都築響一 & nobunobu(鈴木伸子)が歩く

昭和ビル遺産の記憶 #9│新宿駅西口広場(新宿)

カルチャー|2023.11.10
文=鈴木伸子 写真=都築響一

失われつつある昭和の名ビル

 2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
 1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
 近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
 東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
 そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を取材撮影し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
 連載第9回は、坂倉準三の都市デザインの集大成とも言える新宿駅西口広場を取材しました。

新宿駅西口広場

住所 東京都新宿区西新宿1丁目   
竣工 1966年   
設計 坂倉準三建築研究所
施工 鹿島建設(開口南側)
   野村工事(中央開口部分)
   西松建設(開口北西側)
   間組(開口北東側)

新宿駅西口駐車場を利用する自動車は、西口広場地上からこのループ状の道路を通って地下の駐車場に出入りする。現在、新たな地下駐車場出入口がスバルビル跡地に建設中
西口駅前、小田急百貨店新宿店本館、新宿西口ハルクをつないでいたカリヨン橋の上から広場を眺める。地下駐車場の換気塔が間近に見えるが、すっかり植物に覆われている。 カリヨン橋は小田急百貨店新宿店本館解体のため、本館側はすでに通行止めになっており、その後解体されるようだ
新宿西口ハルク前西側の換気塔のみ植物に覆われず、全面タイル貼りの本来の姿を見ることができる。以前はこの場所からも自動車が地下駐車場に出入りすることができたそうだが、現在は閉鎖されている。西口広場の施工中、坂倉準三が現場を確認した際にこの換気塔を見て黒いタイルが多すぎると指摘。研究所の若手スタッフが黒いタイルに印をつけて回り、うち2割程度を張り替えてもらったという
地上から地下広場への階段まわりにも、窯変タイルが貼られている。広場が竣工してから60年近くの年月が経ち、写真奥側の京王百貨店前の白い外装材の出入口のように新たな素材で改修されているものも見られる
広場南側の換気塔はジャングルのようなモジャモジャ状態
西口広場地上のバスターミナル。以前は西口駅前全体にバスターミナルが広がっていたが、広場の建設で現在の形に整備され、地下から階段で各乗り場にアクセスできるようになった
左_地下広場から地上への階段も窯変タイル貼り。温かみがあり、カラフルでありながら落ち着いた色味のこのタイルは、本来は暗い地下空間を明るく演出し、地上とをつなぐ役割を果たしてきた
右_広場全体に共通して用いられている窯変タイルは、このプロジェクトのために特注されたものと思いきや、京都の瓦屋さんが「大仏タイル」として販売していた既製品。階段手すり部分に使われているもののみ特注で焼いてもらったそうだ。 部分的に他のタイルで補修されている箇所と見比べると、この窯変タイルの色ムラのある味わい深さを改めて実感する
地下の南側にある新宿駅西口広場イベントコーナー。新都心への地下道に面していて外光も入るので明るい雰囲気。防災展、矯正展といったイベント、古書市、セールなどが常に行われていて、立ち寄る人も多い。2000年から現在の形で運用されているが、以前のこの場所は都営駐車場だった
新宿駅西口の象徴とも言える「新宿の目」。旧スバルビルの地下に1970年に設置された。彫刻家・宮下芳子の作品。宮下はスバルビル内にも鮮やかな蝶が舞う巨大なモザイクタイル壁画なども作成している。スバルビルは、西口広場と同じ66年竣工。2018年に閉館し解体。その跡地に現在、西口広場駐車場の出入口が建設されている
スバルビル解体後も「新宿の目」は健在。以前は「目」の部分全体が照明で輝いていたが、現在は点灯していない
「新宿の目」の近くに、地下の駐車場への歩行者用の出入口階段がある。壁面は全面窯変タイル貼り。このタイルは、同じ窯の中の炎や煙の具合による、釉薬の微妙な色の変化が味わいとなっているもので、60年代当時、坂倉建築研究所ではよく使用されていたらしい
地下駐車場への階段を下りると、全面窯変タイル貼りの空間が広がっていて圧倒される。タイルの色合いや縦横の配置に様々工夫が見られる点に感心する
地下駐車場の現在の出入口。新たな出入口ができると、この出入口はどうなるのだろうか。あまり人目に触れることのないこの付近の壁面や足元にも窯変タイルが使われている
現在の地下駐車場出口から地上を覗く
現在すでに廃止されている新宿西口ハルク側の出入口。シャッターが閉じられていた

再開発の波にのまれる新宿駅西口の象徴的風景

 この数年、新宿駅西口の風景が徐々に変わってきています。
 大きな変化は、昨年10月の小田急百貨店新宿店本館(1967年築)の閉館とその後の解体。それ以前にも、西口広場を取り囲む明治安田生命新宿ビル(1961年築)、スバルビル(1966年築)が閉館・解体され、明治安田生命新宿ビル跡地には23 階建てのビルが建設中です。
 それと並行して進みつつあるのが、西口駅前広場の再開発。広場の地下2階にある駐車場への新たな出入口がスバルビルの跡地に建設中で、これが完成すると、現在の出入口である広場中央のループ状の道路は廃止され撤去される可能性があるかもしれません。
 将来、西口広場は現在とは大きく姿を変えて、歩行者専用の広場になる計画があるようで、西口駅前に貼ってあった「新宿グランドターミナル」のポスターには、今後の新宿駅東口、西口の再開発計画が新聞記事風に列挙され、西口広場については、「人中心の西口駅前広場へ」という見出しとともに、現在は車が通行している広場の地上・地下を数多くの歩行者が行き交う絵が掲載されていました。
 広場の都市計画や将来像について東京都都市整備局に問い合わせてみたところ、西口広場の整備は令和28年度に完了予定の長期的なもので、現在はまだその具体的な計画は決定していないということ。また、新宿駅西口駐車場を所有、運営する小田急電鉄に、今後、駐車場の自動車と歩行者の出入口がどうなるのか質問してみましたが、現段階では答えられる情報はないということでした。
 しかし、今後駅前のビルの再開発が進んでいけば、今までの西口を象徴する広場の風景も大きく変化するはず。知らず知らずのうちに愛着を持っていたこの場所を今のうちにしっかり見届けておかなければと取材撮影を思い立ちました。

 7〜8年前のある日、私は新宿西口ハルク8階のレストランで昼食を取りながら西口駅前を見おろしていました。子どもの頃から見慣れた風景ですが、なぜかその時初めて、広場を取り囲んでいるビル風景に歴史的な趣きを感じたのです。
 以前は真新しかったビルも、今改めて見ると60年代ならではのデザイン、ディテールが際立ち、今時のビルにはない味わいが感じられます。時代を経たことで60年代当時のデザインを相対的に見られるようになったこと、経年変化により建物の風合いが変化したことで、建築物としての見え方が変わってきたということなのかもしれません。
 新宿駅西口は、広場を取り囲むビルのほとんどが高度経済成長期に建てられたものであり、その時代にできた都市景観をそのまま維持してきたという点で意味のあるものだと言えます。この都市景観は歴史的な価値のあるものではないかと思えてきたのです。
 西口駅前の都市空間を秩序だった美しいものにしたのはやはり、小田急百貨店新宿店本館と西口広場を設計した坂倉準三のデザイン力によるものでしょう。
 しかしその新宿駅西口の素晴らしさに気付いてから数年後の2018年にはスバルビルが取り壊され、2020年のコロナ禍の中、久しぶりに新宿に出かけてみると明治安田生命新宿ビルの取り壊しが始まっていました。その後小田急百貨店新宿店本館の再開発が発表され、現在は建物の解体中。さらに西口広場も再整備されるとなると、この新宿駅西口から坂倉準三の業績はまったく消え去ってしまうことになります。

紆余曲折の末、「太陽と泉のある立体広場」として完成

 坂倉準三は戦前にパリのル・コルビュジエのアトリエに在籍し、建築設計および都市計画のプロジェクトに関わり、帰国後には日本の建築界を牽引した戦後モダニズムの巨匠です。
 坂倉は1950年、大阪難波の髙島屋新館の増改築を担当し、大きな成功を収めます。ターミナル駅の人の流れをうまく百貨店へと導き、明るく広々とした売場空間を展開したことで髙島屋に大幅な売り上げ増をもたらしたのです。
 その評判を聞きつけた東急の五島慶太は、坂倉に東急会館(東急百貨店西館)の設計を依頼。坂倉は、戦前築の玉電ビルを増改築し、国電(現JR)の線路上にブリッジ状の建物を築いて東館との間を繋ぎ、東急東横線、国電、地下鉄銀座線のターミナルビルとすることで迷宮と化していた渋谷駅の諸問題を解決。この渋谷での成功は、さらに新宿小田急からの依頼へとつながります。

 1950年代、戦後復興を進めていた東京都は1958年に、新宿、渋谷、池袋を副都心として開発する副都心計画を策定。新宿では西口の淀橋浄水場の移転が決定し、その跡地の開発計画と駅西口のターミナル、駅前広場、駐車場の整備などが必要とされていました。
 一方で小田急は、1959年に臨時建設部を立ち上げ、坂倉建築研究所の協力を得て駅ビル建設と西口の開発の構想を開始していました。
 西口開発にあたっては、駅前広場の建設地と新宿駅の間の土地を小田急が所有し、ここを通らなければ広場にアクセスできないため、新宿駅西口側に改札口のある国鉄、小田急、京王、営団地下鉄(現東京メトロ)の4社は協定を結び、新宿副都心建設公社を設立。結果的に、小田急電鉄が西口広場、地下駐車場の設計と建設を委託されることになります。
 1960年代は、日本各地で駅前広場と地下街の開発が進んだ時代でした。都内では東京駅の八重洲地下街、新宿駅東口のサブナード、池袋駅東口のショッピングパークなど、駅前駐車場と地下街の一体開発が行われ、駅へと繋がる地下のコンコースが整備されていきました。

 当初、西口広場の計画は東京都建設局と東京都首都整備局の担当部に坂倉研究所の所員が協力する体制で、地上を交通広場、地下を駅コンコースと商店街、駐車場にする計画で進められました。
 東京都から出てきたプランは、地下が密閉され地上広場の中央に換気塔を建てるという案。給排気の処理には6〜7階建ての換気塔ビルを建てなければならないことがわかり、それを知った坂倉準三は「こんなものを真ん中に建てられますか」と、その案を無視したとか。
 やはり換気塔ビル案に限界を感じていた坂倉研究所所員と小田急臨時建設部の設備担当者は、いっそのこと広場の中央に穴を開けたらと考えます。
 東京都側には、それでは地上の駐車スペースやバスターミナルの面積が失われると反対されますが、坂倉研究所側は穴開き案を支持。東京都の交通局は都バスの乗り場を確保するために換気塔ビル案を支持していましたが、一方で消防庁は災害時の避難、救助、排煙などには穴開き案が有効とこちらを支持。その後、地下広場の換気方法のために委員会や分科会が設置され、なんと3年もの間、検討や実験が行われます。
 そして1964年2月の東京都都市計画地方審議会において、中央穴開き案が採択。
 広場に穴を開ければ地下にも自然光が入り、自然換気ができることにより電気代も低減、換気塔を建設する工事費や騒音もなく、防災面での利点もあるということが穴開き案採択の理由でした。
 64年10月から始まった工事は約2年の工期を経て66年の11月に完成。当時のこの広場のキャッチフレーズは「太陽と泉のある立体広場」だったそうですが、この「泉」とは広場中央のループ状道路の左右両側に設けられた噴水(動水池)のことで、この泉は現在は植栽に造り替えられています。そのほか、地下広場のコンコースには磁器タイルが大きな円形模様に貼られていて、これは広場の特徴的なデザインとなっていましたが、現在は別の素材で貼り替えられています。

坂倉準三の建築・都市計画と西口広場の記憶

 この西口広場は、60年代末に「新宿フォークゲリラ」の舞台となったことでも多くの人に記憶されています。60年代なかばから新宿は若者の街としての性格を増していきます。この時代、70年安保反対闘争やベトナム反戦運動などが盛り上がり、学生運動やデモ行進なども激化していました。
 ちょうどその頃新宿にできたこの“広場”では、69年2月から7月にかけて、団塊の世代の若者たちが集まり、ギターを弾いて反戦フォークソングを歌う集会が繰り返されました。6月末の大規模な集会ではついに機動隊による強制排除が行われ、翌7月中旬には人々が立ち止まって集会を行わないよう地下広場の表示が「広場」から「通路」へと変更されます。これは日本の公共空間のあり方、広場とは何かを問題提起する事件として今も語り継がれているものです。
 その西口広場の地上では、最近までは詩集を売っている人、路上ライブをやっている人、募金活動をしている人などが見られ、60年代新宿のスピリットが継承されているように思えましたが、小田急百貨店新宿店本館の解体工事が始まり、人通りは以前より少なくなった模様。今後、小田急百貨店新宿店本館跡では48階建ての超高層ビルの建設が始まり、その後も京王百貨店などの再開発が計画されているため、新宿駅西口は、渋谷のように、今後10年以上の間、常に普請中の街となるようです。
 今から約60年前、1964年の東京オリンピックの前後にも、この西口駅前の街並みがすっかり変わったわけですから、時代は巡って、またそのサイクルが訪れたということなのかもしれません。諸行無常という言葉を思い出します。
 しかしこの場所から坂倉準三の遺産がまったく失われてしまうのはあまりに悲しいこと。すでに渋谷駅の坂倉によるターミナル建築は失われつつあります。この新宿駅西口の小田急百貨店新宿店本館と西口広場は、坂倉の代表作であり、その都市デザインの集大成とも言えるものです。令和28年度、今から約23年後の新宿駅西口広場には、彼の建築、都市計画の理念が何か残されているのでしょうか。

■撮影後記 都築響一

 1969年に新宿西口広場は西口“通路”になったはずが、いまはまたしれっと“広場”に戻っている。中学生のときにフォーク集会を見に行けた大切な思い出、小さな街のようだったホームレス段ボール村・・・・・・世界でいちばん乗降客の多いらしい新宿駅の地下空間が僕にとっても特別な場所だった時代を、撮影しながら思い出した。
 コロナ禍が始まる少し前まで、西口の歩道橋の柱あたりにはたぶん30年近く「私の志集300円」というプラカードを首から提げた女性が毎夜立っていて(実は二代目だったらしい)、黙ったまま真っ直ぐ一点を見つめる彼女の姿を見るたび、背筋が伸びる思いになった。何冊か志集も買わせてもらったし(写真は撮らせてくれなかった)、これはあまり書いたことがないけれど、本をつくる僕の人生のなかで唯一のライバルというか、目標だと勝手に思わせてもらってきた。世界中の出版社から相手にされなくなっても、ああしてプラカードを提げて道に立ってればいいんだと。
 西口ではいろんなビルが壊され、あらたに建てられ、地下はますます迷路みたいになっていくのだろうが、ずっと新宿がいちばん好きで生きてきた自分にとって、そういうのは正直どうでもいい。なくなって(いなくなって)いちばん寂しいのは「私の志集」の、あのひとだけだ。

鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。

都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。

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