第12回 有職覚え書き

カルチャー|2022.1.7
八條忠基

季節の有職ばなし

●酒宴禁止令

1月23日は、866年に「酒宴禁止令が出た日」でございます。

『日本三代実録』
「貞観八年(866)正月廿三日庚子。(中略)是日。勅禁断諸司諸院諸家諸所之人、焼尾荒鎮并責人求飲及臨時群飲曰。(中略)或同悪相聚、濫非聖化。或酔乱无、便致闘争。拠理論之、甚乖道義。自今已後、王公以下、除供祭療患之外、不得飮酒。其朋友僚属、内外親情、至於暇景、応相追訪者、先申官司、然後聴集。如有犯者、五位以上停一年封禄、六位已下解却見任、已外决杖八十。」
(酒を飲むと理性を失って馬鹿騒ぎをしたり、喧嘩沙汰に及ぶこともあるので、今日からは、お祭りや医療行為のほかは、飲酒をしてはならない。仕事上やむを得ない宴会をするとき、あるいは客を招いたパーティーをするときは、事前に役所に届け出て、許可を得てから客を招待せよ。違反者は、五位以上はボーナス一年間停止。六位以下はクビ。無位の者は杖打ち80回の刑に処す。)

「諸司諸院・諸家諸所之人、新拝官職、初就進仕之時。一号荒鎮、一称焼尾。自此之外。責人求飲。臨時群飲等之類、積習為常。酔乱无度。主人毎有竭財之憂。賓客曾无利身之実。若期約相違。終至陵轢。営設不具。定為罵辱。非啻争論之萌牙。誠作闘乱之淵源。望請。准拠文。厳加禁止者。但雖聴集者不当過十人。又不得飲酒過差至於闘争。若有違者。親王以下五位以上並奪食封位禄。自外如前格。若容隠不糺。同処此科。但可聴之色具存別式。」
(昇進した者に、「荒鎮(こうちん)」とか「焼尾(しょうび)」と称して、祝いの酒宴を開けと強要するのが習慣となっている。そして度はずれた悪酔いをする。開催者はその費用でスッカラカンである。宴をしないと乱暴狼藉、酒肴がチープだと罵り騒ぐ。いやもう、様々なトラブルの原因である。厳重に取り締まるべきである。違反者は、親王以下五位以上は給料没収。その他は前項の通り。見て見ぬふりをしたり隠し立てすると同罪である。)

「禁断諸家諸人、除神宴之日、諸衛府舎人及放縱之、求酒食責被物曰。同前起請。諸家諸人。至于六月十一月。必有除神宴事。絃歌酔舞。欲悦神霊。而諸衛府舎人并放縱之。不縁主招。好賓位。侵幕争入。突門自臻。初来之時。似愛酒食。臨将帰却。更責被物。其求不給。忿訟詈辱。或亦託神言咀。恐喝主人。如是濫悪。逐年惟新。推彼竟况。不異群盗。」
(神事のあとの宴会は、酔って歌って踊ることで、神様を喜ばせるという主旨である。しかし招待客でもないブルーカラー層の酒乱ぶりはどうだ。幕の中に侵入したり扉をこじ開けたりの、やりたい放題。最初は大人しく飲食をしているが、酔うにつれて「あれ出せこれ出せ」と要求がエスカレートし、出さないと暴言の限り。神様を呪ったり主人を恐喝したり。この悪行、集団強盗と異ならない。)

「豪貴之家、尚無相憚、何况於無勢無告之哉、是而不糺、何云国憲。望請、厳仰所司、一切禁遏者。若有犯者、不論蔭贖、坐従鉗。但五位已上及六位以下把笏者、一如上條。又知見不糺之人、必将科違勅罪。」
(金持ちは「まぁまぁ」と大目に見て、これを黙認している。そんな者がなぜ、国の立法に関わるような仕事ができようか。徹底的に取り締まるべきである。その者の親がどんなに偉かろうと、役人である以上は厳しく取り締まる。違反の事実を見たり知ったりして黙認した者は、必ず違勅罪で摘発するから覚悟せよ。)

その8年後……。

『日本三代実録』
「貞観十六(874)年九月己亥十四日。其二応許六衛府長官初任時一度饗宴事。謹案新格。諸司諸院諸家所々之人。焼尾荒鎮等、惣当禁断、今以為。衛府長官。職掌異於文官。欲其選練武衛、士卒共甘苦。而初任之日、聊無饗会、何能閲彼庸旅之面、成其鳬藻之心。是以新任長官等、皆准旧例。一度饗宴、事不獲已、似忘格式、夫有格不行、却似無法。無法之罪、理亦難容、望請被改件事、有便執行。」

衛府の長官になると、文官と異なり、生死を共にする「戦友」になるので、飲み会で肝胆相照らす仲になれないと、部下が命を懸けて戦ってくれない……ということで新任長官は昔ながらの就任披露会を開催していたようです。これが法を踏みにじるような行為であるとは、なんと無粋でしょうか。

……しかし、こういう規則が守られないのは、古今東西を通じて同じでございます。これ以後に何度も同じような禁令が出ているのは、結局守られなかった、ということなのでしょう。江戸時代の本居宣長も、『玉勝間』でこのことに触れ、
「かゝる類の事、そのかみも有けるにこそ。」
と苦笑しております。

正月行事「大臣大饗」という儀式的宴会は、この法令と同時期に生まれたもので、この禁令の例外措置であることを強調するために、わざわざ「儀式」にしたものではないか、と言われております。
画像は『酒飯論』。次々と上がる酒宴の盃に、追いつく間もないバックスタッフ。酒樽の酒を燗鍋で温め、加銚子に酒を注いでいます。

『酒飯論』(部分 室町時代・国立国会図書館デジタルコレクション)

●高家の上洛

1月晦日は「幕府の使者が京都に到着する日」です。

『天明年中行事』(江戸後期)
「正月晦日 関東御使 是は、年始御祝儀御使として、高家肝煎三人の内上京あり。」

年始のご挨拶として、将軍の名代として「高家(こうけ)」の旗本が天皇や上皇、女院を訪問しました。『天明年中行事』には詳細が記されていますので、資料的な意味から引用しておきましょう。

「参内の日限仰出され、御使・所司代衣冠にて同伴、唐御門より参内。諸大夫の間より昇殿、鶴の間に著座。伝奏出席、御口上申述有。両卿言上の後、御対面有べきのよし仰出され、清涼殿御上段へ出御。両卿誘引、布障子辺に列座。御進献之御太刀折紙、伝奏披露。御使中段において龍顔を拝せらる。次に亜相公御進献の御太刀折紙、披露の次第前に同じ。次に貫首申次にて、御使・所司代自分の御礼、御太刀折紙、一人ヅヽ御中段へ持参有。ひさしにおいて龍顔を拝せらるゝ。次に天盃下され、中段にて一人ヅヽ頂戴。畢て鶴の間へ退き、御礼申退出也。」

お使いの高家と京都所司代は衣冠の装束で天皇に拝謁し、天盃を頂戴したのですね。

「参院の次第、凡右に同じ。女院の御所へ参上之儀は、御客之間にて両局出会なり。御返答は、日限仰出され、御使の高家烏帽子直垂にて長橋の奏者所へ参上也。」

院(上皇)や女院御所ヘ参る時は衣冠ではなく、グレードの低い烏帽子直垂姿となります。こうした幕府からの年始の挨拶は、将軍が天皇を敬う形ではありますが、実際にはお使いの高家が威張り、幕府の権威を見せつけるような意味もあったようです。

『幕末の宮廷』(下橋敬長述)
「その日は徳川さんから御使で、御所へ見えます。高家というものが……。(中略)所司代が連れて御所へ参内せられます。もっとも、これは御所へ見えることでありますから、衣冠で、五位の御装束を着て来る。(中略)時刻になりまして、あの御膳を下さります。この御膳は結構です。徳川さんのお勤めを悪くすると……、お諂(へつら)いと言って宜いか、御尊敬と言って宜いか存じませぬが、これは五摂家と同じように二汁五菜、所司代も、高家も、結構な物です。大納言以下のお公卿(公家)さんは、こんなものは食べはしませぬ。」

高家は、摂家なみの豪華なお膳を出してもらっていたわけですね。徳川さんの使者の接待をないがしろにすると「おうるさい」ことになる、と。高家にはさらに金銭的メリットがありました。

「高家が摂家、親王、大臣方へ太刀、馬を献上いたします。そこらに向けて、皆太刀、馬を献上される。その時に大名がお出で(参内)になると、摂家でも、宮さんでも、大臣方でも、得が行きます。高家が行きますと、此方が貧乏します、というものは、御太刀一腰、御馬一匹代銀二枚(一枚が)四十三匁、これを奉書へ包んで『御馬代白銀一枚』と書いてございます。そうしますと、その馬代を包み替えて、もう一枚殖やします。五摂家、宮さんとも、右の一枚をもらって二枚にいたします。太刀は太刀で返します。そこへ向けて、鯣二連つけなければならぬ。(中略)そういうことを、高家は楽しみに来られます。一廉銭儲けになる。」

この幕府からの挨拶への答礼として、朝廷から勅使が派遣されます。元禄十四年(1701)に幕府から朝廷へのお使いをしたのが高家・吉良上野介義央。その答礼としての3月の勅使を饗応する役目だったのが浅野内匠頭長矩、ということになります。

写真は京都御所「諸大夫の間」。
諸大夫の間は、参内者の控えの間。身分に応じて異なる部屋で控えました。襖の絵にちなみ、「虎の間」(公卿)、「鶴の間」(殿上人)、「桜の間」(諸大夫)と呼ばれています。お使いの高家は「鶴の間」に着座したのです。
畳の縁も、鶴の間・虎の間は高麗縁ですが、桜の間はグレードの低い紅縁。そして「鶴の間」の鶴の襖絵は、狩野永岳筆です。

京都御所「諸大夫の間」の「鶴の間」
京都御所「諸大夫の間」の「桜の間」

●愛妻の日

1月31日は「愛妻の日」だそうです。
1月の「1」をアルファベットの「I(アイ)」に見立てて「I 31(あいさい)」なのだそうです。うむむ、苦しい~~。「日本愛妻家協会」なる団体が2006年に制定したとか。
歴史的に「愛妻家」は数多く存在しますが、関白にまで昇ったのに、愛妻のあまり「狂気」にまで至ったのが、室町時代前期の近衛忠嗣(1383-1454)。

『看聞日記』(伏見宮貞成親王)
「応永廿九年(1422)閏十月廿三日、晴。(中略)抑聞、此間近衛前関白最愛妻室他界。不堪悲歎、大閤欲切腹。人々刀奪取留之。其後被切本鳥、不能取留則被出家云々。頗狂気歟。雖悲歎、如此儀摂家未聞其例。不可説也。」

よく勘違いされるのですが「前関白」イコール「太閤」ではありません。自らの子に関白職を譲った前関白を「太閤」と呼ぶのです。その近衛太閤が「最愛」の妻を失った悲しみのあまり、なんと切腹を図ります。周囲の人々が刀を奪い取って取り押さえますが、今度は髻(もとどり)を切ってしまい、出家しました。貞成親王は「狂気か」と感想を述べ、「いくら悲しいとしても摂家の人が切腹を図るなど前代未聞、言語道断である」としています。

この時期の政治的実力者であり、「黒衣の宰相」の異名を取った三宝院満済も、『満済准后日記』で「不可説。以外次第」、もっての外のことだと手厳しく批判しています。「不可説」というのはこの場合、「言葉では言えないほど、けしからぬこと」「言語道断」を意味します。

しかし近衛忠嗣。正直言ってあまり歴史上活躍した形跡もみられない人物ではあるのですが、狂気と言われるまでの愛妻家として歴史に名を残すことになったのも、また面白いところです。

なお、亡くなった忠嗣の愛妻は、『満済准后日記』では「北政所」(太閤の正室)と記されていますので、正室であったのでしょうが、名も出自も不明なのであります。忠嗣から関白職を譲られた息子・房嗣の母は、「家女房」とあるだけで、これまた名も出自も不明なのであります。

次回配信は、1月17日予定です。

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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