第6回 ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ
(1535?―1615年)(2)
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さて、本書が近現代で評価される点は、第七巻「磁石の不思議について」と、第十七巻「奇妙なレンズについて」にある。「磁石」に関しては今でも通ずる、N極、S極の存在と、1つの磁石を二分しても両者にきちんとN極とS極が存在すること、同極どうしは反発するが、異なる極は接近・付着することを、図示しながら雄弁に語っている。
また、「レンズ」についての巻では、凹凸レンズや、スマホで写真撮影が可能となった昨今では忘れ去られたと思われる、「暗室(イタリア語でカメラ・オスクーラ)・暗箱」の発明について記述している。私の青少年期には、まだ、直方体のカメラがあって上からレンズを覗いたものだ。その箱(暗箱)の底にレンズがあって、被写体が逆さまに写し出された。写し手は下を向いてシャッターを切った。これが、後に普及した形のカメラでは、覗きのためのレンズが(たいていカメラの)左上にあって、その「暗室」で被写体を捉えてシャッターを切った。カチャという小気味よい音がした。ペンタックス等の一眼レフのカメラではガチャという濁った音が、被写体をがぶりと吞み込んだという印象を与えたものである。
ちなみに、日本で最初に(銀板製の)「写真機」を試作したのは、「近代化学の祖」と目され、緒方洪庵(1810-63年、「近代医学の祖」)と江戸の坪井信道主宰の安懐堂で同輩だった、現在の兵庫県三田市(三田藩・九鬼家)出身の蘭学者・川本幸民(1810-71年)である。
今年は幸民没後150年にあたる。洪庵の陰に隠れてしまって忘れ去られている嫌いがあるが、膨大な量の翻訳書を、分野を問わずに残した人士で、中国に古代からあった「化学」という語を、最初に現在の「化学」〔オランダ語のchemieの音訳語「舎密(せいみ)」と言われていた〕の意味で用いた人物で、『遠西奇器述』(〈遠い西=西欧〉の〈奇=優れた〉〈器=機械や道具〉〈述=述べる〉)という翻訳書のなかで、ビール、マッチ,蒸気機関車、電信機などを日本で最初に紹介して実作もし、さまざまな技術にも長けていた(ビールを最初に造った人物として著名である)。
またこれも翻訳書だが蕃書調所で教科書として重宝された『化学新書』(1861年)も名著である。幸民は1859年蕃書調所の教授になり、最終的に洋書調所(1862年)の教授をも務めている。福沢諭吉(1835-1901年)が尊敬する人物として『福翁自伝』で、洪庵、杉田成卿(1817-59年、杉田玄白の孫、蘭学者)、それに幸民を挙げている。洪庵は優秀な弟子に恵まれたが、幸民の場合は普通、橋本左内(1834-59年)、松木弘安(後の外務卿寺島宗則、1832-93年)を挙げることが多い。幸民が著わした書が明治期、理科の教科書として使われたと伝わっている。卑見だが、『自然魔術』を横断的知の世界とみた場合、この中身が理科の教科書に映るのだが、いかがなものであろう?
閑話休題。
デッラ・ポルタのレンズに関する功績は上記の「暗室」の発明であり、ガリレイより先に望遠鏡(筒眼鏡)を造ったとも主張している。
さらに彼は、1560年、ナポリに「自然秘密学院」を設立した。「秘密」という言葉がきわめて重要である。前回(第5回)で、テレジオが「コゼンティーナ学院」を創設したのが、1566年だったから、4年後に当たる。こうした「学院」からは、やがて「秘密」の文字が消えてゆき、「リンチェイ学士院」(1600-30年)、「チメント学士院」(1657-67年)など、近代科学の研究機関の先駆となっている。デッラ・ポルタはガリレイとともに、リンチェイ学士院の会員になっている。
ただ、やはり「秘密」が気になる。これは「公開」の逆で、「隠微な=オカルト」を指す。デッラ・ポルタの自然観が、自然を「あるがまま」にみても、その奥に「霊魂」の存在を求める「オカルト」なものであったこと(アニミズムの有機体的自然観)がわかる。
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『自然魔術』の近現代的意義の次に、最初の3つの巻について、考えてみたい。
第一巻第2章「魔術とは何か」で、デッラ・ポルタは魔術を、降霊術や呪術の類の「黒魔術→悪霊魔術」と、優れた人物や賢者たちが容認し、絶賛する「白魔術→自然魔術」とに二分している。
自然魔術師の祖に相当する人物として、ピュタゴラス(前582―前496年)、エンペドクレス(前490?-前430?年)、デモクリトス(前460-前370?年)、プラトン(前427-前347年)を挙げ、「隠微な知識に精通した人たちは自然魔術をいたって高く評価し、自然学の完成とみなす」と、「隠微=秘密」であることをきちんと書いている。そして、「下なるものは上なるものにしたがい、地上のものは天上のものに屈する」という天地照応・感応の思想(新プラトン主義)を述べている。ここでの自然観はこれまで触れて来たように、自然に霊魂が宿って生きている、という有機体的自然観(アニミズム、多神教、自然と人間との調和)である。ほかに、『自然魔術』という書の根本的自然観と、「親和力」で結ばれる「共感魔術」についても語られている。
続いて第二巻(動物)の序文では、第三巻(植物)の内容も俯瞰し得る文章に出くわす。即ち、「動植物の生殖には、性交・無性交の二通りがある」として、性交はともかくとして無性交での誕生が「腐敗」から始まる、とし、「腐敗こそ、多様な単一体のみならず混合体も含めた新たな創造物を生み出す原理だからである」と雄弁に主張している。
第二巻の動物篇ではその第1章で具体的に、「土が多くの場所で硬くて柔らかい、両方の状態で放置されており、太陽の熱で乾燥、刺激を受け、ある種の液を出し、……この液のなかに多くの腐敗物や、ある小さな皮で覆われた腐った土塊が含まれている。この腐敗物が夜露で湿り、日中は太陽で熱せられ、ある季節がすぎると熟成するのである。
そして皮が破られてあらゆる種類の生物(動物)が出てくるのである」と述べている。この文面は近代科学の発想とは食い違い過ぎるが、例えば、米や野菜づくりに人糞を肥料としてまいていたとき、人糞は腐敗物であり、腐敗は何某かの生き物が発生することの一助となっているので、あながち棄てたものではない。ただ、動物となると、いささか首を傾げざるを得ないが、大地(土:冷・乾)、太陽(火:熱・乾)、液体・夜露(水:冷・湿)と主要な元素や特質が出そろっているので、当時の発想としては正統派に属するであろう。
性交の事例として、第17章で、「人間の奇形(児)」の誕生を記している。近代医学以前の人物が考え抜いたもので、科学の発達・未発達の良い例であろうか。3点挙げている。
1. 異常な性交か愛情のない性交による。この際、精子が然るべき正しい位置に運ばれなかったから。
2. 子宮が狭い場合。この折はその狭い子宮のなかに胎児が2人出来てしまうが、幅にゆとりがなく、圧しひしがれながら生育していくから。
3. 婦人の子宮のなかに、胎児たちが間隔を置いて識別されるよう自然によって形成された、分割せんための薄い膜が癒着しているから。
素朴ながらもうがった考察で、その推論力は感嘆に値する。
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第三巻の「新しい植物の産出について」では、発生の方途は動物と同じく腐敗だが、ここでのデッラ・ポルタは、「新しい」に拘っている。一種の「地面(大地)論」と見受けられる。それによると、地面は旧なること不毛なることは決してなく、「あらゆるところで新しい種を受けて新種を産出するように自ずと肥えている……稔り豊かであることに充足せず、恒久的に産出していく。そして自然があらゆる面で秀でたものであるならば、なによりも植物においてすぐれていると思われる」(「序文」)。これは豊穣信仰をべつのかたちで述べたもので、自然崇拝とも、自然は生きていると記している、とも取れる。
第6回の(2)〈了〉
次回は、1月14日です。
参考文献
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ著 澤井繁男訳 『自然魔術』講談社学術文庫,2017年
八耳俊文著『川本幸民の足跡をたどる―蘭学の伝統―』NPO法人歴史文化財ネットワークさんだ,2011年
福沢諭吉著 永井道雄責任編集 日本の名著33『福沢諭吉』所収 中央公論社,1984年
澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。