令和の台所改善運動―キッチン立ち話

第1回「UR都市機構」

別冊太陽|2023.3.2
文・写真= 阿古真理 イラスト=山下アキ  構成=宮崎謙士(みるきくよむ)

資料の増え過ぎと冬場の寒いキッチンがきっかけになり、本格的に新しい賃貸マンションを探し始めた生活史研究家の阿古真理さん。物件選びの最大のポイントとなるのが「キッチン」。本連載では、理想のキッチンを探しつつもなかなか見つけることができない日本の住宅とキッチン事情について、その歴史に関わりのある会社や関係者にお話を伺います。第1回は、「ダイニングキッチン」という言葉を生み出した日本住宅公団、現在のUR都市機構集合住宅歴史館を訪問しました。

使いやすいキッチンは、どこに?
結局は、家賃の問題なのか

 私が「令和の台所改善運動」と称し、自分の「理想のキッチン」を探しつつ、キッチンのトレンドと歴史を研究するようになったきっかけは、2021年7月に横浜・港北ニュータウンのUR賃貸住宅を内見したことだった。
 仕事の資料が増えて住んでいた賃貸マンションが手狭になったことに加え、その部屋のキッチンがあまりにも狭く冬寒いことを、問題と考え始めていた。家庭料理を含めて食文化を考察する仕事をしているのに、形ばかりのキッチンしか知らなくていいのか? 
 そのとき内見した部屋は2つあって、1つはキッチンが3.5畳でカウンターを挟んで横長のLD(リビングダイニング)がある。賃貸にはない、と思い込んでいた3口ガスコンロ付きのシステムキッチンに、フラットで掃除しやすそうな換気扇がついている。調理台は広く、シンクの左側にも水切りかごが置けるスペースがある。コンロ横には窓があり、花台がついているのでまな板が干せる。もう1部屋はキッチンが3.6畳で裏に2.6畳のパントリー(食品庫)まである。どちらも踊れそうなほど広い。都心へのアクセスが悪くない地域で、そんな部屋の家賃に私の手が届くことが衝撃だった。

 それまでに借りた4部屋のキッチンはすべて2口コンロで、そのうち3部屋はコンロ別置きのセクショナルキッチンだった。通路は1人分ギリギリで、換気扇はいずれもフィルターを交換するタイプ。このときの部屋探しでは、トータルで17件内見したが、動線が悪い、収納が少ない、作業台が狭いなど、キッチンに難がある物件は少なくなかった。URのキッチンは条件に適うが、手が届くUR物件がある街が肌に合わず断念し、結局、定期借家だが使いやすそうなキッチンがある部屋を選んだ。
 ファミリー物件は、私の想定より5万円家賃を上げて検索すると、使いやすそうなキッチンが珍しくないようだ。一方、1人暮らし用の部屋は、1口コンロしかない調理台がないキッチンがザラにある。ということは、高所得層向けのファミリー物件でなければ良質な賃貸キッチンは望めない。庶民やシングルは不便なキッチンで我慢しなければならないとすれば、それは憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を満たさないのでは? 疑問が湧いた私は、令和の台所改善運動を独りで始めることにしたのだ。

「ダイニングキッチン」の生みの親。
URのキッチンは、どのように進化してきたか

昭和30年代の、台所にテーブルを備え付けた公団住宅のダイニングキッチンの風景。公団住宅以後、ダイニングキッチンで食事をとるスタイルが一般化していった。写真提供=UR都市機構集合住宅歴史館

 URの使いやすそうなキッチンは心に残った。URの始まりは、1955年に発足した日本住宅公団だ。公団住宅は「ダイニングキッチン(DK)」という新語を生み出し、日本のキッチンの質を高めた功績がある。その歴史が、今も良質なキッチンを提供させているのか?
 UR の成り立ちを繙いてみよう。日本住宅公団誕生のきっかけは、第二次世界大戦後、420万戸もの住宅が不足する事態に陥ったことだ。国が掲げた住宅政策の三本柱は、家を建てられる人向けの住宅金融公庫法、低所得者層に地方公共団体が割安な賃貸住宅を提供する公営住宅法、そして勤労者向けに住宅を供給する日本住宅公団法。団地の建設は、当時の日本民主党総裁だった鳩山内閣の看板政策だった。
 団地の目標は、狭い部屋でも食事と寝室の空間を分け個室を作ること、そして使いやすいキッチンを作ることだった。しかし、当初団地で1戸に割けるスペースは13坪で、公営住宅より1坪広いだけだった。1坪分を台所にあてて食事室も兼ね、寝室と分ける。そんなアイデアから生まれた部屋に「ダイニングキッチン」と名づけた結果、そうしたキッチンが団地以外にも広がった。わずか4畳半のDKで、台所で作業する人とダイニングテーブル前に座る人がぶつからないように考案されたのは、シンクを真ん中に置き、左右をそれぞれ調理台、コンロ置き場とするポイント・システムという従来にないキッチンだった。
 発案者は、女性建築家の草分け、浜口ミホ。1949年、暮らしやすさより家長の体面を重んじる従来の住宅を変えるべきと謳った『日本住宅の封建性』(相模書房)を出して、建築業界に旋風を巻き起こしていた。使いやすいキッチンを作るため、公団は彼女に相談したのである。
 URの賃貸住宅を内見した私が気になったのは、このセンターシンクのポイント・システムがどこへ行ったのかということだった。私が見たキッチンは、どれも流し→調理台→コンロの従来型だったからだ。ドキュメンタリー番組『プロジェクトX 挑戦者たち』(NHK)で2000年5月2日に放送された「妻へ贈ったダイニングキッチン~勝負は一坪・住宅革命の秘密~」では、浜口がポイント・システムに反対する女子栄養大学の武保(たけ・やす)助教授に、主婦に使い比べてもらう実験を申し込み、調理時間は変わらないが歩数は従来型27.5歩に対し、ポイント・システムは、わずか2歩と圧倒的な勝利を収めたことを紹介している。

千葉県松戸市に建設された常盤平団地は戸数4839戸(当時)。1960(昭和35)年から入居が始まった。調理台とコンロの間にシンクを置く配列は、浜口ミホの提案を採用したもの。松戸市立博物館では、1962年当時の2DKの暮らしを再現展示している。写真提供=松戸市立博物館

ステンレスのセンターシンクは
いつ生まれ、どのように姿を消したのか?

集合住宅歴史館(八王子市)は、令和4年3月31日で閉館。北区赤羽台にて「URまちとくらしのミュージアム」として新しく生まれ変わる。令和5年9月の開館(一般公開開始)予定。 UR都市機構公式 https://www.youtube.com/watch?v=Fmq7dd1cFpk
移転準備中のUR都市機構集合住宅歴史館で、URが手がけた集合住宅とキッチンの歴史について技術調査課の増重雄治さんにお話を伺う。

 北八王子にある移転準備中のUR都市機構集合住宅歴史館で、技術調査課の増重雄治さんに事情を聞いた。「集合住宅では隣り合った部屋で間取りが左右対称になるため、一般的なキッチンなら、シンクが左側と右側と2タイプ用意しなければなりません。しかし、センターシンクなら1パターンで済む。昭和40年代半ばまで作り続けましたが、結局あまり広がりませんでした。2口のガス台が普及すると、ガス台のすぐ横がシンクになり、使い勝手が悪くなったことが、センターシンクがなくなる直接的なきっかけでした。あの形が本当に便利であれば、今も使い続けていると思います」と増重さん。センターシンクは、制約が大きかった時代ならではの苦肉の策だったのである。
 もう一つ画期的だったのが、ステンレスシンクを標準装備したことである。それまでのシンクは、人研ぎ(人造石研ぎ出しの略。セメントモルタルに石片や砂利などを入れるもの)が一般的。表面が固いので、食器をシンクに落とすとすぐ割れる。また、ダイニングキッチンに客を招くには、人研ぎは見栄えが悪かった。
 職人の手作りだったステンレスのシンクをプレス加工で大量生産しようと試みたが、割れやすく、上手くいくかどうかは神頼みのような状況だった。開発に手を挙げた東京・板橋の町工場は、その後キッチンメーカーとして発展したサンウエーブ工業(現LIXIL)である。開発が遅れたため、団地は1956年から供給が開始されたが、ステンレスシンクが入ったのは、1958年入居開始の晴海高層アパートからだった。

UR都市機構集合住宅歴史館に展示されていた1958年頃に採用されたキッチン。

 浜口が開発した最初のキッチンは移転中で見られなかったが、1958年頃の次のタイプは見ることができた。「吊戸棚は職人さんが1つずつ作りました。キャビネットは引き違い戸で、湿気対策として通風孔がついていました。扉はベニヤ板にニスを塗っただけ、シンク下はオープンです。コンロはお客さんが買って置く1口分の鋳物製のごついものが主流でした。幅は1800ミリです」と増重さん。
 1800ミリは私が親しんできた、賃貸でよく見るファミリー用で最小限の幅だ。水切りかごを置くと調理台のスペースはまな板1つ分しか残らない。公団では、同じ間取りで作る標準設計を止めた1978年から調理台を広めにしてきたが、面積に限りがある部屋もある。それでも、「調理台は最低600ミリを確保するようにしています」というところが、民間賃貸と違うところだ。また、セクショナルキッチンでは、吊戸棚の下に鍋やボウルなどを置ける水切り棚を設置するなど、収納を充実させてきた。
 「すべての時代において、最先端を走っているかと言われると、なかなか難しい。賃貸住宅はスペースとコストに限界があります。標準設計を廃止した昭和50年代には、より良質で新しい住宅を作ろうと模索したようです。キッチンに関しては、なるべく大きなシンクを入れるようにはしましたし、平成になってニーズが多様化したことから、家事動線を重視する、パントリー(食品庫)を設けるなどした物件もあります。1980年代には独立型が、1990年代には対面式が人気で導入しましたが、2000年代以降に人気が高いアイランドキッチンは、面積がある程度広くなければ入れにくいことや、部屋に煙が回ることへの配慮からほとんど導入していません」と話す増重さん。
 

 日本のキッチンを大きく変えたダイニングキッチンとステンレス一体成型シンクの後は、団地は大きな影響力を与えてこなかったと増重さんは謙遜する。しかし、小泉改革でUR都市再生機構となり、基本的に新しい住宅開発を行えなくなった中でも、「諸外国に比べ、良質な賃貸住宅が特に都市圏で弱いことを解消するため、ファミリー向け住宅を中心に開発する」(増重さん)とされた初期の精神は、今もキッチンに生きている。最低600ミリの調理台と余裕のあるキッチンスペース。それが当たり前になる社会を目指し、私の令和の台所改善運動は続く。

▼プロフィール

阿古真理 あこ・まり
作家・生活史研究家。食を中心にした暮らしの歴史やジェンダー関連の本を執筆。食への関心から台所の歴史についてもリサーチ中。主な著書に『昭和育ちのおいしい記憶』『うちのご飯の60年』(筑摩書房)、『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』(幻冬舎)、『昭和の洋食 平成のカフェ飯』(ちくま文庫)、『小林カツ代と栗原はるみ』『料理は女の義務ですか』(共に新潮新書)、『日本外食全史』(亜紀書房)、『ラクしておいしい令和のごはん革命』(主婦の友社)、最新刊に『家事は大変って気づきましたか?』(亜紀書房)がある。

『別冊太陽』スペシャル
日本の台所一〇〇年 
キッチンから愛をこめて

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