本最古。また密教修法に使う法具一式を、背負って持ち運びができるよう小ぶりにつくられた旅壇具(たびだんぐ)も、平安時代後期のものとしては日本で唯一という。

旅壇具。外で祈祷をするために使うものという。木の板に漆と布を何枚も貼り合わせて作られている。

 「旅壇具は高僧が亡くなったときに、昔は一緒に埋めていたものでもあるし、経典も、授業の教科書として使うものでもあって、日本にも何ヶ所かにあります。ただ、なぜそれらがここにあるかは、まだ調査できていないんです」

 何より、創建以来この寺が修行の道場の役割を果たし続けたことは、利剣大師像でも察することができる。

不動明王は煩悩を焼き尽くし、悪魔を降伏して行者を擁護する明王として信仰されている。

 「お大師さんが剣を持っているこの利剣大師は、現在の修行場である護摩堂に、ご本尊として祀られています。お不動さんとお大師さんが合体した鎌倉時代のもので、やはり行をするにあたって、弟子たちがそういうものを作り上げていったのでしょう」

大師堂で勤行をする坂井さん。

 1200年の時の重みを感じつつ、この寺の存在と寺宝が、空海の空白期間を繙く鍵となることに期待したいと思う。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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