#1 琵琶湖疏水を歩く(前編)│〈特濃日帰り〉ひとり土木探訪記。

カルチャー|2022.12.7
写真・文=牧村あきこ

 今回の目的地は「琵琶湖疏水(そすい)」。
 明治半ばの1890(明治23)年、滋賀県大津市観音寺の琵琶湖取水地点から京都府京都市伏見区堀詰(ほりづめ)町までの約20kmの水路が完成。これが現在の、第1疏水と呼ばれる「琵琶湖疏水」のはじまり。
 琵琶湖の水を京都に運ぶ構想がもちあがったのが1881(明治14)年で、京都の上水道・農業用水の確保のほか、水力利用による産業の活性化などのためだったと聞く。でもその背景には、明治維新によって日本の中枢機能が東京に移り、勢いを失った京都を再興する狙いもあったようだ。
 当時の国家プロジェクトに位置付けられる一大事業だった琵琶湖疏水。散策していると、折々にその片鱗を感じることができた。

旅のポイント

💡琵琶湖の水を取り入れる第1疏水取水口(滋賀県大津市)からスタート
💡ゴールは蹴上船溜(京都府京都市)
💡見どころの一つ南禅寺水路閣は時間の関係で今回は見送り
💡疏水の流れを追って歩き、点在する土木構造物を堪能
💡基本は徒歩だが、疏水のトンネル部分は電車移動で効率よく

本日の旅程 (前編)

6:51 早朝の電車で東京駅を出発
9:01 京都駅で乗り換え、三井寺駅を目指す
9:40 三井寺駅に到着
10:06 疏水の起点「琵琶湖第1疏水揚水機場」から散策スタート
10:08 船の行き来を可能にする「大津閘門」は日本最古の洋式閘門
10:11 賑わいも今は昔の「曳舟道」を眺める
10:20 これぞ明治の心意気!「第1トンネル入口」の扁額に刻まれた揮ごうを探す

6:51 早朝の電車で東京駅を出発

東京駅から、まずは新幹線で京都まで行く。早朝に出発して、遅くとも昼過ぎぐらいまでに主目的の工程を終えて、三時のおやつ ぐらいで余裕をもって引き上げるというのが、理想的なスケジュール。何かトラブルがあっても、その日のうちに帰りたいものね。

9:01 京都駅で乗り換え、三井寺駅を目指す

 京都についたら、次に目指すのは京阪電鉄の三井寺(みいでら)駅。途中のルートはいろいろあるけれど、この日はJR湖西線で山科まで行き、そこから京阪電鉄に乗り換えることにした。乗り継ぎ時間は5分しかないのでちょっと焦る。

9:40 三井寺駅に到着!

 びわ湖浜大津駅を経由して、三井寺駅に到着。自宅を出てから約3時間、新幹線が使えるルートだとやっぱり早い。いまにも降りだしそうな鉛色の空だけど、このまま天気はもつだろうか。

京阪電鉄 石山坂本線の三井寺駅

 三井寺駅から100mほど東に歩くと、そこはもう琵琶湖畔だ。今回は、琵琶湖の取水口がある琵琶湖第1疏水揚水(ようすい)機場からスタート。トンネル以外の開渠(かいきょ)になっている水路に沿って散策し、蹴上(けあげ)駅近くのインクライン(傾斜鉄道)を目指す。

第1疏水には第1~第3と諸羽(もろは)、合計4つのトンネルがある(著者作成)

10:06 疏水の起点「琵琶湖第1疏水揚水機場」から散策スタート

 琵琶湖第1疏水のスタート地点には、琵琶湖第1疏水揚水機場がある(map①) 。レンガ積みの3連アーチは取水口で、逆側には同じくアーチ型の吐水口がある。
 水を取り込む際に除塵機でゴミを取り除くほかに、揚水機場には重要な役目がある。第1疏水は京都側に水が流れていくようにゆるやかな勾配がついているが、琵琶湖の水位が下がった時に対処できるよう、琵琶湖の水を汲み上げて疏水に流しているのだ。

琵琶湖側から揚水機場を撮影。深緑の水面をカモが優雅に泳いでいた

10:08 船の行き来を可能にする「大津閘門」は日本最古の洋式閘門

 いまきた道を引き返して、第1トンネル入口に向かう。ちょうど、雨がぽつぽつ降ってきて、5月終わりの雨が予想外に心地いい。
 少し先にあるのが、大津閘門(おおつこうもん)(map②)。「閘門」というのは、水位差のある水路で船を通すための設備のことで、大津閘門は日本人の 設計・施工による日本最古の洋式閘門と言われている。
琵琶湖から常に一定量の水を流すために、疏水の水面水位は琵琶湖の増減する水位よりも低くなるように設計されている。ただ、流しすぎてもまずいため水量調整の設備が必要で、一般的には「堰(せき)」が設けられることが多い。でも、堰があると船が通れない。琵琶湖疏水は京都に琵琶湖の水を送り届けるだけでなく、当時は運河としての役割も担っていたので、船も通れる閘門が必要だった。

 疏水の完成当時は檜の扉が使われていたけれど、今は白い鉄製の観音開きの扉に変わり、水路のこちら側と向こう側に2か所ある。扉の間は閘室と呼ばれる空間で、水位調整の時に船が待機する場所だ。

1889(明治22)年に完成した大津閘門。白い扉の脇にあるレンガや石積みは完成当時のまま

10:11 賑わいも今は昔の「曳舟道」を眺める

 大津閘門のすぐ裏手にある鹿関橋(かせきばし) からは、まっすぐに伸びる第1疏水と、第1トンネル入口、そしてこんもりとした長等山(ながらやま)が見える(map③)。
 雨粒で広がる波紋と水路沿いに萌えたつ新緑は、一幅の絵のようだ。今回は京都の蹴上まで疏水の流れを追っていく旅ではあるけれど、大津エリアをのんびりと散策する旅もありだな、とふと思う。

鹿関橋からの風景。春になれば両岸の桜が咲き乱れ、疏水の水面が桜色に染まる

 鹿関橋から第1トンネル入口までは、水路の両側に人が歩けるぐらいの道がある。これは曳舟道(ひきふねみち)といい、文字通り舟を牽引するための道だ。
 びわ湖疏水船 が運行している時は、大津乗下船場となっている(map④)。通常は立ち入ることができないので、一段高いところにある道を歩いてトンネル近くまで行ってみる。

橋の欄干にとりつけられた案内板には、モノクロの古い写真が掲示されていて、疏水の片側にずらりと和舟が並ぶ様は、当時の運河としての盛況ぶりがうかがえる
人がひっぱって舟を移動させる様子は、江戸時代の浮世絵にも描かれている。歌川広重が描いた「四ツ木通用水引ふね(よつぎどおりようすい ひきふね)」

10:20 これぞ明治の心意気!「第1トンネル入口」の扁額に刻まれた揮ごうを探す

 覆い茂る木々の隙間から、なんとか第1トンネル入口の様子を見ることができた(map⑤)。この坑門(トンネル出入口の構造物)の意匠を見るだけでも、琵琶湖疏水がタダ者でない感が伝わってくる。とにかく格調高いのだ。

最も琵琶湖寄り(東)にある第1トンネルの坑門「第1トンネル入口」

格調高さを演出する要素の一つが「扁額(へんがく)」だ。扁額は寺院の本堂などに掲げられている横長の額で、琵琶湖疏水ではトンネルの坑門に元勲、元老などの揮ごう(筆で書かれた文字や絵)が刻まれている。
 第1トンネル入口の扁額は、当時の内閣総理大臣伊藤博文の手によるものだ。書かれた文字は「氣象萬千(きしょうばんせん)」。春夏秋冬それぞれの季節で変化を見せる第1トンネル入口の扁額に、これほどふさわしいものがあるだろうか、とほんの少し亡き父に似ている明治の元勲の顔が頭をよぎる。

 経年劣化で文字が消えかかっているが、扁額のすぐ上にも何か文字のようなものが見える。主任技師の田邉朔郎工学博士によって、1885年8月~1890年4月の工事で琵琶湖疏水が完成したことが以下のような英文で刻まれていた。

SAKURO TANABE DR ENG ENGINEER-IN-CHIEF
WORK COMMENCED AUGUST 1885 COMPLETED APRIL 1890

 疏水で最難関工事だった第1トンネルの坑門にこうして刻まれた文字は、明治時代における日本人の気概を現代の私たちに伝えている気がして、なんだか胸が熱くなってしまう。

黄枠内にあるのが扁額、赤枠内が完成について記載した英文だ

第1疏水 には4つのトンネルがあるが、扉がついているのは第1トンネル入口だけだ。これは1896(明治29)年に多発した集中豪雨が深く関係しているという。

 ちなみに、第1トンネル入口の扁額は、揮ごうの文字が凹むように刻まれた陰刻になっている。一方、第1トンネル出口の揮ごうは、凸のように文字が盛り上がった陽刻となっている。第1疏水の扁額は、他のトンネルでも同様に琵琶湖側と京都側で文字の刻み方が異なるのも見どころポイントだ。

初代内閣の内務大臣・山縣有朋の揮ごう「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」

*掲載情報は、探訪時のものです。列車の時刻などはダイヤ改正などにより変更されている場合があります。

後編に続く

牧村あきこ

高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/

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