猫を通して日本を知る、「ゆかし日本、猫めぐり」。第16回は、石川啄木の歌を体現したような、美しい瞳の猫が登場。
「黒き瞳」
ケンちゃんは目が見えない。
生まれつき、猫も人間も見たことがない。
縁あって、今の家に引き取られた。
ケンちゃんにとって、
人間のおかあさんの優しい声とぬくもりは、
世界のすべて。
その黒く大きな瞳は、
この世の清らかなものだけを吸い込んだよう。
ふと、啄木の歌を思い出した。
世の中の明るさのみを吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり
――石川啄木 『一握の砂』の「忘れがたき人人」より
(参考:別冊太陽 日本のこころ195 「石川啄木 漂白の詩人」)
享年26。短い生涯にもかかわらず、広く世に知られる短歌を数多く残した石川啄木。その創作は、ごく初期を除いて、常に貧困による生活難の中で行われた。生前出版されたのは、詩集と歌集1冊ずつ。だが、小説や評論、日記、手紙などでも卓越した才能を見せた。
啄木の故郷は、北岩手郡渋民村(現在の盛岡市渋民)。西に岩手山、東に姫神山を望み、南北に北上川が流れるこの土地で、啄木は神童として育ち、早熟な少年時代を送った。歌人の与謝野鉄幹が創刊した文芸誌『明星』に影響を受け、詩や歌を作り始めたのは14歳の頃。後に妻となる堀合節子との恋愛が急速に進んだのも、中学時代だった。やがて16歳で自作の短歌1首が『明星』に掲載され、文学の道を志して上京。だがその生活は、4ヶ月ほどで行き詰まった。帰郷後は『明星』の同人となって注目され、節子との結婚も果たしたが、住職だった父が宗費の滞納で曹洞宗宗務院から住職罷免の処分を受け、啄木が一家の家計を背負うことに。21歳で村を追われるように去ってからは、知人を頼って北海道を転々とし、代用教員や新聞社勤めなどで家計を支えた。
そんな啄木に歌が甦ってきたのは、22歳のとき。当時「自己の文学的運命を極度まで試験する決心」をもって、再び単身上京した啄木は、小説6編などを次々と執筆。だが発表の機会はなく、生活は困窮した。煙草1本さえ買えない日々の中で、こんこんと溢れ出したのが歌だった。「何を見ても何を聞いても皆歌だ」と日記に書き、一晩に141首の歌を作ることもあったという。濃密な歌との日々は、翌年朝日新聞社の校正係として働くようになってからも続いた。
今回紹介する歌は、啄木が東京時代に作った約1000首の歌から、551首を選んで構成した歌集『一握の砂』の「忘れがたき人人」の章で登場する。「黒き瞳」の持ち主は、函館時代に知り合った教師、橘智恵子。啄木は、全部で5章から成るこの歌集で、喪失した故郷やさまざまな土地での思い出、さらに、貧しい暮らしの中の何気ない瞬間を掬い上げ、その想いを愛おしむように歌う。みじめさや悲しさ、命のはかなさや尊さ……。一生活者としての率直な歌は、時代を超え、疲れ傷ついた人の心に、今も沁みとおるように語りかける。
今週もお疲れ様でした。
おまけの1匹。
こちらも、世の中の明るさのみを吸ったような
無垢な瞳。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。