有職故実で見る『源氏物語』

カルチャー|2023.3.1
八條忠基

第八帖 花宴

<あらすじ>
二月。内裏・紫宸殿(ししんでん)で桜の宴が開催されました。帝から「春」という題をもらって源氏が詠む漢詩の素晴らしさ。前年の紅葉賀(もみじのが)を思い出した東宮から冠を飾る挿頭(かざし)をもらい、舞の真似事を披露する源氏の姿がまた優美です。頭中将の舞う「柳花苑」も素晴らしく、帝は御衣を下賜するのでした。
 その夜。酒に酔った源氏は後宮の飛香舎(藤壺)あたりを徘徊して藤壺の宮に逢えないかと様子を窺いますが、戸口がしっかり締まっています。どうにも心が納まらない源氏が今度は弘徽殿(こきでん)に向かうと、こちらは戸が開いているのです。「不用心なことよ」と思いながら覗き込みますと、「朧月夜(おぼろづきよ)に似るものぞなき」と歌いながら若い女が来るではありませんか。怖いもの知らずの源氏は女の袖をつかまえて「浅からぬ縁があったのです」と、酔いにまかせてそのまま抱いてしまいました。翌朝、名を名乗らないまま扇を交換して別れた二人。源氏は女からもらった月と水面を描いた扇を眺めながら、東宮の母・弘徽殿女御の妹のうちの誰かだろうと、あれこれ想像するのです。
 三月。右大臣邸で藤花の宴が開催されました。朧月夜の君は、四月には自分を東宮の妃にしようと考えている親たちの思惑と、あの夜の相手への想いのはざまで悩んでいました。右大臣から宴に招かれた源氏は、政敵とも言える右大臣家訪問を敬遠しましたが、帝から促されて、もったいぶって出かけることになりました。
 源氏は桜襲(かさね)の唐織の直衣に、葡萄染の下襲(したがさね)の裾を長く引く「大君姿(おおきみすがた)」。花よりもなお美しい姿で人々を圧倒します。宴の盛りに酔った振りをして物陰に隠れ、姫たちを眺めていた源氏は扇に絡めた歌を姫たちに投げかけ、ついに朧月夜の姫を捜し当てるのです。

<原文>
「如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。 后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。」

<現代語訳>
如月の二十日過ぎに、南殿の桜の宴をお催しあそばす。中宮と春宮の御座所を、玉座の左右に設けて、お二方が参上なさる。弘徽殿の女御は、中宮がこのようにお座りになるのを、機会あるごとに不愉快にお思いになるが、見物だけはお見過ごしできないで、参上なさる。

 「南殿」というのは内裏の紫宸殿のこと。内裏は本来は天皇の私的空間でしたが、平安中期頃から政治の舞台となり、紫宸殿は政治上の正殿として扱われるようになりました。紫宸殿の前庭の東側には桜、西側には橘が植栽され、それぞれ「左近の桜」「右近の橘」と並び称されました。その左近の桜が見頃になったので宴会を開催したのです。なお、この「左・右」は紫宸殿の中から庭を見たときの方向を指します。
 現代にも受け継がれている「左近の桜」ですが、もともとは梅でした。奈良時代前期に日本に渡来した梅は、先進国・唐からの舶来品ということで珍重されたのです。『万葉集』では梅を詠んだ歌の数が桜の歌を上回っていましたが、『古今和歌集』になると逆転します。平安前期、日本に自生していた桜に対する再評価があったのでしょうか。
 鎌倉初期の『古事談』によれば、「左近の梅」が承和年間(八三四~八四八年)に枯れたため、仁明天皇の御代(八三三~八五〇年)に、梅に代わって桜が植えられたとありますので、平安時代の早い段階から梅が桜に変わったようです。そしてその桜の木は天徳四年(九六〇)の内裏焼亡で焼失し、重明親王の邸にあった吉野の山桜を移植したとあります。
 『源氏物語』では「若紫」の帖で源氏が北山の僧都に贈った歌では
 面影は身をも離れず山桜
   心の限りとめて来しかど
と、若紫の君を山桜にたとえています。全編を通してのヒロイン・若紫の君(紫の上)がたとえられるように、桜の花は最高の美を意味するようになっていたとも言えるでしょう。

<文献>
『古事談』(源顕兼)
「南殿の桜の樹は、本は是れ梅の樹なり。桓武天皇遷都の時、植ゑらるる所なり。而して承和年中に及びて枯れ失せり。仍りて仁明天皇改め植ゑらるるなり。其の後天徳四年<九月二十三日>、内裡焼亡に焼失し了んぬ。仍りて内裡を造る時、重明親王<式部卿>家の桜の木を移し植うる所なり<件の木は、本は吉野山の桜の木、と云々>。橘の木は本自生へ託く所なり。遷都以前、此の地は橘大夫の家の跡なり。」
『日本三代実録』
「貞観十六年(八七四)八月二十四日庚辰。大風雨折樹発屋紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨等樹木有名皆吹倒。」
『禁秘抄』(順徳天皇)
「在紫宸殿巽角。是大略自草創樹歟。貞観此樹枯自根纔萌。坂上瀧守奉勅守之枝葉再盛云々。」
『河海抄』(四辻善成)
「花宴事。延喜十七年三月六日乙卯御記曰晩頭常寧殿看花(中略)延長四年二月十七日御記曰此日殿前桜花盛開仰召文人聊開花宴。」

京都御所の紫宸殿
左近の桜

<原文>
「楽どもなどは、 さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、 春の鶯囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀の折、思し出でられて、春宮、かざし賜はせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちてのどかに袖返すところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。」

<現代語訳>
(舞楽類などは、改めて言うまでもなく万端御準備あそばしていた。だんだん入日になるころ、「春鴬囀」という舞が、とても興趣深く見えるので、源氏の君の御紅葉の賀の折を、自然とお思い出されて、春宮が、挿頭を御下賜になって、しきりに御所望なさるので、お断りし難くて、立ち上ってゆっくりと袖を返すところを、一さしお真似事のようにお舞いになると、当然似るものがなく素晴らしく見える。)

 「春鶯囀(しゅんのうでん)」は唐楽で、唐の高宗がウグイスの鳴き声を真似て作らせたと言われます。唐朝では立太子の際に東宮殿でこの曲を奏すれば、必ずウグイスが来て囀(さえず)るとされていました。華やかなめでたい雅楽・舞楽なので紫宸殿での桜の宴には相応しいものと言えるでしょう。舞楽では「常装束」で専用の「甲(かぶと)」をかぶり、六人または四人で舞うとされます。ただし源氏は「かざし(挿頭)」を賜っていることから、「甲」をかぶるような特別な舞楽装束ではなく、通常の装束で舞っていたことがわかります。
 「挿頭」は冠に飾る植物で、こうした華やかな舞人が賜って冠に挿して舞います。時と場合で用いる植物は異なりましたが、『西宮記』には「試楽日、挿小竹」とあります。そして『古事談』には「一条天皇の御時、臨時祭の試楽に藤原実方が遅参して挿頭を賜われず、清涼殿の庭の呉竹(くれたけ)の枝を折って冠に挿して、それが優美であると賞賛され、それ以後は試楽の挿頭には呉竹の枝を用いるようになった」とあり、単なる「小竹」が「呉竹」と定まったとされます。
 そのほか、六位以下の人事の儀式「列見(れっけん)」「定考(こうじょう)」などの際に、大臣や納言、参議などの高官が冠に飾りました。これは審査員である高官のそれぞれの立場をわかりやすくする意味もあったでしょう。
 儀式に「挿頭」を賜る伝統は今日まで受け継がれ、即位の礼「大饗(だいきょう)の儀」に際しては、参列者は銀製の品を賜ります。これは冠に飾るものではなく室礼の装飾品であるため「挿華」と表記されています。そのモチーフは、大正度は「桜と橘」、昭和・平成・令和度は「梅と竹」でした。

<文献>
『枕草子』
「調べは風香調、黄鐘調、蘇合の急。鶯のさへづりといふ調べ。」
『河海抄』(四辻善成)
「春鶯囀。南宮横笛譜云昔善舞此曲者有左大臣源信朝臣及巨勢式人等仍承和御時、勅信朝臣以此曲令伝習畢成康親王合于御笛舞於清凉殿前視之者无不感泣。」
『新儀式』
「大臣奏請召雅楽寮可許、訖雅楽寮相分参入自日月華両門、於庭中奏楽、奏楽終頭、第一親王進挿頭机下、執花勝而跪奉之皈座、大臣仰参議以時花賜王卿已下挿頭。」
『古事談』(源顕兼)
「一条院の御時、臨時の祭の試楽に、実方中将遅参するに依りて挿頭の花を賜はらず。逐ひて舞に加はる間、竹台の許に進み寄りて、呉竹の枝を折りて之れを挿す。優美の由満座感歎す。之れに依りて試楽の挿には永く呉竹の枝を用ゐる、と云々。」
『西宮記』(源高明)
「挿頭花事。藤花、大嘗会及可然時、帝王所刺給也<挿左方>。祭使并列見之時、大臣藤花挿左方巾内。雖納言、当日上卿尚挿左方。其納言者用桜花、参議者山葺<皆挿右方、至非参議弁以下者、以時花挿巾後>。八月定考時、(大臣)白菊<金茎>、納言黄菊、参議龍胆、弁少納言時花。同列見儀、臨時宸宴時、除御之外、可挿後方。踏歌綿花者立冠額。童挿総角。臨時祭、使藤花<挿左方巾也>、舞人桜花<挿右方>。試楽日、挿小竹、陪従山葺、近衛使次将無挿頭。四月祭時、近衛以桂為挿頭。」



『舞楽図』より「春鶯囀」
桜の挿頭
平成「大饗の儀」の挿華

<原文>
「女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。かやうにて、世の中のあやまちはするぞかしと思ひて、やをら上りて覗きたまふ。」

<現代語訳>
(女御は、上の御局にそのまま参上なさったので、人気の少ない感じである。奥の枢戸も開いていて、人のいる音もしない。
 「このような無用心から、男女の過ちは起こるものだ」と思って、そっと上ってお覗きになる。)

 源氏は桐壺帝の寵愛を良いことに、後宮でやりたい放題。弘徽殿の細殿(ほそどの)に忍び込み、奥の「枢戸(くるるど)」が開いているのを見つけて「このような無用心から男女の過ちは起こる」などと、自分のことを棚に上げてつぶやきます。
 「枢戸」は回転して開閉する扉です。蝶番(ちょうつがい)を使わず、扉の心棒の上下の突起「枢(とまら)」を上下の「框(かまち)」(横材)の窪み「枢(とぼそ)」に入れて回転させるようになっています。これは現代でも回転軸を「枢軸(すうじく)」と呼ぶ表現に残っています。「くるる」という読みは、くるくるとした軸の回転を表現したものでしょう。
 寝殿造の建物にはさまざまな形状の建具がありましたが、通常、人が出入りする部分には両開きの枢戸が多く用いられ、「妻戸(つまど)」と呼ばれました。「妻」は建物の端を意味し、それ以外の場所にあるものを「唐戸」と呼んだともされますが、のちに設置場所に関わらず妻戸と呼ばれたようです。
 扉は左右に開く二枚戸のほか、中折れ式の四枚戸「大妻戸」もあり、扉の内側には「猿つなぎ」と呼ばれる掛け金が付けられて、外からは容易に開かないようになっていました。しかし弘徽殿の女房たちは不用心に開け放していたため、源氏の侵入を許したのです。源氏はここで東宮に輿入れ予定の「朧月夜の君」(右大臣の六の君、弘徽殿女御の妹)を見つけてしまうのです。そのことが源氏が須磨に隠棲する原因となります。

<文献>
『落窪物語』
「枢戸の廂二間ある部屋の、酢、酒、魚などまさなくしたる部屋の、たゞ畳一枚、口のもとにうち敷きて」
『紫式部日記』
「例の、渡殿より見やれば、妻戸の前に、宮の大夫、春宮の大夫など、さらぬ上達部もあまたさぶらひたまふ。」
『禁秘抄』(順徳天皇)
「夜御殿。四方有妻戸。南大妻戸一間也。」
『たまきはる』(建春門院中納言)
「大方の御所のしつらひは、後ろの妻戸にても障子にても、うるはしき絹屏風長々と立てて」
『藻塩草』(宗碩)
「くるゝ戸<源氏くるゝど。さしたると也>。」



『春日権現験記』より妻戸(国立国会図書館デジタルコレクション)
『春日権現験記』より四枚の大妻戸(国立国会図書館デジタルコレクション)

<原文>
「人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り換へて、出でたまひぬ。(中略)かのしるしの扇は、桜襲ねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。」

<現代語訳>
(女房たちが起き出して、上の御局に参上したり下がって来たりする様子が、騒がしくなってきたので、まことに仕方なくて、扇だけを証拠として交換し合って、お出になった。(中略)あの証拠の扇は、桜襲の色で、色の濃い片面に霞んでいる月を描いて、水に映している図柄は、よくあるものだが、人柄も奥ゆかしく使い馴らしている。)

 名を名乗らないままに朧月夜の君と別れた源氏。扇を交換して「しるし」とします。その扇は「桜がさね」とありますが、これはどのような扇でしょうか。「青表紙本」など古い写本には「桜の三重がさねにて」と記されたものも多いので、解釈が難しいところです。
 ただの「桜がさね」であれば、表に白、裏に紅の紙を張った「蝙蝠(かわほり)扇」の裏の紅地に月を描いたと解釈できます。しかし「三重がさね」であれば「檜扇(ひおうぎ)」である可能性が高くなります。『枕草子』の「なまめかしきもの」に「三重がさねの扇。五重はあまりあつくなりて、もとなどにくげなり」とあるように、檜扇は「重」単位で表現されました。薄い檜の板八枚を一組にして、三組重ねた扇が「三重かさね」です。五重では分厚くなりすぎて持ちにくいと清少納言は言っています。つまり三重かさねは二十四枚の薄板で構成された檜扇。通常、偶数を嫌って一枚足したり引いたりして二十三枚あるいは二十五枚とします。なお、「枚」は便宜上の表現で、正しい助数詞は「橋(きょう)」です。
 「蝙蝠扇」は夏に冷却用に用いることが本儀でしたから、春の桜花の宴には似合いません。『栄花物語』(謌合)の春秋の歌合わせでは、春方は檜扇を用いています。ですからここはやはり檜扇であったのでしょう。その場合に「濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ」とはどのようなものであったのか。表裏で描き分けたのか、表面に色のグラデーションを描いて濃い部分に月を描いたのか。想像するのも楽しいものです。

<文献>
『枕草子』
「なまめかしきもの ほそやかにきよげなる君達の直衣姿。(中略)薄様の草子。柳の萌え出でたるに、あをき薄様に書きたる文つけたる。三重がさねの扇。五重はあまりあつくなりて、もとなどにくげなり。」
『栄花物語』(謌合)
「皇后宮哥合せさせ給。左春右秋なり。装束も、やがてその折に従ひつゝぞしたりける。(中略)右は綿入れず。紅葉の人たち、瑠璃をのべたる扇どもをさし隠したり。(中略)左の人々檜扇どもなり。」
『河海抄』(四辻善成)
「檜扇の両方のうへ三枚つゝをうすやうにてつゝみて、色々のいとにてとちてすゑにあはひむすひに結ひたれたる也。五重扇同風情也。」



近代の三十八橋檜扇
『春日権現験記』より蝙蝠扇(国立国会図書館デジタルコレクション)

<原文>
「御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。桜の唐(から)の綺(き)の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。」

<現代語訳>
(御装束などお整えになって、たいそう日が暮れたころ、待ち兼ねられて、お着きになる。

 桜襲の唐織りのお直衣、葡萄染の下襲、裾をとても長く引いて。参会者は皆袍を着ているところに、しゃれた大君姿の優美な様子で、丁重に迎えられてお入りになるお姿は、なるほどまことに格別である。花の美しさも圧倒されて、かえって興醒ましである。)

 フォーマル度の高い宴会では、参加者は公式の「位袍(いほう)」(束帯や衣冠で用いる位階当色の袍)を着用することがスタンダードでした。しかし天皇の特別な許可があれば、袍を直衣に替えることが許されました。袴も「表袴」でなく「指貫(さしぬき)」とした「直衣布袴」の姿を「大君姿」と呼ぶのは、皇族男子(大君)の姿であるからです。他の参加者が位袍であるところに、ステータスシンボルの華やかな直衣姿で登場した源氏の光り輝く様が見て取れます。
 「桜の唐(から)の綺(き)の御直衣」の「桜」は重ね色目の「桜」(表は白で裏が赤あるいは紫)なのか、全体が桜色に染められたものなのか不明ですが、当時の一般的な解釈では重ね色目の「桜」でしょう。当時の絹地は薄かったので、裏地の赤は透けると桜色に見えます。
 そして「唐の綺」ですが、「綺」を最古の部首別漢字字典『説文解字』(後漢時代)で見ますと「文繒也」とあります。つまり「文繒」は文様のある綾絹のこと。『源氏物語』では「橋姫」の帖に「此の袋を見給へば、唐の浮線綾を縫ひて」とあり、浮織(うきおり)の「浮線綾(ふせんりょう)」を「唐の」としていることから、「唐の綺」は「浮織」のことと推測されます。
 一般的に糸が浮くように織る浮織は華やかで若年者の装束に用いることが多いとされました。ですから当時二十歳の源氏には適しているのですが、「行幸」の帖にも「六条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣ひき重ねて、しどけなき大君姿、いよいよたとへむものなし」とあり、そのとき三十六歳の太政大臣である源氏が同じような装束を着用しています。源氏の変わらぬ美しさを表現しているとも考えられますが、「唐の綺の御直衣」が必ずしも若年者専用ではなかったことがわかるでしょう。

<文献>
『西宮記』(源高明)
「上臈者直衣下着下襲<随便不常事>。」
『小右記』(藤原実資)
「寛和元年二月十三日戊子、巳時許参院。今日御子日也。御々車令向紫野給。(中略)公卿皆騎馬着直衣下重以纓柏挿。」
『河海抄』(四辻善成)
「飛香舎藤花宴有奥<延喜二年三月廿日此日左大臣於飛香舎藤花下有献物事云々>。」
「からのきとは唐綺也。うすきからあや也。」
「直衣布袴宿老人可着之由見中右記。源氏雖非宿老依為尊者着之歟。おほきみは王の字也」
『胡曹抄』(一条兼良)
「桜御下襲<表白瑩、裏蒲萄染(浅紫色歟)>。」
「衣色事(中略)桜(冬春)面白、裏赤花。」
『桃花蘂葉』(一条兼良)
「直衣布袴といふは。直衣に下襲指貫を着する事也。源氏物語にも見えたり。邂逅事也。」



※本文の『源氏物語』引用文と現代語訳は渋谷栄一校訂<源氏物語の世界>より

次回配信日は、4月3日です。

『花宴』の「藤花宴」の場面(提供:井筒グループ)
桜の唐綺
ヤマザクラ(山桜、学名:Cerasus jamasakura)

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』『有職植物図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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