魔術師列伝

カルチャー|2021.9.24
澤井繫男

第3回 『15、16世紀のイタリアルネサンス』

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15、16世紀のイタリアルネサンスに入るまえにどうしても触れておかなくてはならない人物がいる。フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74年)で、この桂冠詩人・道徳哲学者・書簡愛好者がいなかったら、ルネサンス文化運動は起きなかったであろう。「魔術師列伝」から少し外れるが、簡潔にその業績を記しておこう。

フランチェスコ・ペトラルカ

まず、法律家を目指してボローニャ大学で勉強中、古代ローマの政治家で文人であるキケロ(前106-前43年)やストア派の哲学者セネカ(前4?-後65年)の著作に出会って、目から鱗が落ちるような感慨を覚える。それはキリスト教普及以前の、多神教を旨とした現世肯定の「異教」との遭遇だった。これを機にペトラルカは、西ローマ帝国崩壊(476年)以前の古代ローマの文化を黄金時代とし、476年以降の、主にゲルマン民族の支配下に下ったイタリアの文化から、ペトラルカ存命の当代までを、「中間の時代」=「中世」=「暗黒時代」と位置づけた。「中世暗黒時代」説の誕生である。さらに、大学でのスコラ神学の衰えを見据えて、古代異教の「人文主義(世俗重視、人間中心、現世肯定、多神教等)」と正反対のキリスト教を融和・折衷して「キリスト教人文主義」を提唱した。「shouldの世界」と「how to の世界」の調和がここに生まれる―「天国に行くためには、この世をどうやって巧みに善く生きてゆくべきか、その方途として、古典古代の偉人たちの書を読むことで人格形成をし、人間的教養を身につけてゆく生活態度」を説いている。ペトラルカの成し遂げた仕事としてもう1点。上記のように、中世暗黒、これから古典古代の文化を取り入れ新たな第1歩を、という気概から、あきらかに時代を「区切って」おり、ここに「歴史意識」の誕生を私たちはみることが出来る。以下に登場する人物はペトラルカの教えを継いだ名士たちだが、時代背景的に師の教説が通じなくなって来ていた。

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主に15世紀後半のフィレンツェルネサンスが注目されるが、同時期のスペイン・アラゴン王家が支配するナポリでも、フィレンツェと同じ程度の高尚なルネサンス文化が華を開かせている。むしろナポリのほうが早かったといっても過言ではあるまい(ローマのカンピドリオの丘でペトラルカを桂冠詩人に列したのはアラゴン家以前のナポリの支配者で、フランス・アンジュー家のロベルト王であった)。加えて北伊の大国ミラノ公国の侵攻的領土拡張政策に堂々と立ち向かったフィレンツェ市民たちの心意気にも着目すべきである。

左:リノ・コルッチョ・サルターティ
右:レオナルド・ブルーニ

ペトラルカの思想の後継者でミラノ公国で大いに世話になった、フィレンツェ共和国書記官長リノ・コルッチョ・サルターティ(1331-1406年)、その弟子のレオナルド・ブルーニ(1370?-1444年)は、ペトラルカの「観念的平和論」を棄て、領土確保のため実戦重視で、主にサルターティがミラノ軍と戦い、フィレンツェの共和制を死守せんとした。

ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティ

ところが戦闘の相手のミラノ大公、ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402年)が対戦中に没してしまい、その後継者が虚弱で、フィレンツェは侵攻を免れる。ここには上昇機流に乗って、フィレンツェを支えた意気軒昂な市民階級の思潮がみられる。

ドイツから最終的にアメリカに渡った歴史学者ハンス・バロン(1900-88年)は、この事態を「市民的人文主義」の時代(1378-1453年)と命名した。これは当を得たもので、この線で人文主義をみていくと、単なる文学上の人文主義である「文人的人文主義」(1454-94年;「イタリアの平和」)の時期があって、アルプスを越えてイタリアの知識人が各地へ流出し、また各国・地域の有識者がイタリア(主にフィレンツェ)を訪れ、新鮮な知識を会得して帰国したことで、文化の普及とともに通俗化が起こる。いわゆる、フィレンツェルネサンスの黄金期である。

左から
マルシリオ・フィチーノ
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ
アンジェロ・アンブロージオ・ポリツィアーノ
サンドロ・ボッティチェッリ

哲学者・翻訳家マルシリオ・フィチーノ(1433-99年)、思想家ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-94年)、詩人アンジェロ・アンブロージオ・ポリツィアーノ(1454-94年)、画家サンドロ・ボッティチェッリ(1445?-1510年)などが活躍する(万能人レオナルド・ダ・ヴィンチ〔1452-1519年〕はこの時期ミラノに滞留していた)。彼らはコジモ・デ・メディチ(老コジモ、1389-1464年)がフィレンツェ郊外に設けたカレッジの別荘に集って論議を戦わせた。フィチーノはじめ、ギリシア語修得でいうと、第2世代に該当する。

コジモ・デ・メディチ

さて、ギリシア語修得第1世代と第2世代の間に活躍した傑物が3名いるので、この機会に挙げておく。『知ある無知』を刊行し近未来のコペルニクス説を半ば支持した、哲学者ニコラウス・クザーヌス(1401-64年)、文献批判学の祖となり教皇庁書記官も務めたロレンツォ・ヴァッラ(1407-57年)、後に教皇ピウス2世〔在位1458-64年〕として登位する、エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ(1405-64年)。みな15世紀初期に生まれ半ばで死去している。忘れられがちだが、きわめて重要な人物たちである。

左から
ニコラウス・クザーヌス
ロレンツォ・ヴァッラ
エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ

「文人的人文主義」のあと、文化の中心はローマや各都市の宮廷に移る(これらの政治の担い手の中核、つまり官僚として従事したのが人文主義者たちだった)。ちょうどイタリア戦争期(1494-1559年)に当たり、仮に名づけるとしたら教皇庁や各都市の宮殿を中心とした「宮廷風人文主義」とでも言おうか。しかし内実は外国軍に支配された分裂国家イタリアの知識人の新たな生き方の模索の時期でもある。ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527年)がその代表格であろう。彼の思想の中核はイタリアの統一はむろん、半島各国の「バランス・オヴ・パワー」だった。

ニッコロ・マキャヴェッリ

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 さて、15世紀後半はギリシア語修得第2世代の活躍期であり、ギリシア語原典からの直接の翻訳時代がやっと訪れたことになる。むろん、第1世代でも、レオナルド・ブルーニのような語学に秀でた人物は、プラトンの原典からラテン語に翻訳をしているが、かれのいちばんの功績は、プルタルコス(46?-120?年)著『英雄伝(対比列伝)』のラテン語訳で、本書はルネサンス期を通してベストセラーの位置を占めている。

ポッジョ・ブラッチョリーニ

また、古文書収集で活躍したのは能筆家のポッジョ・ブラッチョリーニで、コンスタンツ(スイスの北端でドイツの南端にある小都市)公会議(1414-18年)に随行し、周辺の修道院などで古文書の調査を徹底して行なった。ちぎれちぎれになった文書をいちいちつなぎ合わせ、何ヶ月もかかって浄書した。そのなかで重要な文書2書を挙げるとすれば、エピクロス派の哲学者ルクレティウス(前99?-前55年)著『事物の本性について』と、ケルスス(前25?-後50年?;ルネサンス中葉の著名なスイスの医師にして錬金術師はこのケルススを超えようとして「パラケルスス」と名乗った)著『医学論』が後世におおきな影響を与えた。ルクレティウスは作品を韻文でつづっているが、そのなかの一節がそのままボッティチェッリ筆の『春』のなかで具現化されている。フィレンツェの知識人たちは、ポッジョのもたらした多数の文献に狂喜し、研究に役立てた。

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「イタリアの平和」の40年間、ほぼフィチィーノの活躍で、12世紀ルネサンスとはべつの「文系」のギリシア語の文書が、原文からそのままラテン語に翻訳された。
 フィチーノによる、ギリシア語からラテン語への翻訳書の代表作(刊行年を表示)―
① 『ヘルメス文書』1471年
② 『プラトン著作集』1474-94年
③ プロティノス著『エネアデス』、1492年
 フィチィーノの自著・註解――
① プラトン著『饗宴』註解1474年
② 『プラトン神学』1474年
③ 『人間の生について』1489年
④ 『太陽論』1494年

66年間の人生で見事なものである。各作品には翻訳が出ているので、関心のある方は検索してほしい。とりわけ、新プラトン主義者であるプロティノスの『エネアデス』の翻訳のおかげで、「新プラトン主義」が一世を風靡する新思潮となる(当時の「流行思想」と皮肉る研究者もいるが、あながち間違ってはいない)。

プラトンとアリストテレスとプロティノスで三大哲学者と呼ばれている。「新プラトン主義」について、後日、詳細に解説するが、ここではこの哲学が、プラトン哲学とアリストテレス哲学の融和・折衷であることだけを知ってほしい。プラトン哲学とアリストテレス哲学との、良いとこ取りだと思ってもらっても構わない。

フィチーノが『ヘルメス文書』を最初に翻訳したのは、老コジモからのたっての願いが理由だ。老コジモは『ヘルメス文書』が聖書より古い、一種の「創造神話」だと伝え聞いていたからで(ルネサンス期の特徴のひとつに「尚古主義(旧いものにこそ価値がある、という考え)」があって、それにしたがったまでである。ちなみに、老コジモの侍医の息子がフィチーノで、フィチーノ自身も本職は医師だった)。『ヘルメス文書』の成立は、紀元前3世紀~後3世紀のあいだで、エジプトのアレキサンドリアを中心に、形骸化したギリシア哲学に対抗して、収集された文書の集成である。最後にひとつ、フィチーノはヘレニズム文化の知(『ヘルメス文書』、『エネアデス』)を翻訳したが、彼自身はあくまでキリスト教徒として生きた。他の知識人たちも同様だった。

〈第3回、了〉次回は10月8日です。

翻訳文化の効能

参考文献
澤井繁男著『イタリア・ルネサンス』、講談社現代新書,2001年
澤井繁男著『ルネサンス再入門』平凡社新書,2017年
スティーヴン・グリーンブラット著、河野純治訳、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』柏書房,2012年

澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。

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