第4回 有職覚え書き

コラム|2021.9.6
文=八條忠基

季節の有職ばなし

●伴善男

9月22日は伴善男(とものよしお)が伊豆に流罪となった日です。

『日本三代実録』
「貞観八年(866)九月廿二日甲子。(中略)是日、大納言伴宿祢善男。善男々右衛門佐伴宿祢中庸、同謀者紀豊城、伴秋実。伴清縄等五人。坐焼応天門当斬。詔降死一等、並処之遠流。善男配伊豆国、中庸隠岐国……」

世に言う「応天門の変」です。

『十訓抄』(菅原為長?・1252年)
「清和天皇、いまだ幼くおはしましける時、大納言伴善男卿、身は賤しながら朝恩にほこりて、大臣を望む心つきにけり。
その時、左大臣信公とておはしけるを、『いかでか、この人を咎に申し行ひて、その代りに我ならむ』と謀りごちて、子息右衛門佐に命じて、貞観八年閏三月十日の夜、応天門を焼きて、『信公大臣のしわざなり。咎重き』よしを讒し申すあひだ、死罪に行はるべかりけるを、忠仁公いさめ申させ給ふによりて、その儀は留りにけれども、出仕に及ばず、こもりゐられたりけるほどに、月ごろを経て、善男の逆意あらはれてのち、信公、勅勘を許り、善男卿、伊豆国へ流し遣はさる。子息たちも方々へ配流されにけり。」

実際のところ、この放火事件の犯人は不明で、『日本三代実録』や『伴大納言絵詞』通りの事実が本当にあったのかはわからない、というのが現代の解釈です。応天門放火は、当初は左大臣・源信が主犯とされましたが、やがて大納言・伴善男が真犯人とされて罰せられます。結果として一番の利益を受けたのは、政敵を一掃した藤原氏、ということになるでしょう。

そうなると「利益者が真犯人」という考えから、藤原氏が真犯人ではないかという説も古くからありました。その理由の一つが、「伴善男は大伴氏。大伴氏の門である応天門を焼くわけがない」というものです。応天門が大伴氏の門というのはどういうことなのでしょうか。

中国・唐の洛陽。その宮城の南の正門が「応天門」。605年に建造され、当初は「則天門」とか「紫微宮門」と呼ばれていましたが、やがて焼失。唐代初期に再建され、睿宗(662-716)の時代に、母である則天武后の「則」の字を避けて、「応天門」としました。

日本では、宮門は全国の国造(地方豪族)が建造し、門号は、その門の守衛を担う門部氏族の名がつけられていました。天皇親衛隊である大伴氏が守衛していたのが「大伴門」です。それが弘仁九(818)年に、中国文化を礼賛の嵯峨天皇により、各門は唐風の門号へ変更されました。

『日本後紀』巻廿六逸文
「弘仁九年(818)四月庚辰《廿七》。於前殿、講仁王経。縁旱災也。是日。有制、改殿閣及諸門之号。皆題額之。」

このとき、「大伴門(おおとももん)」が「応天門(おうてんもん)」と改められたのです。単なる語呂合わせの改称にも見えますが、洛陽の応天門との関係がゼロとは考えられませんね。同じように大内裏外郭12の門が唐風門号になっています。いくつか例をしめしますと……。

佐伯門(さえきもん)→ 藻壁門(そうへきもん)
 伊福部門(いふくべもん)→ 殷富門(いんぷもん)
 猪養門(いかいもん)→ 偉鑒門(いかんもん)
 山部門(やまべもん)→ 陽明門(ようめいもん)
 建部門(たけるべもん)→ 待賢門(たいけんもん)
 的門(いくはもん)→ 郁芳門(いくほうもん)
 壬生門(みぶもん)→ 美福門(びふくもん)

『拾芥抄』(鎌倉中期)
「延暦十二年(793)六月庚午。令諸国造新宮諸門。尾張美濃二国造殷冨門、伊福部氏也。越前国造美福門、壬生氏也。若狭越中二国造安嘉門、海犬耳(海犬甘)氏也。丹波国造偉鑒門、猪使氏也。但馬国造藻壁門、佐伯氏也。播磨国造待賢門、山氏也。備前国造陽明門、若犬耳氏也。備中備後二国造達智門、丹治(多治比)氏也。阿波国造談天門、王手氏也。伊与国造郁芳門、達部(建部)氏也。」

ここでは平安京造営当時からの名前となっていますが……。ともあれ大伴氏の後裔である伴善男が、先祖栄光の応天門を焼くわけはない、というのです。しかしまぁ、自分が被害者になる「自作自演」の可能性だって考えられるわけで、本当に真相は闇の中です。
画像は『伴大納言絵巻』(写本・常盤光長画・国立国会図書館デジタルコレクション)から、逮捕された伴善男が連行される牛車。後ろ向きに乗車しているのは罪人の作法です。

『伴大納言絵巻』(写本・常盤光長画・国立国会図書館デジタルコレクション)

●鎌倉の禁酒令

新型コロナウイルス感染症の影響で、お酒の販売に厳しい制約が課されています。日本では何回か禁酒令のようなものが出されましたが、9月に関する話題では、鎌倉時代の禁酒令があります。

『吾妻鏡』
「建長四年(1252)年九月卅日辛亥。天晴。鎌倉中所々、可禁制沽酒之由、仰保々奉行人等。仍於鎌倉中所々民家、所註之酒壺三万七千二百七十四口云云。又諸国市酒全分可停止之由云云。」

「沽酒」、つまり酒の販売を禁止したもの。この時代には酒造が盛んとなり、御家人の生活を圧迫するようにもなったため、酒の販売を全面的に禁止したのです。鎌倉では何と3万7274個もの酒壺が取り締まり対象になったというのです。しかしちょっと厳しすぎたということで、すぐに……

「建長四年(1252)十月十六日丁卯。天晴。沽酒禁制、殊有其沙汰悉以被破却壺、而一屋一壺、被宥之。但可用他事、不可有造酒之儀。若有違犯之輩者、可被処罪科之由、固定下之云云。」

1軒に1壺の保有は認める、という緩和策が出ました。そもそも、幕府要人そのものが酒に寛容。『吾妻鏡』から見てみましょう。

「建長六年(1254)閏五月小一日壬寅。相州随身下若等。参御所給。将軍家出御広御所。御酒宴及数献。近習人々被召出之。各乗酔。于時相州被申云。近年武芸廃而自他門共好非職才芸。触事已忘吾家之礼訖。可謂比興。然者弓馬芸者追可試会。先於当座被召決相撲勝負。可感否御沙汰之由云々。将軍家殊有御入興。」

酒宴で大盛り上がり。相撲を取って武芸を競おうという話になりました。酔った勢い、というやつですね。

「負者不論堪否。以大器各給酒三度。御一門諸大夫等候杓。凡有興有感。時壮観也。」

相撲に負けた者は、有無を言わさず大盃で3杯飲まされ、ドンチャン騒ぎであった、というのです。禁止する側がこれですから、禁酒法が守られるわけもありません。

「建長六年(1254)十二月大十二日庚辰。今日。於御所有評定。其後相州依召参御前給。兼被儲酒肴。御一門若輩。并佐渡前司基綱。和泉前司行方。前太宰少弐為佐以下宿老。多以候座。被召出魚鳥等於其砌。令壮士等庖丁之。相州殊入興云々。御酒宴殆及歌舞之儀云々。」

このときは幕府御所で政治の会議の後、宴会。宴席で華麗な包丁捌き、見る者感動して、またまた歌って踊ってのドンチャン騒ぎです。この禁令の後、朝廷が「壺銭」という税収を得ようと酒屋を認可したりし始めて、酒販禁止令は有名無実となってしまいました。そもそも日本人は大昔からこうなのです。

『後漢書』(東夷伝倭条)
「人性嗜酒。多寿考、至百余歳者甚衆。」

日本人はお酒好きで寿命が長いんですって。おなじみ『魏志倭人伝』では……

『三国志』(魏書・烏丸鮮卑東夷伝倭人条)
「始死停喪十余日、当時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。(中略)其会同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。」

お葬式の時、喪主は泣いているが、参会者は「歌舞飲酒」ですって。昔も今も日本人は……(苦笑)。そして全員が分け隔てなく同じ座に座って、老若男女が入り交じり、みんな仲良くお酒好き。これが大和民族なのです。

『酒飯論(しゅはんろん)』)(写本・一条兼良詞書・国立国会図書館デジタルコレクション)

画像は『酒飯論』(国立国会図書館デジタルコレクション)。
例によりまして裸踊り?が登場しております。

次回配信日は、9月21日です。

八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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