空海 祈りの絶景 #5 空海と四国遍路~徳島編〜

連載|2023.5.19
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

#5 お遍路を歩き、祈りの歴史をたどることで見えてきたものとは

 もう歩けない。これ以上無理。
 そう思っても、前に進むしかないときがある。
 ただでさえ、車が通らない山深い道である。助けを求めることはもちろんできず、引き返せば、進む以上に長い距離を歩かなければならない。
 とにかく前へ。よろけても、休み休みでも、足を出せば曲がりなりにも一歩になり、その一歩が、次の一歩を連れてくる。

 弘法大師・空海ゆかりの八十八ヶ所の仏教寺院を巡礼する、四国遍路。

 これまで数えきれない多くの人たちが歩いた道の、なかでも「遍路ころがし」と呼ばれる難所で、何度も立ち止まり、延々と続く細い急坂を見上げた。

 白衣に和袈裟、菅笠を身につけ、手には鈴がついた金剛杖。弘法大師の分身とされるこの杖は、あるときは両手で握りしめ、漕ぐように動かしながら大きな石をよじのぼり、あるときは体重を預け、下るときの足の負担を軽くする、というように、まさに「同行二人(どうぎょうににん=四国遍路では、常に弘法大師が付き添い、サポートすると信じられている)」を体現する存在。邪気を払う鈴の音とともに、道中の心身を支えてくれる。

 もともと歩くのが好きというわけではない。差し迫った祈願もなく、ただ、弘法大師信仰が今も息づく祈りの道とはどういうものか、自分の目で、足で、確かめてみたい。そんな思いで始めた歩き遍路だった。

 旅のはじめの第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)の近くで、言葉を交わした歩き遍路の先達が言ったことを思い出す。「自分のお願いは1つだけ。あとはお参りできない他の人のことを、代わりに願う。それが遍路だ」と。

霊山寺本堂

 総距離、1200〜1400km。通しで歩くと2ヶ月近くはかかるという四国遍路の根っこには、本来人それぞれの切実な祈りがある。

 もっとも、現代の遍路は、目的もスタイルも自由。歩きではなく、車やバイク、自転車を使って、第一番札所のある徳島県鳴門市から、四国を右回りに一周する、いわゆる「通し打ち」をする人もいれば、全札所を何回かに分けて「区切り打ち」で回る人もいる。
 かくいう私たち夫婦も、まずは徳島からと区切り打ちで回った。

第五番札所の地蔵寺。ご本尊は勝軍(しょうぐん)地蔵菩薩。
第二十三番札所の薬王寺は、徳島県最後の札所。ご本尊は薬師如来で、ここから海沿いの道になる。

 札所の中には、真言宗だけでなく、臨済宗や曹洞宗、天台宗、時宗の寺もあり、ご本尊もさまざま。

第十一番札所、藤井寺は臨済宗妙心寺派。ご本尊は薬師如来。

 宗派を問わず、誰がどう回ってもかまわないというおおらかさが、四国遍路の特徴と言える。

  そもそも遍路のルーツは、辺路(もしくは辺地=へじ)修行にあるという。辺路とは、海と陸の境目のこと。仏教民俗学者の五来重氏によれば、日本では仏教や道教、陰陽道が流入する以前、山岳信仰に先駆けて、海の彼方を死者の霊がとどまる常世と捉える海洋信仰が存在したという。特に四国では、海辺の道を厳しい修行をしながら巡る辺路修行が行われ、一方で、すでに奈良時代には、愛媛県の石鎚山(いしづちさん)が修行の場として知られるなど、山林修行も行われていた。若き空海は、さまざまな先達に倣って、辺路修行、山林修行をしながら四国を巡ったのである。

第二十番札所、鶴林寺(かくりんじ)。寺伝によれば、この地で修行した 空海が、杉の木の上で2羽の鶴が黄金の地蔵菩薩像を護っているのを見かけ、 それを胎内仏として地蔵菩薩を作り、本尊として祀ったことに始まるとされる。

 遍路では、空海の像とたびたび出会う。

 もっとも、歩を重ねると、不思議と「空海」とは言わなくなり、代わりに「お大師さま」と、自然に口をついて出るようになる。
 特に難所をくぐり抜け、像を見たときの感慨はひとしお。思わず手を合わせ、深々と一礼した。
 遍路とは、そういうふうにできている。

第十二番札所、焼山寺(しょうさんじ)へ向かう途中、二つめの山を登りきった浄蓮庵の杉の大木のそばで迎えてくれた大師像。自然に「お大師さま」という言葉が口から漏れ、元気が出た。

 辺路修行をルーツに持つ四国遍路は、平安時代中期以降の弘法大師信仰の発生とともに、多くの僧侶が、若き空海が修行した行場を巡礼、修行するようになり、やがて、その流れは庶民にも広まって、行場をつなぐ経路が形成されていったと考えられている。現在のように、八十八ヶ所のお寺を巡拝する形が確立されたのは、室町時代末期から江戸時代初期にかけてのことという。

 つまり遍路は、弘法大師を慕って歩いた人たちが、長い年月をかけて完成させた、祈りというものの一つの型であり、メッセージだとも言えるだろう。それをどう読み取り、どのように現実の暮らしに生かすか。ある意味遍路は、自身の意識次第で、いかようにも内省を深められる世界だとも言える。
 最初にそう気がついたのは、第十二番札所の焼山寺(しょうさんじ)でのことだった。
 最初の難関、第十一番札所の藤井寺からの道を、息を切らして登りきったところで、釈迦如来をはじめとする、さまざまな菩薩や如来が迎えてくれたのだ。

焼山寺境内にある文殊(もんじゅ)菩薩像(左)と不動明王像(右)。その他、 普賢(ふげん)菩薩、弥勒菩薩、大日如来、虚空蔵(こくうぞう)菩薩など、10 以上の仏像が並んでいる。

 それら仏像の目線を辿ると、さっきまで苦労して登ってきた道を向いている。歩いているときは、自分だけが苦しんでいると思っていたが、実はそのすべてを、多くの仏様が見守っていたということだ。人生もまた然り。そんなメッセージを受け取った。

焼山寺からの眺め。遠くに海も見える。

 一方、各札所の奥の院は、行場としての雰囲気が今も色濃く残る場所。その多くに洞窟があり、近くには心身の穢れを取り払う垢離(こり)をするための滝もある。現在町中にある札所も、もとは行場のある奥の院が発祥というところが多いという。

 なかでも第十九番札所、立江寺(たつえじ)の奥の院、星谷寺(しょうこくじ。別名星の岩屋)は、清浄な気に満ちた場所だった。

山中にひっそりとある本堂。ご本尊は十一面観音。

 境内には清らかな滝があり、現在も滝行が行われているという。

上流にある不動の滝(左)と下流の洗心の滝(右)。どちらも滝行の行場。

 特に上流の不動の滝は、岩屋の中から水の流れを見ることができ、裏見の滝とも呼ばれている。

星の岩屋から見た不動の滝。

 空海の時代、修行者はこのような洞窟に籠り、五穀を避けて木の実を食べ、心身の穢れを取り払ったうえで、山を巡る行道などの厳しい修行、つまり「浄行(じょうぎょう)」を行い、悟りの智慧などを体得しようとしたという。

 滝のそばには鎮守社なのか、巨岩の上に小さな祠があり、樹齢450年以上という樟(くす)の巨木には、不動明王が刻まれていた。

 一方、前述の焼山寺の奥の院は、焼山寺山の山頂にある蔵王権現堂。かつては虚空蔵菩薩が祀られており、この菩薩をご本尊とする修行、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)が修法されていたと考えられている。

 途中には、不動明王を祀る巨岩や、空海が毒龍を封じ込めたと伝わる窟も残り、行場独特の神秘的な空気に包まれていた。

 五来氏によれば、毒龍はこの山の神聖を守る山人を表しているという。修行者は山に入る際、山の神に不敬のないよう垢離をするなど心身を清浄にし、修行によって得た力で山人を説得し、行をサポートしてもらったことが伝説の発端にあると解釈している。

 なかには、奥の院が神社のところもある。第一番札所、霊山寺の奥の院は、阿波の一宮、大麻比古(おおあさひこ)神社。現在は大麻山の中腹にあるこの神社は、江戸時代初期に書かれた『四国徧礼霊場記』によれば、かつては山頂にあり、境内には求聞持堂もあったという。つまり、札所の根源には、大麻山を霊山とする山岳信仰があったということだ。

幾重にも連なる山のように、祈りの歴史も、また奥深い。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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