第6回 有職覚え書き

カルチャー|2021.10.4
八條忠基

季節の有職ばなし

●紅染め禁止令

平安時代、「禁色(きんじき)」と言って、衣類に用いることが禁止された色彩がありました。そのひとつが「深紅」です。何回か禁令が出されても守られず、延長四年(926)の10月9日、あらためて禁令が出されたのです。

『法曹至要抄』
「紅染事。
延長四年十月九日宣旨云。紅染深色可禁制之由。去延喜十八年(918)三月十九日。給本様色絹己畢。而年来之間不随様(タメシノ)色。弥好深染。宜重下知従新甞会以後一切禁遏。案之。件色雖下被聴禁色之輩。依此制尚以不着用。而不頼之類不知憲法。恣着用。猶従破却。宜処笞四十科决放之。」

918年に色見本が示されて、紅染の衣類が禁止されました。しかしそれから8年たって有名無実となっている。「深紅」は改めて禁止し、もしも着用が見られたらその衣類はズタズタに切り裂き、本人は鞭打ち40回の刑に処す、というのです。この紅染禁止の歴史を見てみますと……。

『政事要略』
「請禁深紅衣服奏議<善>
臣清行謹言。(中略)貞観以来。改以深紅之色。当時号之曰火色。(中略)此語妖也。其後无幾。宮中及京師頻有火災。天下騒動古今未有。至于仁和禁制此色。」

深紅色を「火色」と呼んでいたところ、宮中や京都市内で火災が頻発した。縁起が悪いと宇多天皇の御代に「赤い服を着てはならぬ」と禁令が出た、と。

「而延喜七八年以後。京師盛好此服。朝廷雖施禁令。更亦舒緩。数年以来。弥増深濃。其尤甚者。以紅花廿斤染絹一疋。(中略)加以比年市廛之間。紅花増貴。一斤直銭一貫文。今以廿斤染絹一疋。則当用銭廿貫文。此則中民二家之産也。况今婢妾一人所着。非唯五六疋乎。然則以十家終身之蓄。為一婢浹日之飾。諸糜爛。士庶飢寒。農畝為之荒廃。盗徒由是繁興。」

ところが数年たつと、また京都で深紅色の服がブームになってしまった。紅染には大変な費用がかかり、紅花の価格も高騰している。ファッションなどにお金を使うと産業が衰退し経済危機になり、治安も悪化する……。

「各改其服。率先下民。然則妖詭自絶。災咎可消。但浅紅軽黄。未及火色者。不在制限。不任僂々之至。謹以奏議以聞。清行誠恐誠惶頓首々々死罪々々謹言。
延喜十七年十二月廿五日 参議従四位上守宮内卿三善朝臣清行」

そこで、高位高官にある者が率先して深紅の服の着用をやめるべきである。そうすれば自然に下々の者が着なくなるでありましょう。こうして延長4年10月9日に改めて禁令が出たのです。

「左大弁源朝臣悦伝宣。左大臣(忠平)宣。奉勅。紅染深色。可禁制之由。去延喜十八年三月十九日給本様色絹己上畢。而年来之間。不随様式。弥好深染。此則有司緩惰不加厳制之所致也。宜重下知従新甞会以後。一切禁遏不得重衣者。
延長四年十月九日 左大史阿刀忠行奉」

しかし。
こうしたことは何度禁令を出してもなし崩しになりました。ファッションに関する人間の欲求は、机上の空論での法律論議など、まったく効果がないのです。禁令の厳しかった延喜年間ですら……。

『新古今和歌集』
「延喜御時、女蔵人内匠、白馬節会見けるに、車より紅の衣を出だしたりけるを、検非違使のたださむとしければ、いひつかはしける
大空に 照る日の色をいさめても
天の下には たれか住むべき
かくいひければ、たださずなりにけり」

醍醐天皇の御代、禁色違反の紅衣をとがめられた女蔵人が「太陽の光の色をダメと言うのなら、天の下には誰も住めません」と歌い、それが見事だったので、見逃してもらえた、という、なんとも雅やかな逸話が伝わっております。

写真は紅染の御装束。この魅力には法も敵いません……。そしてベニバナ(紅花、学名:Carthamus tinctorius)。トゲが非常に険しく、摘む農民の苦労が偲ばれます。朝露に濡れてトゲが柔らかくなる早朝に摘むとか。

紅の衣

●残菊の宴

菊の節供「重陽宴」は9月の行事ですが、10月まで咲き残った菊を愛でる宴も行われました。これを「残菊の宴」と呼びます。

『九条殿記』(藤原師輔)
「天暦七年(953)十月廿八日。殿上侍臣左右相分、各献残菊三本。昨日欲献此花、而依有中宮御悩之気停止。」

帝の御前で侍臣が左右に分かれ、3本ずつ咲き残った菊を出し、どちらが優れているかを競うゲーム。前日の開催予定でしたが、中宮さまが体調不良で本日になりました。さて、まず1本目の菊。左チームからです。

「左菊未蒙召之前、経月華門舁弓場殿、応召経右青璅門舁置御前東庭、菊一本立洲浜〈蔵人所衆六人舁之〉、以兵衛円座一枚敷仁寿殿西砌西辺、殿上小舎人一人持矢三隻候御座。洲浜長八尺、広六尺許。以沈香作舟橋、以銀作靏一双。但一靏食菊一枝、其葉書和歌一首。以辛埼沙敷之、但所々以水精加敷之。水底敷白鑞湛水也。其□以露草染也。以沈香為菊之副木、結以金銀之蔦、其後右菊良久不献。」

ただ1本の菊を差し出すのではありません。
巨大な洲浜の上に、沈香で作った橋や銀製の鶴2羽なども飾ったジオラマです。鶴の1羽が菊をくわえております。盆石のように水晶の粉で流水を描き、沈香を菊の添え木にして、金銀製の蔦で結んでいる、という、まぁ絢爛豪華なもの。さて、これに対抗する右チームは。

「酉三尅許纔献右菊〈其道者経承香殿北滝口東戸〉、舁置左菊北方〈同蔵人所衆舁之、但无籌刺之座〉。洲浜長八尺、広七尺許。裁菊三本、件菊副木。一沈香、一銀、一蘇芳。自余雑物大底如左。但以鏡為水、件鏡水風流頗似踈簡。銀花一枝令銜銀靏、其葉書和歌一首。」

だいたい左チームと同じような内容ですが、水の流れを水晶ではなく鏡で表現した、とあります。これが良くなかったようで「鏡水風流頗似踈簡」(鏡で作った水流は手抜きっぽい)と評価されてしまいました。結果……。

「右花其粧劣也、□之数度雖召、良久不献、然則第一花可為左勝、仰云、事理也者。」

で、左チームの勝ちとなりました。ところで右チームは3本の菊を使いました、これがルール違反ではないかということになりましたが、

「又可献花、三株之菊一度共献、其由如何。申云、件事相定之比不候。仍不慥承案内。但定書云。菊可殖御前者、仍三本一度所奉云々。」
(そんなルールは聞いたことがありませんな。御前の庭の菊なら構わないでしょう)

だそうです。で、2回戦。

「次左第二花献(中略)但右花其粧鮮明、仰云、左花根不健已仆也、可為負者。」
今度は右チームの勝ちです。左チームの花が倒れてしまったようですね。両者1勝1敗、運命の3回戦は……。

「次第三花献之、其体已優也。上仰云、左花勝者。」

左チームの勝ちとなりました。優勝です。この後、雅楽舞楽が演奏され、酒宴。

「臣等給衝重食、左者饗右方、右者饗左方。又女房饗左右共儲〈左方廿前、右方十前云々〉。」

戦い終わればノーサイドです。
左チームの酒肴は右チームが用意、右チームの酒肴は左チームが用意。女房たちの酒肴は左右両チームが用意。なんとも優雅なものではございませんか。……ただ、最後に藤原師輔はこう書いています。

「昨日欲献花之間、左方着葡萄染下襲、右方着紅色、而今日左右无別、任意着之、不知如何。」

昨日開催しようと準備した時、左方は蒲萄染めの下襲、右方は紅の下襲を着て用意していた。今日は左右の別なく、思い思いの色の下襲であった。これはどんなもんだろうね、と。確かに左右チームは色分けした方が良かったと思いますね。

画像は「移ろい菊」。白い菊の花が急な寒さに遭遇すると「しもやけ」現象を起こして紫色に変化します。平安貴族たちはこれを「移ろい菊」と称して特に賞翫しました。

移ろい菊

●ぜんざいの日

10月31日は「ぜんざいの日」だそうです。これは10月最終日ということで、出雲地方の「神在(じんざい)餅」に絡んだ故事付けです。さて「お汁粉」と「ぜんざい」。どう違うのでしょう。よく言われるように、地域差があります。

関東
[汁粉] 小豆あんで作ったものの総称
[田舎汁粉] 粒あんで作ったもの
[御膳汁粉] こしあんで作ったもの
[善哉] 汁気のない練りあんを餅にかけたもの

関西
[善哉] 粒あんで作ったもの
[汁粉] こしあんで作ったもの
[亀山] 汁気のない練りあんを餅にかけたもの

関東の善哉、関西の亀山は現代では老舗の甘味屋さん以外ではあまり見かけませんね。

『守貞漫稿』(喜田川守貞・江戸後期)
「善哉売
京坂ニテハ、専ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、黒糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル。号テ善哉ト云。
汁粉売
江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ黒糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル。号テ汁粉ト云。京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云。又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云。又マシ粉アンノ別ニ全体ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云。」

どちからというと「善哉」のほうが古い名称のようです。

『尺素往来』(一条兼良・室町後期)
「新年之善哉者、是修正之祝著也。」

『鹿苑日録』(景徐周麟ほか)
「慶長十二年(1607)正月四日、斎了出落、先至豊光会席、蔭軒、龍伯、玄室、昕英、川岳瑞雲光駕、予亦備其員、夕飡了テ及申尾喫善哉餅、又賜酒沈酔帰院。」

この、なぜ「小豆あん+餅」を「善哉(餅)」と呼ぶのか、諸説あって定まっていません。お正月に食べるから「よきかな」という縁起の良いネーミングにしたというようなところなのではないかと思いますが……。

『嬉遊笑覧』(喜多村信節・1830年)
「祇園物語又云、出雲国に神在もちひと申事あり。京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや。十月には日本国の諸神、みな出雲国に集り給ふ故に、神在と申なり。その祭に赤小豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、神在もちひと申よし云々いへり。此事懐橘談大社のことをかける条にも云ず。されど、犬筑波集に、出雲への留主もれ宿のふくの神とあれば、古きいひ習はしと見ゆ。また神在餅は善哉餅の訛りにて、やがて神無月の説に附会したるにや。尺素往来に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり。年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ。善哉は仏語にてよろこぶ意あるより取たるべし。」

出雲の「神在餅(じんざいもち)」が訛って「ぜんざい」になったという説があるが、逆であろう、と。なかなかに謎です。……いずれにせよ、現在のような「ぜんざい」は、砂糖を潤沢に用いることが出来るようになった、江戸後期以降のものであることは間違いないところ。

では「汁粉(しるこ)」とは何でしょうか。「汁に入っている子(具)」と考えれば無理もないのですが、江戸時代の学者は面白いことを考えています。

『類聚名物考』(山岡浚明・江戸中期)
「ぜんざい 善哉 今案、善哉は今江戸の俗に云しるこ餅の事也。古へは皆ぜんざいと云しなり。善哉の文字は、後に塡たる事なり。然れども京都にてもしるこ餅といひし事も、ふるき俗言にや。その故は今上野東叡山にては、此善哉餅を長谷餅といふ。その故いかにといへば、京都近江の三井叡山より京へ出る道に、長谷越といふあり。今俗にはしるたにごえといふ。清水の山中へかゝりて、渓谷の間を行道故に、常の道のあしく、清水ながれて、道の泥濘のしるき故にしかいふ也。この善哉餅も赤小豆の粉の煮られて、しるくねばる故、谷道のあしきが如くなれば、俗にしるこ餅といふをそれより転て長谷餅とはいふなり。是みな俗言なれども、云伝ふる所も又久しき歟。日光山内にては、やはり善哉ともしることもいへども、東叡山内のみにては長谷餅とはいふ也。」

江戸の寛永寺では善哉を「長谷餅」と呼んでいる。これは比叡山から京へ行く途中の「長谷越え」から来たもので、滑りやすいぬかるみ道を意味するのだ、と。そのぬかるみ状態「しるき」から来た名前が「しるこ」なのだ、と。かなり強引ですね(苦笑)。

次回配信日は、10月18日です。

ぜんざい

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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