3月の中旬も過ぎると、小湊鉄道の沿線は菜の花色に染まる。春の温かさを告げる菜の花には、縮こまっていた冬の心を溶かす不思議なパワーがある。
小湊鉄道は、千葉県の内房にある五井から養老川に沿って南下し、房総半島の中央部まで路線を延ばした鉄道だ。大正末期に開業した小湊鉄道には、駅舎や隧道(トンネル)など国が登録する数多くの登録有形文化財がある。
今回は、菜の花に彩られた古き時代の土木を巡り、春の小湊鉄道を堪能する旅の前編をお届けする。
(記事内の小湊鉄道の写真は、2020年3月に撮影したものです。)
旅のポイント
💡列車の本数が少ない場合は移動に「徒歩」も組み入れる
💡ダイヤを見ながら終点まで行って戻るか、途中下車しつつ終点までいくかを決める
💡途中下車を繰り返す場合は「フリー乗車券」がお得でストレスフリー
💡昼食の時間が遅くなるときは簡単に口にできる携帯食でエネルギー補給
💡疲れた場合の回避策を用意
本日の旅程
旅程の組み立て
小湊鉄道が開通したのは1925(大正14)年、五井から里見までの区間が最初だった。新規に開業したのは次図の五井を除くオレンジ色の駅で、駅舎は今も当時の面影を残す登録有形文化財となっている(水色の駅は後に開業)。
時間と運行本数に制限があるので、対象駅をすべて周るのは難しい。また下り線は時間帯により終点の上総中野ではなく、1つ手前の養老渓谷までしか行かないものもある。小湊鉄道は土木ウォッチャー的には見どころ満載の路線で、何を見てどう巡るかの組み立てに苦労した。もっともこういう苦労が楽しいと感じるのだから困ったものである。
外せない探訪ポイントは、養老渓谷近くの菜の花畑、里見駅と上総鶴舞(かずさつるまい)駅の3つだ。これを踏まえ、組み立てた旅程は次図の通り。
五井から養老渓谷まで一気に行く(旅程図①)。養老渓谷で近隣を探索し、次の列車で終点の上総中野へ(旅程図②)。続いて上り列車で飯給(いたぶ)まで乗車し、里見まで歩く(旅程図③)。
体力温存と時短のため里見から1駅分だけ列車に乗り高滝へ(旅程図④)。高滝からまた2駅分歩いて、最後の目的地である上総鶴舞へ行く。上総鶴舞で探索を終えたら上り列車で帰途につくという流れだ(旅程図⑤)。
7:07 五井駅でフリー乗車券を購入!
JR内房線の五井駅に到着したのは午前7時過ぎだった(map①)。そのまま連絡通路を通り小湊鉄道の五井駅ホームへと向かう。ちょうど上り列車が到着したところで、通勤・通学の乗客がたくさん下りてきた。その列車が折り返して私の乗る下り列車になるのだ。
今回の旅のように、途中下車を繰り返すような場合、その区間にフリー乗車券のようなものがあるならぜひとも購入したい。料金が安くなるというだけでなく、無人駅の乗降で証明書を発券して後で精算するという手間がなくなるからだ。フリー乗車券を持っているとなんだか心が浮き立つのも、おすすめする理由である。フリー乗車券は鉄道の始発駅などで販売されていることも多い。小湊鉄道では全線乗り降り自由の「1日フリー乗車券」が販売されている(2023年2月現在)。
※mapは記事の一番下にあります
8:00 わくわくする里見駅のスタフ交換
五井から里見までの25.8kmは、住宅が点在する田園地帯をのんびりと走っていく。里見駅に到着すると列車はしばらく停車する(map②)。ここで里見駅の駅員さんと運転士さんの間で大事な作業があるからだ。
小湊鉄道は非電化で単線の鉄道だ。単線は列車が行き交う線路が1本しかない。このため、上りと下りの列車が衝突せずに運行するためのルールが必要になる。小湊鉄道では区間によって異なるルールが採用されていて、里見から上総中野までは「スタフ閉塞方式」となっている。
この方式は、スタフと呼ばれる通行票がないと列車は発車することができない。スタフを持っている列車以外はその区間に進入できない仕組みだ。たとえば、里見駅で駅員さんからスタフを受け取った列車は終点の上総中野まで行き、そのまま折り返して里見駅まで戻ってくる。その間は、他の列車は里見~上総中野の区間に存在しない。閉塞区間には1つの列車のみ存在するルールなのだ。
里見から上総中野までの上りと下り両方の時刻表で列車の動きをチェックいただくと、より理解が深まるかもしれない。
8:20 縦板の半円カットがかわいい養老渓谷駅
50分ほどの乗車で、列車は養老渓谷に着く(map③)。この列車は養老渓谷が終点だ。駅の内側と外側をじっくり観察してみる。養老渓谷の駅舎も当時の面影を色濃く残し、木造の改札も開業当時のものだ。
駅正面に掲げられた駅名看板のすぐ下には、半円形にカットされた縦板が並ぶ。三角形にカットされたものは他の駅でもみるが、わざわざ半円形にする手間のかけ方に、観光地の窓口として駅に大きな期待がかかっていたように思える。
終点の上総中野まで行く列車が来るまでに1時間ちょっとあるので、近くの有名な菜の花畑まで足を延ばすことにする。往復2km弱の距離だけど、なんとか間に合うはず。
曲がりくねった県道を歩き、横道に入ると広大な菜の花畑が広がっていた(map④)。警報機もないのんびりとした踏切と、ゆるやかにカーブしながら果てなく延びていくレール。こうした光景を見ると、鉄道と菜の花の組み合わせは最強かもしれないな、なんて思う。
菜の花の黄色に心まで染まった後、菜の花畑をあとにして駅に戻る。まもなく到着する列車で上総中野まで行くのだ。
10:04 いすみ鉄道に乗り換えて房総半島横断の旅もあり
養老渓谷を出発して約6分で上総中野駅に到着する(map⑤)。列車は上り列車となり、ここから折り返す。
上総中野はいすみ鉄道との接続駅だ。黄色いかわいい列車がホームの先に停車していた。いつかは乗ってみたい路線だが、今回は後ろ髪をひかれつつ小湊鉄道の上り列車に乗り込む。
10:16 トンネルの入り口はどんな形?
列車は10:11に上総中野を出発し、ほどなく短いトンネルを通る。小湊鉄道にはトンネルが5か所あり、そのトンネルの一つがこの板谷隧道だ(map⑥)。
次の写真は、先頭車両から撮影したもので、トンネル入り口の形が馬蹄形をしているのがわかる。トンネル入り口の形は時代も含めさまざまな条件によって決定されるが、板谷隧道が建設された時代の山岳地域のトンネルは、馬蹄形が多かったと聞く。
また板谷隧道はコンクリートブロックを積んだ構造をしており、これも大変珍しい。列車の中からトンネル内部の壁を見ると一瞬レンガのようにも見える。お出かけになる際は、ぜひ板谷隧道の内部も車窓からご覧いただければ(一瞬ですが)。
10:32 やんごとなき方々が名づけのルーツ? の飯給駅
里見駅の一つ隣の飯給駅で下車する。難読駅名だが、「いたぶ」と読む。駅舎は簡素な造りだが、青いトタン(?)が印象的な駅だ。飯給という地名は、第39代弘文天皇に食事を捧げたことに由来するという伝説もある。
飯給は1日の平均乗車人員が3人(2020年)という駅だが、大いに賑わう時期もある。春が近づくと駅周辺の菜の花や桜が咲き乱れ、夜間にはライトアップされることもある。鉄道と花のコラボがフォトジェニックな美しさであることから、写真撮影に人々が訪れるのだ。
もう一つ、飯給駅の紹介で忘れてはならないものがある。駅の東側にあるトイレだ。これは土木というより建築のカテゴリーかもしれないが、せっかくなので紹介したい。
建築家の藤本壮介氏が手掛けたもので、「世界一大きなトイレ」がコンセプト。入り口から正面に鎮座するトイレまでの距離がけっこうあり、緊急時にはかなり焦ること間違いなし。トイレ前面のドアはガラス張りだが、カーテンがあるので安心してほしい。
桜が満開のころは、さらにアバンギャルドな空間に変わるだろう。
ちなみに、小湊鉄道の駅には、一風変わったトイレがいくつもある。どこにあるかは実際に訪問された時のお楽しみということで。
「ひとり土木探訪記。」の旅はまだまだ続く。小湊鉄道編の後編は、スタフ交換の里見駅に向かうところからスタートします。
*掲載情報は探訪時のものです。列車の時刻などはダイヤ改正などにより変更されている場合があります。
牧村あきこ
高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/