男女逆転の世を生んだ「赤面疱瘡」と、江戸時代に猛威をふるった「疱瘡」

カルチャー|2021.10.15

『大奥』で男女逆転の世が生まれるきっかけとなったのは、「赤面疱瘡(あかづらほうそう)」と呼ばれる、男性のみに感染する病気である。

実際の江戸時代では、「疱瘡」とも呼ばれる、天然痘が猛威をふるった。将軍といえどもその魔手から逃れることは難しく、家光も26歳の時、罹患した。『大奥』で赤面疱瘡にかかった家光は亡くなるが、史実では死線をさまよったものの回復している。(P79・竹村誠「赤面疱瘡と、江戸時代に猛威をふるった『疱瘡』」より)

『大奥』第2巻P12より

中盤の医療編では、「大奥」が研究チームとなって、赤面疱瘡の解決策を見つけていく姿が描かれる。

大奥赤面疱瘡研究チーム

「大筋は最初から決まっていたんです。田沼意次の指揮のもと、大奥で研究チームを作り、蘭学の知識を取り入れながら、解決策を探る。途中までうまくいって、でも、田沼の失脚に伴い挫折して。『プロジェクトX』は、やはり1回挫折しないと、次の大成功はない。ですから、黒木でもう1回ねと。そうして精度の高い予防接種になるわけです、弱毒化に成功して。ここだけはフィクションです。『私が100パーセント作る』ところだから、きちんとやらないと。頼れるものが何もないので不安でしたが、何とか描き上げられました。長崎に取材にも行きました。『大奥』全体の中で、一つの山場みたいなところではありました。」(P101・「よしながふみ特別ロングインタビュー」より)

大奥で行なわれた初めての人痘接種(『大奥』第10巻P159より)

では、史実ではどのように「疱瘡」を乗り越えたのだろうか。

疱瘡は、高熱を発した後、水疱が顔から始まって全身に広がる伝染病である。水疱は血疱(けっぽう)に変わり、化膿して最後に瘡蓋(かさぶた)となる。発症してから2週間ほどで全快するが、その間に死亡することも多く、治ったとしても顔に痘痕(あばた)が残ることもあった。天然痘を軽い症状ですませて、免疫をつける 「種痘(しゅとう)法」が日本に伝わったのは、延享元(1744)年。中国から長崎の町医に伝授されたといわれる。最初に伝わったのは「人痘(じんとう)法」で、 病人の瘡蓋の粉などを腕に針で傷を付けて塗り付ける方法や、それらを鼻から吸わせる方法などがあった。寛政元(1789)年、オランダ通詞の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の弟子で秋月藩医の緒方春朔(しゅんさく)が改良して九州を中心に広まっていった。同じ頃、イギリスのジェンナーが人痘を牛痘(ぎゅうとう)に代えた、より安全な「牛痘法」を発明していた。この牛痘法の情報は享和年間(1801~04年) にはオランダ商館長により伝えられていた。また、牛痘法に関する著書が出版されており、その存在は広く知られ、全国に牛痘を待望する蘭方医が多くいた。嘉永元(1848)年に来日した商館医のモーニッケが佐賀藩の依頼により牛痘漿(うみ)を持参したが失敗した。そこで、日本では瘡蓋で種痘していることを伝え、翌年もたらされた牛痘の瘡蓋で成功した(*)。佐賀藩主の子も接種している。この痘苗が各地の蘭方医によって、種痘所を設置するなどして全国に広められていった。1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘の根絶を宣言し、人類の力で撲滅に唯一成功した病気となっている。 (P79・竹村誠「赤面疱瘡と、江戸時代に猛威をふるった『疱瘡』」より)

(*)青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第7号所収)

赤面疱瘡で世界が一変するという設定は、現代のコロナウイルスを予言しているようだが、それはたまたまだという。よしながふみは「赤面疱瘡」について、このようにも語っている。
「人類の歴史はウイルス感染症との戦いの歴史でもあって。江戸時代には天然痘が幾度となく流行しましたし、近年でいえば、SARSやMERSなどが数年おきに流行して。当時(連載開始前)はエボラ出血熱のアフリカでの流行が記憶に新しかった頃で、そのあたりから発想しました。」(P100・「よしながふみ特別ロングインタビュー」より)

田沼意次の失脚により一度は挫折したものの、十一代将軍家斉の政策によって接種が進み、見事赤面疱瘡を克服した。(『大奥』第12巻P194より)

コロナウイルスの流行が長引く現代は、またもや人類とウイルス感染症との戦いの最中だ。先人たちが乗り越えてきたように、今回も必ず乗り越えられると希望を持ちたい。

太陽の地図帖『よしながふみ 『大奥』を旅する』


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