第23回 有職覚え書き

カルチャー|2022.6.29
八條忠基

季節の有職植物

●「薄荷(はっか)」

6月20日は「ペパーミントの日」だそうです。
制定した北海道北見市まちづくり研究会によれば、20日は「はつか」(ハッカ)だからだそうで、6月なのは、この月の北海道の爽やかさがハッカそのものであるから、ということだそうです。

ニホンハッカ(日本薄荷、学名:Mentha canadensis var. piperascens)。日本在来のシソ科ハッカ属の多年草。和種ハッカという名称でも呼ばれます。よく百貨店の「北海道物産展」などで北見のハッカ飴みたいなのが売られており、香気の清涼さから、寒冷地で生育する植物のように思われがちですが、じつは全国各地に自生しています。戦前は「薄荷成金」が生まれるほどの投機的農産物でしたが、戦後は海外からの輸入が増え、メントールの化学合成が可能になってからは、観光的な農産物になっています。

このハッカも、いつから日本に生育していたのかは不明です。920年頃の『本草和名』(深根輔仁)に記載があるのですが、和名は記されず「唐」とあるだけ。この本で「唐」と書かれているものは、「日本にはない」ことを意味するのです。

『和名類聚抄』(源順/931~938年頃)
「薄🔲(草冠に訶) 養生秘要云薄🔲(草冠に訶) <和名波加、今案🔲(草冠に訶)字所出未詳>」

やはり訓読みもなく、中国の発音を真似て「はか」と言ったとあります。こうしてみますと、平安時代には日本には自生していなかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。ただ、「薄荷」ではなく「目草(めくさ)」という名称で表現されていた、という説があります。

『神遺方』(丹波康頼/912~995年頃)
「追幾半礼薬 羽豆鬼目尓与師  以奴安沙乃美 保之無米 夜万世里 目喜 売倶舎  由紀美豆尓非他士弖阿呂布倍之又波区沙奈紀乃伊乎水尓斗支通具流毛余路之万府多尓毛奴流」
(突き腫れ薬 疼き目に良し  イヌ麻の実、干し梅、山芹、メキ、目草  ゆき水に浸して、洗うべし。又はくさなきの伊を水に溶き作るも宜し。瞼にも塗る。)

この「売倶舎(めくさ)」がハッカのことだと。確かに現代でも目薬にメントールが入っていたりしますから、おかしくはありませんが。もっと原始的には、生葉を瞼に張って、目の腫れを治したり、眠気覚ましにしたりしたようです。 中国でも『神農本草経』など古い処方書には見られません。日本の平安時代の文献に書かれているのですから、もっとメジャーになっても良さそうなものなのですが。明の時代になってポピュラーになるようです。

『本草綱目』(李時珍/1578年)
「薄荷 【集解】頌曰「薄荷処処有之。茎葉似荏而尖長、経冬根不死、夏秋采茎葉曝乾。古方稀用、或与薤作齏食。近世治風寒為要薬、故人家多蒔之。又有胡薄荷、与此相類、但味少甘為別。生江浙間、彼人多以作茶飲之、欲呼新羅薄荷。(中略)【主治】賊風傷寒発汗、悪気心腹脹満、霍乱、宿食不消、下気、煮汁服之、発汗、大解労乏、亦堪生食<唐本>)。作菜久食、却腎気、辟邪毒、除労気、令人口気香潔。煎湯洗漆瘡<思邈>)。(後略)。」

いろいろな効能が述べられています。「近世治風寒為要薬」ですから、かぜ薬として重要だったのですね。そして「令人口気分香潔」は、現代のミンティアとかフリスクみたいな利用法でしょう。

『本草綱目啓蒙』(小野蘭山/1805年)
「薄荷  ハカ<和名抄> オホアラキ<古名> メグサ  メハリグサ<西国> ミズタバコ<佐州> メザメグサ<尾州> 原野ニ自生アリ。根ハ冬モ枯レズ、春宿根ヨリ苗ヲ生ス。茎方ニシテ葉対生ス。形円カニシテ浅キ鋸歯アリ。面ハ深緑色、背ハ紫色ナリ。稍長ズレハ緑色ニ変ジ形長クナル。断レハ香気多シ。秋ニ至テ高サ二三尺葉間ゴトニ節ヲ囲ミテ砕小花ヲ叢簇ス。色白ク微紫ヲ帯ブ。薬舗ニ貨ルモノ和産ノミ、舶来ナシ。城州山城ノ郷、和州奈良、泉州堺ニ多ク栽出ス。一種小葉ノモノアリ。ヒメヽグサト呼フ。一名コハツカ。微ク香気アリ。是石薄荷ナリ。一種細葉ノモノアリ。葉闊サ三分、長サ寸余ニシテ鋸歯アリ。越中ニテ、ハクサト呼ブ。
[増]天保十年ノ頃、阿蘭陀種ノ薄荷舶来ス。形容尋常ノ者ニ似テ、肥大ニシテ葉ニ皺文多シ。ソノ気甚猛烈ニシテ悪臭ヲ帯ブ。葉ニ蒂ナクシテ直ニ茎ニ対生ス。尋常ノ薄荷ノ葉蒂五六分ナルニ異ナリ。移シ栽テ繁茂シ易シ。故ニ今処処ニ多シ。」

「メグサ」と書かれていますね。江戸時代になれば日本でもポピュラーになっています。京都や奈良、堺で栽培されていたとありますね。いまも京都鴨川・デルタあたりの岸辺には日本ハッカが野生で繁茂しているそうです。強靱な生命力を持つミント系の植物。そう簡単に絶滅はしませぬ。天保10(1839)年に渡来したオランダ種も「繁茂シ易シ。故ニ今処処ニ多シ」だそうですし。

ところで。
ハッカの歴史が語られているWebサイトをいくつか拝見すると、次のような文章を多く目にします。子引き孫引き、ハッカのように「繁茂シ易シ」で増殖したようです。

「正倉院に保管された文書にある『目草』という記述は薄荷を指しており、『本草和名』と言う薬物書に、中国で言う薄荷は日本の『めぐさ』が相当すると書かれている。」

それぞれの文献に当たってみましょう。

『正倉院文書』(雑材并檜皮和炭等納帳/762年1月15日)
「鼠走并目草四枝 各長一丈 広四寸 厚三寸」

『本草和名』第十八巻(深根輔仁/920年頃)
「薄🔲(草冠に訶) 唐」

『正倉院文書』は、材木に関する項目であり、「鼠走」(扉の戸当たりのうち下にあるもの)とセットであることを考えますと、この「目草」は「まぐさ」(扉上に渡した横木)のことと思われます。長さ一丈(約3m)のハッカなんてありません。『本草和名』でも前述の通り和名が示されず「唐」とだけあります。原典に当たらず、子引き孫引きを繰り返すと、こういうことになるのです。

薄荷

●萱草

6月になりますと、草原でオレンジ色のユリのような花が目立つようになります。それがノカンゾウ(野萱草、学名 : Hemerocallis fulva var. disticha)です。この萱草の花の色は「萱草色(かんぞういろ)」と呼ばれ、女性の喪服の袴の色でした。

『源氏物語』(葵)
「とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、(中略)いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。」

『河海抄』(四辻善成/室町前期)
「延喜式者紅色也。而黄がちなるとある不審也。紅に黄色の混じりたる歟。それは萱草色也。凶服に用之。只又黄衣たるべき歟。」

女性の喪服の袴の色だったのです。これは近現代でも同様で、大喪に関わる女子の袴の色は萱草色、柑子色でした。しかしなぜ、萱草の花の色が「忌色」(喪服の色)なのでしょう。通常の袴の色である「紅」では派手なので、淡い色として選ばれたという側面もあるでしょうけれども、古くから萱草の仲間は「忘れ草」という別名があるのです。学名「Hemerocallis」の分類は「ワスレグサ属」なのです。

『和名類聚抄』(源順/931~938年頃)
「萱草 兼名苑云、萱草。一名忘憂<萱音喧、漢語抄云、和須礼久佐>。」

『万葉集』
「忘れ草 わが紐に付く香具山の
  古りにし里を 忘れむがため」(大伴旅人)

『兼輔集』(藤原兼輔)
「かた時も 見てなぐさめき昔より
  憂へ忘るる 草といふめり」

こうしたことから、悲しみを忘れる色、ということで萱草色の袴を用いたという説があります。『今昔物語』にも「兄弟二人、萱草・紫苑を植うる語」が載っています。

「今は昔、□□の国□□の郡に住む人ありけり。
 男子二人ありけるが、その父失せにければ、その二人の子供恋ひ悲しぶこと、年をへれども忘るる事無かりけり。
 昔は失せぬる人をば墓に納めければ、これをも納めて、子供、親の恋しき時には、うち具してかの墓に行きて、涙を流して、我が身にある憂へをも歎きをも、生きたる親などに向かひて云はむやうに云ひつつぞ返りける。
 然る間、漸く年月積もりて、この子供、公に仕へ、私をかへりみるに堪へ難き事どもありければ、兄が思ひけるやう、我ただにては思ひ□べきやうなし、萱草と云ふ草こそ、 それを見る人思ひをば忘れるなれ、されば、かの萱草を墓の辺に植ゑて見むと思ひて植ゑてけり。
 その後、弟、常に行きて、「例の御墓へや参り給ふ。」と兄に問ひければ、兄、さはりがちにのみなりて、具せずのみなりにけり。
 然れば弟、兄をいと心うとしと思ひて、我等二人して親を恋ひつるにかかりてこそ、日をくらし夜をあかしつれ、兄は既に思ひ忘れぬれども、我はさらに親を恋ふる心忘れじと思ひて、紫苑と云ふ草こそ、それを見る人、心に思ゆる事は忘れざなれとて、紫苑を墓の辺に植ゑて常に行きつつ見ければ、いよいよ忘るる事無かりけり。
 かやうに年月をへて行きける程に、墓の内に声ありていはく、
 「我は汝が親のかばねを守る鬼なり。汝おそるる事なかれ。我亦汝を守るらむと思ふ。」と。
 弟、此の声を聞くに、極めておそろしと思ひながら、答へもせで聞き居たるに、鬼亦いはく、
「汝親を恋ふること年月を送るといへども変わる事無し。兄は同じく恋ひ悲しびて見えしかども、思ひ忘るる草を植ゑて、それを見て既にその験を得たり。汝は亦紫苑を植ゑて、亦それを見てその験を得たり。然れば我、親を恋ふる志のねむごろなることをあはれぶ。我鬼の身を得たりといへども、慈悲あるによりて物をあはれぶ心深し。亦日の内の善悪の事を知れること明らかなり。然れば我、汝が為に見えむ所あらむ。夢を以て必ず示さむ。」
と云ひて、その声止みぬ。
 弟、泣く泣く喜ぶ事限りなし。その後は、日の中にあるべきことを夢に見ること違ふことなかりけり。身の上の諸々の善悪の事を知ること、暗き事無し。これ親を恋ふる心の深き故なり。
 されば、嬉しきことあらむ人は紫苑を植ゑて常に見るべし。憂へあらむ人は萱草を植ゑて常に見るべし、となむ語り伝へたるとや。」

忘れる草が「萱草」。忘れない草が「紫苑」ということなのです。

写真はノカンゾウと、明治天皇の御大喪(第三期)にあたり、皇后陛下(貞明皇后)が着用された萱草色の御袴の裂地です。

明治天皇の御大喪(第三期)にあたり、皇后陛下(貞明皇后)が着用された萱草色の御袴の裂地。
ノカンゾウ

◆いつもご愛読いただきありがとうございます。本連載は来月休載いたします。

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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