魔術師列伝

コラム|2021.8.27
文=澤井繫男

第2回  
ビザンツ(東ローマ)帝国のルネサンスと
「十二世紀ルネサンス」(1)

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今回の表題は一見、容易に思えるが、それほど簡単にはいかない。それは私たちが「ギリシア人」に関する知識に存外とぼしいからである。古代ギリシア人については、アテネやスパルタといった都市国家(ポリス)をはじめとして、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、と有名どころを一応学んでおり、なんとなく輪郭はつかんでいるが、共和制・帝政ローマに占領され、その後、イスラームに征服されたあとのギリシア人たちの動向がついぞわからないし、中等教育以降でもあまり言及されない。一言加えておくと、ローマ人は征服した古代ギリシア人を自国に連れ帰って奴隷としながら、彼らからギリシア文化を学んだと言われているが、ほとんどのローマ人は理念的なギリシア文化を理解できなかったので、多くのギリシア人はギリシアの故地(ビザンツ、あるいは古代ギリシア)に帰ってしまった、という説もある。
 ここで大きな視座を示しておこう。西欧・南欧・東欧・中近東には2つの大きな流れがある。1つ目は、東方のバビロニア帝国(メソポタニア)―ペルシア帝国(イラン)―アレクサンドロス大王によるマケドニア王国―ビザンツ(東ローマ)帝国、といった帝国主義の系譜。2つ目は主に西方の、ギリシアの民主制―ローマの共和制―ルネサンス諸都市の共和制―フランス革命、という民主主義(共和制)の係統。1つ目と、2つ目の潮流が対立を提示しているのは一目瞭然である。イタリアルネサンス期には、フィレンツ、シエナ、ヴェネツィアといった共和制都市国家もあったが、ミラノ公国、ナポリ王国などの君主制国家もあったので、一概に2つ目に分類することには無理があるが、当時イタリア半島が分裂していたので、ご容赦願いたい。要するに、「帝国主義」と「民主主義(共和制)」の対立である。

やはり考えねばならないのは、1つ目の「ビザンツ(東ローマ)帝国」の位置づけであろう。結論から言えば、東ローマ帝国とは「キリスト教化したギリシア人の(による)ローマ帝国」を指す。帝国民は、古代ギリシア人を「ヘレネエ(ギリシア人、ギリシア風の)と否定的に呼び、みずからを「ローマイオス」と称した。これは肯定的名称で、その実、古代ギリシアをキリスト教以前の異教(多神教)時代として認可せず、共和制ポリスを東ローマ「帝国」と自認するがゆえに、理解の対象外に置いていたことがわかる。
 ビザンツとは、首都コンスタンティノープルの旧名ビュザンティウムの古称である。ローマ帝国の首府がコンスタンティヌス1世(大帝、在位306-337年)によってコンスタンティノープルに最終的な決定をみたのが330年で、以後1453年にオスマントルコ帝国によって首都陥落にいたるまで、1000年余の長命を維持した大国である。その間、いくつもの王朝の興隆・衰退があったなかで、マケドニア朝(867-1057年)とパレオロゴス朝(1261-1453年)といった、中興の王朝と最後の王朝とに、それぞれ独自のルネサンス文化が起こっている点に留意すべきであろう。「12世紀ルネサンス」や「15、16世紀のイタリアルネサンス」にばかり目を奪われていると、見逃してしまうアドリア海をはさんだ向こう岸の東方の地の文化運動である。

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ビザンツ帝国みずからのアイデンティティは、上記のようにキリスト教とローマ帝国を受け容れて、ローマ人と自覚することにあったが、近代ヨーロッパ人がビザンツ帝国をどう認識していたかを考えてみると、存外に複雑である。それは裏返して言えば、近代ヨーロッパ人の自己認識にも関わってくるからだ。古代ギリシア人をみずからの過去に取り込む一方で、直接の継承者であるビザンツ帝国の存在を、帝国ゆえに、共和制の西欧社会から外した。その最中に、ビザンツ帝国では、マケドニア朝ルネサンスが起こっている。このルネサンスの特徴といえば、やはりローマ帝国の「再生」で、行政機関や法律を整え、イスラームの支配下にあった領土を奪還した。さらにスラブ地域にキリスト教(ギリシア〔東方〕正教;1054年、西方教会と分離・独立)を普及させた。このようなことから、経済や軍事面で帝国は繁栄し、当然、文化面にも良い意味での影響があって、宮廷に多くの文化人が集まってきて、古代ギリシア・ローマ時代の文献の研究が盛んになった。『抜粋』、『農業抜粋』(農業書)、『帝国の統治について』(帝国統治論)などが刊行された。また、アルファベット順での世界最古の百科事典で、国政指南の『スーダ辞典』が出ている。この点だけみると、始原回帰を旨とした、イタリアルネサンスによく似ている。

1204年のコンスタンティノープル包囲戦
パルマ・イル・ジョーヴァネ画

さて、これまで私は意図的にビザンツ帝国と記してきたが、これには訳がある。第4次十字軍(アンゲロス朝下;1202-04年)で、コンスタンティノープルが陥落し、帝国は分裂して、ラテン帝国、ニケア帝国、トレビゾンド、エピロスとなる。

ラテン帝国は「フランドル系」の王、死後はその弟の善政で栄えたが、弟王の没後衰退した。一方ニケア帝国(小アジアを主たる領土とする「ギリシア系」の国家。効率のよい政治と安定した財政の下、帝国は隆盛を誇った)は、ミハエル8世パレオロゴスが1261年、コンスタンティノープルを奪還して、ビザンツではなく東ローマ帝国(パレオロゴス朝)を創建した。「創建」と記したのは、ギリシア系の王による、ギリシア人のローマ帝国という帝国の再出発という意味で、ここに本来的意味での「東ローマ帝国」が誕生するからである。この王朝の下で「パレオロゴス朝ルネサンス」が生まれ、15、16世紀のイタリアルネサンスと深く関わってくる。まず、プラトンに憧れて名をプレトン(1360?-1452年)とした人士は、自分たちが古代ギリシアの子孫だと主張し、イタリアへおもむいてプラトン哲学について講演をしている。さらに、ギリシア語学者で外交官でもあったマヌエル・クリュソロラス(1350頃-1415年)は、対オスマントルコへの支援を求めてイタリア諸国を訪問し(1393年)、1397年には、フィレンツェ大学に招かれてギリシア語を教授した(というのも当時、イタリアでは南イタリアの一部の地域を除いて、ギリシア語を解する者がいなかったからだ)。クリュソロラスの弟子たち(彼を招聘しギリシア語も学んだコルッチョ・サルターティ、ラテン語にも精通していたレオナルド・ブルーニは、フィレンツェ共和国書記官長を共に務めし、能筆家で老コジモことコジモ・デ・メジチを友人に持ったポッジョ・ブラッチョリーニは、教皇庁秘書官であった。3人とも15世紀前半に活躍している。彼らをギリシア語修得第1世代という)。第2世代がフィレンツェ・ルネサンスの立役者である、15世紀後半に、アッカデミカ・プラトニカ(プラトンアカデミー)に集った知識人たちで、これは後述する。ちなみにこの時代のギリシア語はもう古代ギリシア語でなく、現代ギリシア語の素となっている中世ギリシア語の時代である。

〈第2回の1、了〉次回は9月10日です。

参考文献
伊東俊太郎 著『十二世紀ルネサンス 西欧世界へのアラビア文明の影響』岩波書店,1993年
井上浩一 著『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫,2008年
チャールズ・ホーマー・ハスキンズ 著、別宮貞徳・朝倉文市 訳『十二世紀ルネサンス【新装版】』みすず書房,1997年/『十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め』講談社学術文庫,2017年
リヒアルト・ハルダー 著、松本仁助訳『ギリシアの文化』北斗出版,1985年

澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。

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