失われつつある昭和の名ビル
2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍となってからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を哀惜し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
連載第3回は昨年10月に閉館し、現在解体中の小田急百貨店新宿店本館を取材しました。
小田急百貨店新宿店本館
住所 東京都新宿区西新宿1-1-3
竣工 1967年
設計 坂倉建築研究所
施工 竹中工務店
トップの写真/新宿駅西口広場から小田急百貨店本館を眺める。広場は1966年竣工。本館は67年竣工で、どちらも坂倉準三設計。現在、本館建物は解体中。西口広場も再整備が進められていて、写真手前のループ状の道路も撤去される計画だという
右/夏空を映していた14階のミラーグラス。取材撮影は昨年7月。外気温33度を超える酷暑の日だった
新宿駅西口の顔・小田急百貨店本館
昨年(2022年)10月2日、新宿西口の小田急百貨店本館が閉館しました(その後、百貨店はお隣の新宿西口ハルクに移転して営業中)。
戦後モダニズムの巨匠・坂倉準三が設計した小田急の鉄道ターミナルとデパートはただいま解体中。その後は再開発されて6年後の2029年度、48階建ての超高層ビルとなる予定です。
2020年には、同じく坂倉が設計した渋谷の東急東横店が閉店し、現在その建物の解体も進んでいます。こうして坂倉が、師であるル・コルビュジエの精神を受け継いで実現させたターミナル建築が相次いで東京から消滅したことは、戦後モダニズム建築にとって一つの時代の終焉だったとも言えそうです。
新宿の小田急百貨店と言えば、子どもの頃から親しんできたデパート。家から歩いて山手線に乗れば15分ほどで到達でき、新宿駅と一体化した、永遠にそこにあり続けてくれる場所だと思っていました。この小田急百貨店を含め新宿西口広場を囲んでいるビルはほとんどが1960年代築。それが、2018年に新宿スバルビル(66年竣工)が、20年には明治安田生命新宿ビル(61年竣工)という具合に、一棟一棟解体されてゆき、今後、やはり坂倉の設計による西口広場も歩行者用の空間を拡大させて現在の形を大きく改変する計画があるとか。また、京王百貨店の再開発計画もすでに発表されています。
このように築50年以上を経て建て替えの時期を迎えている新宿駅西口のビル群。なかでも、新宿駅と一体化していると言ってよいほどの巨艦・小田急百貨店本館がなくなることへの喪失感は大きく、閉館前にその建物の内外に創建時の姿を探し回ってみました。
まずは外観。素晴らしいのは、西口広場に面した水平で統一感のあるファサード(前面)のデザインです。実はこの建物は、西口広場側から見て左側が地下鉄ビル(66年竣工)、右側が新宿西口駅本屋ビル(67年竣工)という二つのビルで構成されているのですが、右側の新宿西口駅本屋ビルのみが坂倉準三設計によるもの。
しかし二つの異なるビルの外壁には同じアルミのプレス成型パネルが使われているため、一見して一つの巨大なビルに見え、西口広場とも一体感のある駅前空間が生み出されています。この統一した外観デザインを実現するために、坂倉準三自身が地下鉄ビル側に了解を取り付けたとのこと。
二つのビルの分かれ目は、百貨店9階から地下鉄ビル側の屋上に出てみるとよくわかります。
そこからは新宿西口駅本屋ビルの9~14階部分の黒いミラーガラスが間近に見渡せて、この高層部のデザインが建物全体にモダンなアクセントをもたらしていると実感できます。
また、5基のエレベーターの収まるシャフト部分の外壁は茶色いタイル貼りになっていて、その色合いが上層階に向かって徐々に淡いグラデーションになっているのも洒落ています。
67年の開店時に、この9~14 階は「小田急スカイタウン」と命名され、当時のデパートには必ずあった大食堂(お好み食堂)、子供遊園、展望食堂街、書店、文化教室・料理学校と様々な店舗施設が揃う“味と美と文化のオアシス”に。なかでも11階の文化大催物場は、美術館や博物館に収蔵されているクラスの品を展示できる、百貨店初のレベルと広さの展示施設だったそうです。
その“スカイタウン”という響きに、私自身の小学生の頃の記憶が呼び起こされました。70年代は、西新宿に京王プラザホテル、新宿住友ビル、新宿三井ビルなどの超高層ビルが次々と建設されていった時代。日本一の高さというビルが西新宿にオープンするたび、その展望スペースやレストランに家族揃って出かけたものです。そんな時、新宿駅から新都心への玄関口となっていたのが、この小田急百貨店本館と西口広場でした。
西口駅前1階の正面の入口から建物内に入ると南側は小田急新宿駅のコンコースで、その中央にあるのが、この百貨店建築の中でも最大の見せ場である「大階段」。間口の広いドラマチックな階段空間ではファッションショーやコンサートなど数々のイベントが開催されてきたそうで、デパートの正面玄関としての風格を漂わせていました。
また、階段、エスカレーターで地階へと下りていくと、西口広場、小田急、JR、地下鉄などの鉄道各線の駅との間を人の流れが淀みなく動いている様子を見渡すことができ、これこそが坂倉という建築家がこの西口駅前を一体化してデザインすることによって生み出された都市空間なのだと感じ入ります。
新宿の西口駅前が現在のような形になったのは、1964 年の東京オリンピック前後のことでした。戦後復興と東京の人口増に対応するため、1960年に東京都は「新宿副都心計画」を決定。その内容は、65年に廃止され移転する淀橋浄水場跡地に新宿新都心を建設し、西口駅前に広場を整備するという壮大なものでした。
西口広場の整備は、国鉄、小田急、京王による共同事業でしたが、駅前の土地を所有する小田急がその建設を担当することになり、それ以前から小田急の新駅ビルの計画に坂倉準三が関わっていたため、西口広場と地下駐車場の設計監理も坂倉が担当することになったのです。
坂倉は、1929年、28歳の時にフランス・パリに渡り、ル・コルビュジエのアトリエに在籍。38歳で帰国し、その後、日本国内で建築家として活躍しましたが、その渡仏以前の経歴は、建築家としてはかなりユニークなものでした。
岐阜の造り酒屋の四男に生まれた坂倉は、東京帝国大学では美学を修めた文科系。学生時代に建築史の研究をするうちに建築家を志すようになり、卒業後パリに遊学します。そこで、すでにル・コルビュジエのアトリエに入所していた前川國男の紹介を得て所員となり、一時帰国を挟みながら約7年間ル・コルビュジエのアトリエに在籍。その間に、パリ万博日本館の設計でグランプリを受賞し、世界的な評価を得ることに。帰国後には、パリで知り合った、文化学院の創立者・西村伊作の娘・ユリと結婚しています。
日本人の弟子の中では最も長い期間ル・コルビュジエのアトリエで働いた坂倉は、建築のみならず都市計画のプロジェクトも担当し、師の提唱した理想都市の構想である“輝く都市(La Ville Radieuse)”の日本における継承者ともなったのです。
坂倉は1950年に髙島屋大阪難波店の新館改増築“ニューブロードフロア”の設計を担当。これは、南海電鉄難波駅の戦災で焼失したホーム高架下を髙島屋大阪難波店に接続させながら店舗フロアに改修するもので、“谷川の水の流るる如く”人の流れを店内に導き、その結果この売場は、大阪の百貨店業界売り上げ1位という成果をあげます。
その評判を聞きつけ、東急の五島慶太が渋谷駅前の東急会館(東急東横店西館)の設計を坂倉に依頼。坂倉は迷路と化していた渋谷駅を、快適で機能的なターミナルに変身させました。
続いてもたらされたのが小田急からの依頼。そんなことで、この新宿西口の小田急百貨店本館は、その前に広がる西口広場とともに、建築と都市計画の結びついた坂倉作品の集大成と位置付けられるものになったのです。
67年の竣工当時は近未来的だと言われ、“輝く都市”として機能してきたこの都市空間は、私が見る限りはまだまだ古びていないと思われるのですが、再開発されることに。現在、小田急本館の外壁には解体工事用のパネルが設置されつつあり、西口広場の再整備工事も進んでいます。
一方で、昨年10月に小田急百貨店本館が移転した新宿西口ハルクは、本館より早い1962年に開店していた創業店舗(当初は、62年に竣工した東京建物新宿ビル=現在の新宿西口ハルクに小田急百貨店が入居する形で開店)。
今再び小田急百貨店の本拠となった新宿西口ハルク店内を巡ってみると、1階階段やエレベーターまわりなどに62年の創建時からのものと思われる大理石貼りの重厚な内装が見られ、中2階の喫茶コーナーやゴルフ用品売場などが1階の吹き抜け空間を取り囲むつくりなどにも趣きが感じられ、“シブいビル”好きの方々には一見の価値のある空間なのではとおすすめいたします。
このハルク館8階レストラン街の焼肉レストラン・叙々苑の窓側のカウンター席から見える、60年代築のビルが西口広場の周りに建ち並ぶ街並みは、私にとって幼い頃から慣れ親しんだ風景でしたが、そのビル群も一棟また一棟と解体され、街は日々刻々と変化していっています。
2029年、小田急本館が超高層ビルに建て替わった時、この風景はどのようなものになっているのか、東京の街そのものがどう変わっているのか。このところの東京の急速な変化に取り残されつつある私には、予測することもできません。
■撮影後記 都築響一
新宿駅西口の原体験は地下広場のフォークゲリラ集会で、中学生のころ恐る恐る見に行っていた。それから「広場」は「通路」にされてしまったけれど、こんどはホームレスの段ボール村になって、体育座りしていたフォーク時代よりもさらに地べたに近いエネルギーが渦巻いたりしていた。
何年か後に小田急が高層ビルになっても、隣の京王が同じように建て替えられたとしても、渋谷駅みたいに去勢されはしない、しぶとく粘っこい庶民の鼻息が新宿という磁場から消え去ることはないはずだ。夜になると小田急の前に立って「私の志集」を売っていたおばちゃんは、いまも健在だろうか。
鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。
都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。