この1年、ことあるごとに東寺に足を運んでいて気づいたことがある。
それは、この寺が真言密教の根本道場であり、今は多くの拝観者が訪れる史跡名所である一方、地域の人々にとっては「弘法さん」の名で親しまれている、生きた祈りの場であるということだ。
早朝4時半。広い境内の門が一つずつ開くと、同時に一人、また一人とお参りする人が集まってくる。もう日課なのだろう。慣れた手つきで灯明を捧げ、修行大師像に熱心に手を合わせる人や、散歩の途中なのか、大師像や鎮守八幡宮の前で軽く一礼し、足早に過ぎる人。少しずつ目覚め始めた街のざわめきの中、三々五々、砂利を踏み締め歩く音が静かに響く。
右/鎮守八幡宮。
すでに御影堂(みえどう)近くの唐門前には、数十人の参拝者が待機している。やがて、6時を知らせる鐘の音とともに唐門が開くと、人々はまず鐘楼に向かって手を合わせ、鐘をすべて聞き終えてから御影堂へ向かった。これから生身供(しょうじんく)が始まるのだ。
生身供とは、空海に食事とお茶を差し上げるお勤め。朝参りとも呼ばれている。かつてこの御影堂のある一郭は、伽藍の北西に位置することから西院と呼ばれ、空海の住房があったという。
空海が東寺の造営に携わっていた50代は、生涯でもっとも多忙であり、表舞台で華々しく活躍した時期だった。おそらく、平安京内に拠点ができたことが関係しているのだろう。
著作活動も盛んで、東寺を給預された弘仁14年(823)、つまり50歳の前後には、『即身成仏義』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』『吽(うん)字義』という、いわゆる三部書を著している。長年の熟慮を経て、師である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から伝授された教えを、ようやく密教教学として体系化させることができたのだ。そして、その教学を実践し広めるべく、空海はさまざまな社会活動に携わっていく。
すでに時代は、嵯峨天皇から淳和天皇の御代。その中で、空海は変わらず天皇からの信頼を得て、当時天皇のための庭園だった神泉苑や宮中の内裏で祈雨法(雨乞い)を修するなど、密教の修法を社会や人々のために役立てていった。
一方、東寺の造営では、講堂を着工した翌年の天長3年(826)に、五重塔の建立に取りかかっている。
ちなみに、この塔の用材は、伏見の稲荷山から調達されたと言われている。鎌倉時代の成立とされる『稲荷鎮座由来記』によれば、そもそものはじまりは、入唐中の空海がとある霊山で老翁と出会い、自分は神であるが仏法を擁護するつもりがあると言われたことにある。老翁は神が化身した姿だったのだ。空海も密教を広めるにあたり、それを望んだ。帰国後、山林修行をしていた空海は、紀州田辺で老翁と再会。改めて以前の約束を誓い合った。その老翁が、空海が東寺を給預されてまもなく、稲を背負い、手には杉を持って東寺の南大門に来臨した。空海は歓待し、寺近くの家(現在八条二階堂屋敷旧跡)に逗留させ、その後東山(現在の稲荷山)に鎮座させた。それが伏見稲荷神社で、このご縁により、空海は東山の御神木を用材として調達することができた。さまざまある伝承の枝葉を削ぎ落とし、ごく簡単に説明するとそういうことになる。
実はこの老翁、つまり伏見稲荷の神と東寺の交流は、今も脈々と続いている。老翁が逗留したと伝わる場所は、現在、伏見稲荷神社の御旅所になっていて、毎年4月末から5月3日にかけて、稲荷山の5柱の神々が氏子区域を巡られる際、この御旅所にお遷りになるのだ。
その神々が山にお帰りになる日に東寺に立ち寄り、神職と東寺の僧侶たちが、門前で威儀を正して挨拶を交わす。
「以前は境内まで神輿が入ってきていたそうです」。東寺の教学部長で、法務部長でもある山田忍良(にんりょう)さんは言う。
空海が天神地祇を畏れ敬っていたことは、南大門の西隣にある鎮守八幡宮からもうかがい知れる。一説では、時代は下って大同4年(809)に、入京まもない空海は、嵯峨天皇との密談により、この地に宇佐八幡宮の神々を勧請したと言われている。当時は天皇への復権を願った平城上皇と、嵯峨天皇の対立が顕わになっていた頃。空海はそんな事態を鎮めるべく、この社で祈禱を行ったという。はたしてその効果があったのか、嵯峨天皇は、翌年にいわゆる薬子の乱が起きたとき、その動きをいち早く察知し鎮圧している。
──寺と神社が共存し、日本の祈りのかたちとして完全に定着するのは、空海の真言密教からだろう──。以前そんな話を聞いたことがある。東寺もまた、空海によって、寺と神社が共存する基盤がつくられたと言えるだろう。
空海は唐から帰国する際、嵐で難破しかけた船上で、もし無事日本に戻れたら、鎮護国家と人々の幸せを祈ることを神々に誓ったという。その誓いどおり、東寺はたしかに鎮護国家を祈る真言密教の根本道場となった。その一方、空海の入定後は、「人々の幸せを祈る」という遺志が引き継がれ、街中の寺という立地条件を生かして市井の人々と向き合い、大師信仰を育てる場にもなっていった。その長年の積み重ねが、今の東寺の開放的で懐深い空気をつくっているのだろう。
御影堂の生身供も、参拝者とともに進められる。
導師を務める東寺の長者、飛鷹全隆(ひだかぜんりゅう)師が、五鈷鈴(ごこれい)を鳴らし、本尊である弘法大師像の前で一連の修法を行う中、参拝者は、日参している人たちが中心となって弘法大師和讃(仏などを讃える和語による讃歌)を捧げる。
空海への食事、つまり一の膳、二の膳、そしてお茶は、日々和讃の歌声とともにお供えされるのだ。
初めて参拝する人も、19番まである和讃が終わる頃にはフシを覚え、声を合わせて歌っている。
「和讃がいつから歌われているかはわかりません。ただ、参拝者が御影堂に上がれるようになったのは、明治の終わり頃からのようです。もちろんそれ以前も、生身供は僧侶がお大師様に仕える重要な儀式として、連綿と続けられていたわけですが、今のようなフシをきちんと指導されたのは、254世の長者、木村澄覚(ちょうかく)師だと聞いています。それが受け継がれ、今も続いているのです。一時コロナ禍で和讃のみ中止されていましたが、和讃と生身供がセットということが、東寺にしかない朝のお参りのかたちで、お大師様をみなで讃える貴重な儀式になっています。朝のたった1時間の生身供ですが、365日ずっと続いていて、東寺を見えないところで静かに支えている。私はそう思っています」
やがて、僧侶がうやうやしく仏舎利を捧げ持ち、参拝者の前に現れた。
人々は深々と頭を下げ、空海が唐から持ち帰った仏舎利を拝む。その間、飛鷹長者は黙々と真言や理趣経などを唱え続けている。
「東寺の長者は、お大師様のお手替わりです。つまりお大師様の代わりに壇に登り、拝んでいるということです。そのお手替わりの私が、畏れ多くもお大師様の心をなんとか継いで、東寺を治め、日本を治め、世界を治めるように精一杯つとめますという誓願をしているのです」
ちなみに、長者は東寺独特の呼び名。現在の飛鷹長者は、空海から数えて257世に当たるという。
空が明るくなってきた。御影堂の外では、お参りをする物見遊山の人々に混じって、シルバーカーを押した高齢の女性や通勤途中のスーツ姿の男性などが、お堂の前で束の間手を合わせ去っていく。日常の中の日々の祈り。そこに信仰という堅苦しさは見られない。
そんな東寺の境内が、いっそう活気づくのは弘法市のとき。空海が高野山で入定した(永遠の瞑想に入った)3月21日にちなんで、毎月21日に御影供が行われ、境内に1000軒ほどの露店が並ぶのだ。
この日は護摩焚きも行われる。もともと古代インドの「ホーマ」という儀礼がルーツで、のちに密教に取り入れられた護摩は、日本では不動明王を本尊として修法されることが多いという。御影堂では、南面に空海の念持仏と伝わる不動明王像が安置されていることから、護摩も南面で修法される。それぞれの願いごとが書かれた護摩木を燃やし、五穀、五香、香油を投じて本尊を供養することで、願主の願いが成就されるという。
「護摩木は煩悩、火は智慧を表します。つまり、私たちの煩悩を火で焼き尽くす、最高の浄化を意味します。密教は難しい教説を説くのではなく、動作や道具で具体的に教えを表す仏教です。護摩を通し、その神秘的な儀式の根幹にある、煩悩を退治して智慧にまで高めるという仏教の教えを、私たちは学ばなければならないと思います」
最後に、空海という人物を通し、今一番伝えたいことは何か聞いてみた。
「お大師様は、天長5年(828)に綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)という庶民のための学校を設立しています。当時平安京には、国の官吏を育てる、いわばエリートのための大学だけがあり、しかも儒教を中心に教えていました。でも、唐では貧富の差に関係なく、どんな子も学べる学校があった。お大師様は、そんな唐に倣って、日本でも民衆が学べる教育の場をつくりたいと、帰国以来ずっと心の奥底で思っていたのでしょう。その想いを、晩年に綜藝種智院で実現させたのです」
綜藝芸種智院は、空海が55歳のときに創立された。当時元中納言の藤原三守(ただもり)から、自らの功徳を積むためにと、前述の伏見稲荷神社の御旅所がある付近の広大な土地を寄進され、かねてから願っていた学校創立がたちまち成就したという。
綜藝種智院の創立にあたり、空海は趣意書を作成している。それによれば、綜藝種智とは、「総合的に学ぶことによって、仏の智慧の種が芽生える」という意味で、「幼く道理に暗い者たち」が無償で、しかも完全給食というかたちで、仏教をはじめ、儒教や道教、医学や音楽など、幅広く学べることを目指している。制度や階級差が厳しいこの時代に、現代の学校教育と少しも変わらない、誰もが平等に学べる教育理念を空海は考えていたのである。「世界でも、当時そんな学校はなかったでしょう」。山田さんの言葉が熱を帯びる。
さらに、注目すべきは、仏教学を教える先生が密教と顕教(密教以外の仏教)、どちらを学んだ者でも差し支えないと書いてあることだ。振り返れば、空海は『三教指帰(さんごうしいき)』で仏教と儒教、道教を比較して仏教の優位性を論じ、『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん』では、密教は顕教より優れていることを、多数の経論を典拠に論証している。だが晩年、「多くの人が悟りの世界に到達できる」ことを何より願ったとき、空海の中で宗派やさまざまなものごとの境界線が消え、すべてが必要で大切だという境地になっていた。そんな解釈も成り立つだろう。
「お大師様は本気で多くの人を仏にしたいと思っていたのでしょう。仏とは、安らかに生きるというようなことではなく、それぞれの職業や環境の中で、なんとか生きていけること、そして、本当に苦しいところでも埋没せず、みんなと仲良く生きていけることだと私は思います。そのためには、若いときから仏教だけでなく、広く、多くを学ばなければならないとお大師様は考えていたのでしょう。綜藝種智院は、結局20年足らずで閉鎖されてしまいますが、そんなお大師様の想いを引き継いで、私も法話を通して密教の教えを優しく説いていきたいと思っています」
東寺での密度の濃い時間が終わろうとしている。空海は、これまで構築してきた独自の密教思想の総仕上げとなる『秘密曼荼羅十住心論』10巻や、その精髄をまとめた『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』3巻を著し、高野山へ向かった。いよいよ旅も大詰めである。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。