山崎佳代子『ダダと詩人たち』

第3章
続・リトルマガジン『赤と黒』から『死刑宣告』へ ──都会詩の誕生②

連載|2024.12.6

「○●」を読む

「無題」から1か月後、『赤と黒』第4号(1923年5月刊行)に、萩原恭次郎は「●●」を発表する。2部から成る作品だ。『死刑宣告』では前の部分を「○●」と命名、第4章「愛は悲哀の薔薇なり」の最初に置いた。拝金主義をテーマとして虚無的な気分が漂い、グラフィカルな効果が、強烈な印象を与える。6連構成で、50頁と51頁に見開きで組まれ、左右の下部に8mm幅、11.5cmの太い水平線がリノカットで引かれている。51頁の左端に同じ幅の12cmの垂直線を引き、その上に直径8mmの黒い丸(●●)を、表題に対峙するように置いた。本文の活字の大きさを変化させ、○や●のほか、記号や線など、日本語の文字、言語体系にないものを混在させる。第2連では、文字と線とカタカナを用いて、活字でロケットらしい形、あるいは男性性器の形を描き、羅列した名詞(ピストル、オモチャ、金貨、太陽、銭)は、視覚にも訴える。当時の日本詩壇にとっては、衝撃的な作品だったはずだ。しかし恭次郎の独創ではない。アポリネールが詩集『カリグラム 平和と戦争のうた』(1918年)ですでに示したように、文字を、意味を表す手段として使うと同時に、造形の要素としても用いるヨーロッパ前衛詩の詩法の実践である。

『死刑宣告』50-51頁

 冒頭は、恋人の顔、強姦のモティーフをあしらい、暴力的な性行為を描いて、そこに「俺」が墓場から登場する。

 俺ハ春ノ日ヲ墓場カラ出テ来タ

 この詩句は、語りの視点が一人称単数「俺」にあることを示している。墓場という異界から来た「俺」、つまり死者の「俺」が語り手である。『死刑宣告』には、随所に幽霊のモティーフが現れるが、「俺」も幽霊なのだ。

 金貨、銭、ガマ口といった金銭に関わるモティーフとともに、月経、便所、強姦、血など生理や本能に関するモティーフが連なり、それに対峙して、自然の力を象徴する太陽が登場する。「女も正義も──銭だ! 」のように、A=Bの形式をとる断定文は、慣習では結びつかぬもの(女と銭、正義と銭)を結合して、すべてを金銭で解決する拝金主義を描き出す。金銭は、人間の生理、太陽に象徴される自然をも脅かす。「俺」は、その残酷さを暴き出す。

 太陽の光りだつて銭で買へる時代だ !

 局部(陰部)と太陽と銭が結びつけられ、腐敗、病理のイメージの中に「血」が流れる。性行為は愛を伴わず、太陽は銭の形に変容し、傷を治す膏薬の代わりに、銭が局部にハリつく。金銭によって自然は蝕まれ、人間の本性もゆがめられ、傷は治らず腐敗する。治癒の可能性は断たれた。「腐蠅」はおそらく「腐蝕」の誤植なのだろう。

 ──太陽形の銭が膏薬の代りにハリついてゐる局部から──
 腐蠅した血が流れてゐる

 ここで『赤と黒』に掲載された初出形と比べてみよう。『死刑宣告』ではグラフィカルな手法が駆使されているが、『赤と黒』の初出形は、雑誌という制約もあり視覚的に地味である。

 テキストには、いくつか変更がある。まず連の構成が異なる。『赤と黒』の初出形「●●」は3連構成だが、『死刑宣告』では6連構成をとる。初出形の第1連を3連に分け、中央部の「ピストル」で始まる3行を、視覚的に独立させて、視覚的な印象が強められている。初出形の第3連は2連に分けられた。分断することで、各連の意味が強められた。連の構成と活字の奇抜な配列が、視覚的に意味を強調する。

『赤と黒』4号10-11頁

『死刑宣告』では、恭次郎は記号を導入し、1行目に「──」、4行目に●●を加えた。3行目は、初出形の「●●」では「強姦された」だが、『死刑宣告』では「強」のあとに1文字空白を開けて伏せ字とし、怪しげな雰囲気が漂う。
初出形の「●●」の詩句「銭だツ ! 銭だよ みいんな銭だよ/ 一杯ガマ口につめこんである銭ぢやないか」は、『死刑宣告』の「○●」では以下のように文末の「よ」を削除して「 ! 」を付し、リズムに躍動感がある。

 銭だ! みいんな銭だ !
   一杯ガマ口につめこんである銭ぢやないか !

「●●」の初出形では「金よ 女よ 酒よ 歌よ」とあったが、『死刑宣告』の最終稿には「本よ」が加えられ、「金よ 本よ 酒よ 歌よ 女よ」となった。詩人や芸術家たちが酒場で乱痴気騒ぎをするのは、ヨーロッパ前衛芸術運動につきものだが、「南天堂時代」の詩人たちの「文学生活」が、透かして見える。恭次郎は、作品を次の詩句で結ぶ。21世紀の世界の都市の人間が、実感できる言葉だ。この詩句に異同はない。今もなお新鮮で、心に染みる。

 ──世の中は重い荷物だ しよつて起てない荷物だ
   厄介な邪魔な荷物だネ

「ドテッパラ」を読む

 恭次郎は『赤と黒』4号発表の「●●」の最終部9行を、「ドテッパラ」と名付けて『日本詩集』(1924年5月)に発表し、『死刑宣告』には第2章「鮭と人間の定価50銭也」の13番目に収めた。『死刑宣告』の29頁に置かれた「ドテッパラ」は、幅8mm、長さ16.2cmの垂直線が、7mmの間隔を置いて2本引かれている。2本目は上部から3.4cmの位置から長さ5.5cmの空白を置き、断絶のイメージを視覚化する。頁の下部に同じ幅で長さ11.5cmの水平線が引かれた。都会人の生理、疲労、死がテーマである。

『死刑宣告』28-29頁

 巷という都会の開かれた空間を舞台に、「白い洋傘のやうに」赤い舌を出して笑う「ナメタン」が現れる。ふらふらと「新緑をお菓子」と思うほど空腹で、奇妙な存在だ。果たして人間だろうか。どこか滑稽で、グロテスクだ。

 最初の4行がひとつのセンテンスを形成し、感嘆符が付される。その後は、記号●●●で始まり、異質な物を結合するA=Bの構文が、3センテンス続く。いずれも感嘆符を付した名詞文である。

●●●舞踏はガイ骨!
   赤いサケは血!
   踊り子は性欲の香料!

 『死刑宣告』では、初出形にない感嘆符を加えてグラフィカルな効果を高めた。また初出形では「舞踏場はガイ骨」とあったが、ここでは「舞踏」として比喩は機能的である。
 最終部のカタカナは、徘徊する「ナメタン」を嘲笑する。会話体で裸体のドテッパラを馬鹿にして、情けない奴だなあ、と人物評価をする。カタカナのセンテンスが詩的主体、つまり「俺」の声だとすると、「ナメタン」も、一人称単数の「俺」の視点から語られた詩だと考えられる。
 
 「ドテッパラ」は見開きの左側に収まる短い作品だが、右側の28頁の作品「ある男に対する軽蔑」も、病んだ都会を描く。2作品は、生理、病理、心臓、性欲、倦怠、傷、腐敗のイメージで繋がり、最後に「ドンヨリ! 腹つぺらし!」と、飢餓感が強調される。28頁の上部と29頁の下部に、リノカットで同じ幅の水平線が引かれ、躍動感がある。

山崎佳代子 (やまさき・かよこ)
詩人、翻訳家。1956年生まれ、静岡市に育つ。北海道大学文学部露文科卒業。サラエボ大学文学部、リュブリャナ民謡研究所留学を経て、1981年よりセルビア共和国ベオグラード市在住。ベオグラード大学文学部にて博士号取得(比較文学)。著書に『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』(左右社)、『パンと野いちご』(勁草書房)、『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『戦争と子ども』(西田書店)、『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫)など、詩集に『黙然をりて』『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』『死者の百科事典』(創元ライブラリ)など。 

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