都築響一 & nobunobu(鈴木伸子)が歩く

昭和ビル遺産の記憶 #2│東急百貨店本店(渋谷)

カルチャー|2023.1.25
文=鈴木伸子 写真=都築響一

失われつつある昭和の名ビル

 2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
 1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
 近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
 東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
 そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
 連載第2回は渋谷の東急百貨店本店を取材しました。

東急百貨店本店

住所 東京都渋谷区道玄坂2-24-1
竣工 1967年
設計 東急不動産
施工 東急建設

左/1階エレベーター周りは赤いトラバーチン石とシルバーの金属壁面を組み合わせ縦線を強調したシブいデザイン
右/壁面に作り付けの時計。60-70年代のビルには、このような壁時計が設置されているのをよく見かける
1階エスカレーター周りもゆったりとした空間。開店時は南側がメインエントランスで、その正面にこのエスカレーターが位置していた
屋上の床の陶器タイルは恐らく竣工時からのものだということ。開店時にはここでグループ・サウンズの人気スター、ザ・タイガース、ザ・スパイダースのライブが繰り広げられたとか。70年代には水の流れ落ちる人工滝も設置された
こちらの1階南側入口が開館時の正面エントランスだった(現在は閉鎖中)
70年代に増設されたシースルー・エレベーター(展望エレベーター)は「クリスタルビュー」と命名された。そのロゴデザインにも70年代的な趣きがある
左/展望エレベーター・クリスタルビュー内部のデザインも70年代ものならでは。ガラス製のエレベーター籠のデザインや天井のUFOのような円盤状の装飾も味わい深い
右/クリスタルビュー内からは、文化村通りの延長線上に駅前のスクランブルスクエアが見える。閉店前に訪ねてぜひこの景観を実際に味わってみてほしい
3階特選婦人服フロアの床は、70年代のリニューアル以来のもので、高級御影石貼り
南東角の階段には、開店時からのものと思われるデザインの階数表示が見られる
1号階段は、開店時のメインエントランスであった南側入口の正面に位置していた。自然光の入る屋上フロアに出てみると、石材貼りの壁面、床のPタイルの質感をより美しく感じる
1号階段の階数表示にも60年代的なテイストが残っていた
1階東側には、地下の食料品売場への階段がなぜか横に2つ並んでいる
現在の外壁デザインは1989年のBunkamuraオープン時にリニューアルされたもの。Bunkamuraのイメージコンセプトである船出(出発)に合わせ、帆船をイメージする白の外壁、マストに見立てたポール、帆をイメージするバルコニーを設けた
本店南西側にはBunkamuraのメインエントランスがある。1989年にオープンしたBunkamuraは、東急百貨店本店に、そして渋谷の街に新たな来客、客層をもたらした

約55年前の1967年11月1日に開店

 渋谷の坂上に建つ東急百貨店本店が、2023年1月31日に閉店します。
 谷底にある渋谷駅からスクランブル交差点の人混みを抜け、文化村通りの坂道を上った先に現れるその店舗建築はどっしりとした威容を誇り、店内にはゆったりとした雰囲気が漂います。隣りには音楽ホールや劇場、美術館などの複合文化施設・Bunkamuraもあって、あたりには駅前やセンター街などとはまったく異なる世界が広がっています。
 ここは渋谷の繁華街の結界でもあり、その背後は松濤、神山町、富ヶ谷などの高級住宅街。東急百貨店本店というデパートは、その界隈に住む富裕層や、東急沿線の目黒、世田谷エリアに住む方々がお買い物に訪れるというイメージの高級店です。

1967年11月1日。本店開業日の新聞広告。ポップなグラフィックデザインに目を奪われる。東急百貨店取締役社長でもあった五島昇直々のメッセージにも注目

 店が開店したのは今から約55年前の1967年11月1日。当時、渋谷駅からこの店までは人通りも少ない寂しい街並みだったとか。以前ここにあった渋谷区立大向小学校が移転し、その跡地を東急が入手してこの店を開店したのです。
 64年には、付近の神宮・代々木地区が東京オリンピックの会場となったため、当初ここには東急が“スポーツセンター”を建設する予定だったそうです。
 当時の渋谷は副都心として新宿や池袋に後れをとっていたこともあり、この、駅から離れた土地に新たな集客施設を建設することで駅前に密集していた渋谷の繁華街を広げようとしたのがその計画意図でした。
 しかしその頃、それまで渋谷に縁のなかった西武百貨店が駅前に渋谷店を開店するという情報が入り、スポーツセンターの計画は、より集客性の高い百貨店に変更されます。
 そして、1968年4月の西武渋谷店開店より約半年早い、前年の11月に東急百貨店本店は開店。それ以後、渋谷の街を常に盛り上げてきた東急vs.西武のライバル関係は、どうもこの両デパートの出店競争が端緒だったようです。
 それまで渋谷駅前には1934(昭和9)年に開店した東急東横店(旧・東横百貨店)がありましたが、東急百貨店本店は高級店・専門店として、そちらと差別化する意味もあって「本店」と命名されたという経緯があります。

 現在の店舗面積は1フロア約3000平方メートルですが、開店時はその約半分の、1フロア1500平方メートルほどで、3年後の1970年に西側半分が増築されて現在の広さになりました。
 また、建物外側に尖塔のように聳えているガラス貼りの展望エレベーター「クリスタルビュー」は、1973年に増設されたものなのだとか。エレベーターの内部から外の景色を眺めることができるこの種のシースルー・エレベーターは70年代の商業施設で大いに流行したものですが、これが後付けされたものだったという事実には驚きました。

 デパートとはその時々の最先端の商品を販売する商業施設。その宿命もあり、現在の東急百貨店本店の店内はほとんど開店当時の姿を留めずに改装されています。ただし、エレベーター周り、階段周りなどは、どこの建物においても改装がむずかしいようで、竣工時からのものと思われる内装が残されている例が多いのです。
 ここでも、階段、エレベーター周りには創建時・増築時からのものと思われる趣きのある石材の壁面、作りつけの時計、階数表示などが残され、それらを眺めて回るだけでもちょっとした55年前の建築ツアーを楽しむことができます。
 また、3階の特選婦人服売場の床は、70年代当時からのものと思われる高級御影石貼りだとか。高級品フロアの床は高級石材貼りという法則が成立することを改めて認識しました。

1階正面入口左脇には、開店から今日までの年表が展示されている

高級店・専門店としての地位を確立

 現在、お店の正面入口脇や4階特設スペースで、開店時からの「55年の歩み」の展示が行われていますが、それを見ると、開店当初は1-3階がヤング、OL、マダム向けの洋装ファッション、4-5階が呉服・和装、6階がメンズファッション、7階スポーツ、オーディオ、ボウリング、楽器などのレジャー関連売場と催事場、8階はレストラン街というフロア構成だったそうで、驚いたのは、呉服関連の売場が2フロアもあったことです。
 確かに、私が子どもの頃、母や祖母とデパートに行くと呉服売場に立ち寄るのがお決まりのコースで、畳敷きの売場に上がり込んで店員さんに反物を出してもらい、母たちが「派手だ。地味だ」と品定めしていたことを思い出しました。それは子どもにとって永遠とも思える退屈で耐えがたい時間だったのですが、それをクリアしないとおもちゃ売場にもお好み食堂にも連れていってもらえない、デパートにおける一つの関門でした。
 さらに驚いたのは、当初この東急百貨店本店には食料品売場がなかったということ。今、デパートと言えば、デパ地下=地下の食料品売場が人を呼び込む人気フロアとなっていますが、東急百貨店本店地階に食料品売場が開設されたのは、なんと、お隣りにBunkamuraがオープンした翌年の90年のこと。それまでは8階のレストラン街に隣接した売場での、お菓子、フルーツ、銘茶、佃煮などの取り扱いのみだったそうです。
 8階のレストラン街も、開店当初は「超一流の味の散歩道」と題してフランス料理、中華、日本料理など高級店5店のみが入居。60年代にはまだ百貨店でメジャーな存在だった“お好み食堂”が設けられていないことにも、他店と一線を画していたことを感じます。

67年11月1日の開店当日。現在とは異なり、正面入口は南側にあった

 また、1967年前後はグループ・サウンズ、ミニスカートなどが大ブームだった時代。開店時に屋上で行われたイベントでは、トップアイドルだったザ・タイガースやザ・スパイダースが演奏するなど、華やかなゲストがお祭りムードを盛り上げたようです。当時はティーンエージャー、ヤング層がファッションや風俗面で台頭し始めた時代。そのタイミングで開店した東急百貨店本店が、現在の客層とは異なる若者層をもターゲットにしていたことを意外に思います。

開業当時の店内。左から銀座ヨシノヤ(婦人靴)、資生堂(化粧品)、芝翫香(宝飾品)の売場。銀座などの高級専門店が数多く出店していた

 今回の取材でお話を伺った東急百貨店営業企画部部長の石田晃也さんは1991年入社。当初は日本橋店に勤務されていたそうで、99年の東急日本橋店の閉店時にはお店のシャッターを閉鎖するボタンを押す役割も経験されたとか。
 石田さんの入社当時はまだ東急百貨店本店開業時からの先輩たちが数多く在職されている時代で、ある時、そんな大先輩から授かったのが、東急百貨店副社長の山本宗二氏による百貨店の商いの基本がまとめられた『山本宗二言行録』という書物だったそうです。
 東急百貨店本店の開業以前、日本が高度経済成長期に入ると、そごう、大丸などの関西のデパートが東京に次々に進出し、一方で池袋には東武、西武、新宿には小田急、京王など鉄道会社がターミナル駅にデパートを開店させます。百貨店業界の競争は熾烈になり、東急(当時は東横百貨店)の業績は悪化。
 そこで、1963年、東横百貨店の経営立て直しのために、東急電鉄社長で東急グループの二代目総帥・五島昇が百貨店社長に就任。そして副社長に、呉服店系百貨店である伊勢丹の常務・「デパートの神様」と言われた山本宗二が招聘されます。戦後に開店した鉄道系のデパートは、このように、先達である呉服店系百貨店から有能な幹部社員を引き抜いて経営のノウハウを得てきたという歴史があったようです。
 その後、東急百貨店本店が開店するにあたっても、店舗のコンセプト、経営などに関して、山宗さんの哲学が色濃く反映されたのではないかと石田さんは推察します。

36階建ての超高層ビルとして生まれ変わる

 67年の東急百貨店本店に続き、68年には渋谷西武が開店。70年に東急東横店に南館がオープン。73年には西武系のパルコが開店と、渋谷には次々に大規模な商業施設が開店。
 その後さらに、東急のファッションビル・109や、パルコpart2、part3、東急ハンズ、Loftなど、東急、西武の商業施設が続々オープンし、公園通りやセンター街には若者が行き交うように。60年代に計画した構想通り、渋谷の繁華街は駅前からどんどん広がり、原宿や青山までも繋がるほどの勢いを持つようになりました。
 そして1989年には、東急百貨店本店隣りに音楽ホール、劇場、美術館、映画館などの複合文化施設・Bunkamuraがオープンします。渋谷の街にこの一大文化拠点を設けることは東急グループの総帥・五島昇の悲願で、ある意味、採算度外視でこのプロジェクトを推進したのだとか。
 そのBunkamuraが建設されたのは東急百貨店本店の駐車場だった敷地というのも、今となっては驚きです。当初は渋谷の他エリアに建設用地を探していたそうですが、バブル期だったこともあり用地買収が難航し、最終的にこの本店駐車場に建設されることになったそうです。しかし今思えば、これだけの規模の文化施設を作ることができる広い駐車場が店の隣りにあったとは、当時の渋谷はまだのどかだったと言えましょう。

開店当時の店舗外観。建物の奥行は現在の約2分の1という規模だった

 1月末に東急百貨店本店は55年の歴史に幕を閉じ、約5年後、ここには現在の8階建ての4倍以上の高さの36階建ての超高層ビルが完成する予定だそうです。そこにはブランドショップや外資系のラグジュアリーホテル、高級賃貸住宅などが入居するとうかがいました。
 築55年のこの百貨店建築には、ますます年輪と趣きを増していってもらいたかったと個人的には思うのですが、今の渋谷、そして東京の再開発の勢いはとてもそれを許してくれそうもありません。
 お隣りのBunkamuraが再開発後も存続することを心強く思いながら、私自身の東急百貨店本店の思い出を反芻し、5年後のこの界隈の変化を注視していきたいと思っています。

■撮影後記 都築響一

 ハチ公前からゆるい坂を登っていくと東急本店のビルの角にど〜〜んと牛の写真が垂れ幕になって風に靡いていた。1970年ピンクフロイドの『原子心母』がリリースされた告知だったのか、翌71年に箱根アフロディーテに出演する予告だったか記憶は忘却の彼方にあるが、いずれにしても中学生のころ。当時は渋谷西武とナウを競うデパートだったのだ。
 地下の食料品売場で刺身とかを買いながら、近所の魚屋みたいに毎日来てる松濤族のご婦人連を観察するのも好きだった。大企業にしてみればこんな効率の悪い店は高層の複合商業施設に建て替えてしまうほうがよっぽどいいのだろうが、記憶の一部が消されてしまうようで悲しい。というか納得がいかない。
 買い物よりなじみのベテラン店員さんとのおしゃべりのほうが長かったあのご婦人は、8階の更科でいつもざる蕎麦で日本酒を啜っていたおじいさんは、これからどこに行けばいいのだろうか。

鈴木 伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。

都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』、『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。

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