都築響一 & nobunobu(鈴木伸子)が歩く

昭和ビル遺産の記憶 #5│中野サンプラザ(中野)

カルチャー|2023.4.21
文=鈴木伸子 写真=都築響一

失われつつある昭和の名ビル

 2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
 1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
 近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
 東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
 そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
 連載第5回は、中央線カルチャーの象徴とも言える存在、中野サンプラザを取材しました。

中野サンプラザ(全国勤労青少年会館)

住所 東京都中野区中野4-1-1
竣工 1973年
設計 日建設計 
施工 大林組、フジタ工業、佐藤工業 共同企業体

建物前の広場は中野駅前の憩いの場。中野サンプラザは、ホール、ホテルなどの施設としてだけでなく、50年間、この街のシンボルとして親しまれてきた存在でもある。
73年当時、国内にまだ先例のなかった巨大複合建築は、建物両側のダブルコア、地階・5階・12階・21階に計4層の大架構を配置した構造設計により実現した
数多のアーティスト、観客の喝采、熱狂の場となってきた大ホール。建物自体が若者向けの施設として企画されたため、ポピュラー音楽向けのホールとして設計された。ホール全体の形が真四角なので、どの客席からも舞台がよく見える。
開業から現在に至るまで、舞台や音響面などの改修は何度も行われてきた
赤い客席もサンプラザ大ホールの特徴。舞台側から見てもこの赤いシートが印象的に見えるのだとか。客席数は最大2222席
大ホールの3階ホワイエ。赤を基調にしたヴィヴィッドなインテリア。天井照明とソファーの設えが70年代的。ソファーは創建時からのものなのだろうか?
大ホールの2階ホワイエからエントランスホールを眺める。自然光の入るガラスアトリウムの明るい空間。竣工時はガラス屋根部分には光を透かす大理石がはめ込まれていたが、ガラスに改修されている
エントランスを入ってすぐの、大ホールに続く赤い大階段も中野サンプラザの象徴
エントランス横のチケット・ブース
1階奥では、中野サンプラザの企画による自主公演ミュージカルのポスターなど、大ホールの歴史が展示されていて、熱心に見入っている人も多かった
中野サンプラザの建物の形の立体消しゴム、キーホルダー、 缶バッジ、マスキングテープなどの開業50周年記念ガチャは大人気で第3弾はすでに完売。5月中旬からは「記念ガチャFINAL」を販売予定
1階から地階への階段も堂々とした立派なもの。地階には開業時、食堂、理容室、美容室、プール、トレーニング場、ボウリング場、プールがあった。現在もボウリング場、トレーニングジムは健在。そのほか練習用の音楽スタジオ、インターネットカフェなどが営業中。
インターネットカフェのある場所は、開業時は結婚相談コーナーだったとか
20階のレストランの案内板。現在はレストラン「121ダイニング」日本料理「なかの」の2店が営業中だが、開業時はカレーライスからフランス料理フルコースまで味わうことができる「レストランサン」が入居。まだ都内に数少なかった展望レストランとして人気を得ていた
エレベーター周りには大理石が使用され高級感が漂う。
建物の両側にエレベーターや階段、電気室、機械室などを収める“ダブルコア”を採用。建物中央にコアを置くセンターコアよりも、防災計画においてより安全な二方向避難ルートを確保できるため、日建設計ではダブルコアが積極的に採用された
15階には、屋上部分に設えられた日本庭園の見える宴会場がある。この屋上庭園は、創建時以来館内に残っている数少ない場所。
中野サンプラザの意匠設計を担当した、日建設計OBの三浦明彦さん。
今年84歳とは思えない若々しいダンディないでたち。中野サンプラザの設計当時は30歳前後だった。設計に取り掛かる前、欧米に約1ヵ月間、巨大建築、複合建築の視察旅行に出掛けたということで、このプロジェクトの規模の大きさ、意気込みのほどが想像できる
建物の後ろ側から眺めると、8階と15階に屋上が設けられていることがわかる
建物前の広場のカリヨン時計は1997年に設置されたもの。
現在、中央線線路沿いにはタワークレーンが並び、タワーマンションなどの建設が進んでいる
建物東側には、赤い屋根の可愛らしいエントランスがある。ビッグでシャープな印象の中野サンプラザの意外な貌

1973年にオープンした巨大複合施設

 中央線カルチャーの象徴とも言える存在「中野サンプラザ」が今年7月2日に閉館。その後解体、再開発されることになっています。
 サンプラザの再開発は10年以上前から取り沙汰されてきましたが、それがついに現実のものとなることに。名残り惜しく感じている人も多いはずです。
 中野サンプラザといえば、その館内にあるコンサートホールのことだと受け取られることも多いようです。ここは1973年にオープンしてから、ロック、ニューミュージック、歌謡曲など主に若者音楽の殿堂として親しまれ、都内の代表的なコンサート会場として知られてきました。

1973年の開館時。背後には小さな戸建て住宅が並ぶ。
周辺の建物と比較しても、中野サンプラザの建物の巨大さが理解できる。また、現在ガラスアトリウムとなっているエントランスホール部分の屋根に大理石が貼られていたこともわかる

 1981年、高校生だった私が初めてユーミンのコンサートに行ったのも、この中野サンプラザでした。そのツアーは、今は懐かしき「水の中のアジアへ」。その後、ニューミュージック界の女王の座を揺るぎないものにしたユーミンはライブの場所を日本武道館、代々木競技場などへと転じていきましたが、一方で、ビッグスターになってもこの会場でのライブにこだわってきた山下達郎という存在もあり、舟木一夫、八代亜紀などの芸能界の大物、ハロプロの各グループなどもここをホームグラウンド的なライブの場としてきた歴史があります。

開業時にはアリーナステージ型の舞台・客席配置にすることもできた。
若者向けの演目を意識し、催し物の演出の幅を広げ、観客参加の催し物へも対応できることを考慮し、一般型舞台についても、張り出し舞台やオーケストラピットを付けるなど、様々な配置が可能だった
アリーナステージ型でも、上手・下手の各花道の取り外しが可能
その後何度も改修が行われ、ステージ、音響、照明などもその都度更新されてきた

 しかしながらこの中野サンプラザという施設は、コンサートホールのみにあらず。その階上にホテル、宴会場、レストラン、地下にはボウリング場、プールなどが内包されている巨大複合施設として建設されたのでした。
 また、中野サンプラザという名称は公募により決まった愛称で、開業した当時の正式名称は「全国勤労青少年会館」というなんだか真面目でお役所っぽい名前だったのです。それもそのはず、ここは当時の労働省所管の特殊法人・雇用促進事業団が企画立案し、「働く若人のオアシス」として建設された施設だったからです。
 高度経済成長期、地方から大都市への集団就職が行われ、人手不足の中でそれら若者人材が「金の卵」と呼ばれたことは私も昭和戦後の歴史としては知っていました。しかし70年代になってもそれら勤労青少年が数多く存在し、その福祉を目的とする施設が新たに建設されていたとは、ちょっとした驚きでした。
 70年代当時の若者といえばジーンズにTシャツ姿、愛読書はマンガ、音楽はロックやフォークミュージック、若者文化全盛の時代に自由に青春を謳歌しているというイメージでしたが、1965年の高校進学率は70.7パーセント、大学進学率は12.8パーセント(文部省「学校基本調査」)。中学、高校卒業後に社会に出て働く勤労青少年の数はまだかなり多かったということになります。
 全国勤労青少年会館の建設が企画立案されたのは1967年。当時は地方から上京した若者たちが都会で孤立し精神的に追い詰められたり、極端な例では犯罪に走るなどの社会問題も発生していました。一方では60年代頃から日本人全体が余暇=レジャーを楽しむようになり、勤労青少年のためのレジャー施設も必要であるとする社会認識も生じていたようです。
 73年の中野サンプラザ開館時には、勤労青少年が余暇を利用して趣味を広げ教養を高めるためのサンプラザ学園、就職・転職、結婚などの相談室、楽器やダンス、演劇の練習ができるグループ室、全国の地方新聞、タウン誌、電話帳などが閲覧できる郷土室、若者に人気のヒット曲を聴けるジュークボックスやトランプ、囲碁、将棋などを楽しめる娯楽コーナーなどが設けられ、地下には当時ブームだったボウリング場やトレーニング室、総大理石貼りで一年中泳げるプールがあるなど70年代前半においてはかなりデラックスな施設だったようです。 

竣工当時の建物断面図。イラストレーションにも70年代ならではの味わいを感じる

林昌二が設計を統括

 建物の設計を担当したのは日建設計。プロジェクトチームで設計統括を務めたのは前回のこの連載で取り上げた三愛ドリームセンターの設計も担当した林昌二。林は、このほかパレスサイドビル、ポーラ五反田ビル、新宿NSビルなどの作品を手掛け、大手設計組織である日建設計を率いてきたスター的な建築家でした。
 今回、その林氏が統括した設計チームの一員だった三浦明彦さんに、中野サンプラザ現地までご足労いただき、設計当時のお話を直々に伺うことができました。
 三浦さんは1962年に日建設計に入社。翌年からは林昌二グループで国立劇場、国立京都国際会館、パレスサイドビルと立て続けに大型プロジェクトのコンペに従事し、その後も林氏が設計の現場にいた間、共に仕事をしてきたという右腕的な存在でした。
 その三浦さんが語る中野サンプラザの建築としての特徴は、複合建築であり巨大建築であるということ。
「この建物の中に当初収められたのは計21施設。当時、これだけ数多くの施設を一棟の高層建築に収めた建物は日本にはなかったですね」
 そもそもこの中野サンプラザが中野駅前にできたのはなぜなのか。三浦さんにご教示いただいて改めて知りましたが、それは中野区の誘致によってだったそうです。
「60年代、中野区は中野駅北口の整備を進めてきており、そこにこういう大規模施設を誘致することによって、街区の発展の核として期待したのだと思います」と、三浦さんは当時を振り返ります。
 中野駅北口側には戦前は陸軍中野学校の敷地が広がり、戦後は警察大学校・警察学校に転用されていました。68年にはその用地の一部であった北口駅前に中野区役所が新築移転。その隣りに誘致された中野サンプラザが建てられたというわけです。

左/8階のヤングフロアにあった娯楽コーナー。ジュークボックスで人気のヒット曲を聴くこともできた
右/8階屋上にあったルーフガーデンは、当初は展示会場として計画されたが、利用者の強い要望により1980年にテニスコートになった

 70年代、西新宿には超高層ビルが建設中だったとはいえ、21階建ての巨大ビルは東京都内でもめずらしい存在でした。側面から見ると三角形、正面から見るとライオンが前足を揃えて座っているようにも見えるビルは、開館当時「東京ピラミッド」と呼ばれたこともあったとか。なぜ中野サンプラザはこのような形のビルになったのでしょうか。
「音楽ホール、ホテル・結婚式場、ボウリング場など複数の施設を一体的に設計する場合には、施設ごと複数の棟によって構成することがまずは考えられます。しかし限られた敷地の中で、若者のための建物としてアイデンティティを発揮しインパクトを与える建築となりうるか、設計チームはスケッチを重ね議論しながら、最終的には一棟にまとめた三角形という形に行き着いたのです」
 現在では一棟のビルの中に劇場や美術館などの集客施設とホテルやオフィスなどが入る複合ビルは、渋谷ヒカリエや六本木ヒルズ森タワーなど数多く見られますが、70年代前半の建築界において、それは先進的かつ大いなるチャレンジでした。
「一棟にまとめるにしても、各施設をどう積み重ねるかが課題になる。最終的に、大きな空間で人が多く集まる音楽ホールやボウリング場などは地上に近い場所に、中間には研修室や会議室、ホテルは一番上にと、空間の大きさによって施設を積み上げていった結果、あの建物の形になったというわけです」
 設計していた三浦さんたちは帆掛船のような形のイメージを描いていたそうですが、この形になったのは周辺の環境への配慮もあったからだということです。
「側面が三角形だと上層に行くに従って外壁の量が少なくなり、周辺への圧迫感や日照への影響も抑えられます」。その説明に、1970年代に入ると、公害や日照権が社会問題となってきた世相を思い出します。
 そして、中野サンプラザの建築としてのもう一つの特徴は、「ダブルコア」という建物の両側にエレベーターや配管などの設備を配置している点。このコアは構造的に建物を支える役割も負っています。両側のコアと、地階、5階、12階、最上階の21階に計4層の大架構を配置し、梯子のように支える構造でこの建物が実現したということです。
 ビルの設計に関わったのは意匠7名、構造2名、設備3名、インテリア2名、監理6名をコアメンバーとするチーム。そのプロジェクトマネージャーとも言える設計統括が林昌二だったということになります。
 現在の建築設計現場では図面の作成はコンピュータを用いて行っていますが、70年代当時は製図台に向かって人が一枚一枚鉛筆で図面を書いていた時代。構造計算も1980年代には大型コンピュータを使っての構造解析が行われるようになりましたが、当時は手動の計算機や計算尺を使用。経験則による勘、すなわち“カンピュータ”も頼りだったとか。大規模な複合建築の設計のための作業は現在よりもかなり人手も手間もかかるものだったでしょう。
 そうして完成した中野サンプラザですが、その竣工写真を見ると、建物は、木造家屋が多く、周辺のビルやマンションも今よりずっと小型だった中野の街並みの中に巨大な姿でそびえ立っています。
 三浦さんによると「73年の竣工当時、日建設計の東京オフィスのある飯田橋からも中野サンプラザが見えましたからね。だってその間には何もないんだもの」というから驚きです。

跡地には60階建ての超高層ビルが建つ

 日本の高度経済成長期と定義されるのは1954年から73年。その最後の年である1973年に中野サンプラザがこの地に建ってから、なんと半世紀、50年の歳月が経ちました。建物の施主であった雇用促進事業団は1999年に発展的解消。中野サンプラザは2004年に中野区が地元企業と共に設立した「株式会社まちづくり中野21」に売却譲渡され、以後は「株式会社中野サンプラザ」が運営を行ってきました。譲渡前には勤労青少年向けの施設である図書室や相談コーナーなどは閉鎖。現在はレンタルオフィスなどに改修されています。
 そしてこの10年ほどの間、中野駅周辺を取り巻く環境は激変。2001年に警察学校は府中に移転し、その跡地は中野四季の森公園やオフィスビル、明治大学、帝京平成大学などに再開発されて、中野駅北口の西側一帯の街並みは一変。しかしこれは中野の変化のほんの始まりだったようで、ここ数年は駅の南北両側でさらなる大規模再開発が進んでいます。
 現在南口には2棟の巨大ビルが、そしてJR線路上では駅ビルやを南北を結ぶ連絡通路を建設中。北口の線路沿いにはタワーマンションが建設中で、区役所は来年移転予定。サンプラザ跡地には2028年度末までに、なんと60階建ての超高層ビルが建つのだとか。その内容はオフィス、住宅、商業施設、展望施設、ホテル、ホールで、巨大複合施設という点では中野サンプラザと共通しているのですが。
 設計を担当した建物の解体・再開発について三浦さんの想いをお尋ねすると、
「建物には物理的、社会的、いろいろな意味での寿命があります。施主である雇用促進事業団という組織が解散し、その後もこの建物は譲渡されて約20年間使い続けられてきた。そうしてその社会的な役割をある意味で終えたわけですよ。存在し続けてほしいという想いはあるけれど、やはり社会的な寿命を全うしたのだと。今日久し振りに拝見しましたが、大分老朽化も進んでいるようでした」と冷静な視点で分析されていました。

建物前の広場にあった火球。太陽のように炎を放っている。イベント時などには火が灯されていたそうだが、現在では許可されそうもない。70年代ならではの勢いを感じるオーナメントだ

 閉館まであと2ヵ月あまり。5月3日からは大ホールで「さよなら中野サンプラザ音楽祭」が始まり、閉館日7月2日にその大トリを飾るのは山下達郎だとか。
 今後、中野の街で昭和・平成の面影を留めてくれていそうなのは中野サンモール商店街と中野ブロードウェイ、その周辺の飲み屋街くらいなのでしょうか。昭和の中野にまだ未練のある私は、しばらくはその界隈をさまよって以前のままの街並みを味わっていたい気分です。

■撮影後記 都築響一

 40代のころ小さな部屋をセカンドルームに借りて、契約更新はせずに2年ずついろんな街を引っ越して回っていた。阿佐ヶ谷、高円寺に2年ずつ、それから中野は南口と北口に2年ずつ計4年間住んでいた。ほかの中央線より中野が僕にとって居心地良かったのは、街が若者中心でもなく、おじさんおばさん中心でもなく、さまざまな年齢層の人間がごっちゃになって、もわ〜〜んとした中野の空気感を形成しているからだった。
 中野の街並みもその空気感が実体化したごとく雑然として、当時はたいした高層ビルもなく、低層・中層の建物がごちゃごちゃ折り重なっていた。
あれから中野駅周辺は大規模な再開発が長らく進行中で、サンプラザのあたりもいまやキラキラのビルばかり。それは札束を積み上げた山のようにも見える。
 久しぶりの中野サンプラザ、記念に最上階の展望レストランで食事でもしようかと思ったら、もう閉館まで予約が取りにくくなっているのだとか。むかしサンプラザのボウリング場やコンサートで知り合って結婚したり、結婚式を挙げたり、いろんな思い出を持つひとたちが全国から来ているという。建築はデザインできるけれど、記憶はデザインできないから。
 中央線なら隣駅が新宿なのに、ファッショナブルにもリッチにもなりきれなかった中野の居心地良さは、失われて初めてわかる魅力なのかもしれない。

鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。

都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。

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